教師,礼拝のひとコマ

放送礼拝 御園生先生

「 信じる  」放送礼拝  ヨハネによる福音書20章26節~29節      2017.6.26 

先日、「星言葉」という小さな本に出合いました。この本を書いたのはカトリックの神父さんの晴佐久昌英さんです。前書きには、「ふと気づいたら、この星に生まれていた。あまりにも美しく、何から何まで不思議な星。・・・ぼくは、この星が好きだ。だから、もっとこの星をよく知りたいし、この星と深く交わりたい。・・・そんな思いを、この星に生まれた仲間たちと分かち合いたくて、この本を書いた。この星の言葉には、力がある。疲れたとき、迷ったとき、一番大切なことを見失いそうなときにこの本を開けば、きっと何かいいことがあるはずだ。ぼくはそういう、この星の上の不思議なご縁を信じている。」とありました。
 そして「愛する」「生きる」「歌う」「恐れる」など50の項目を通して、神様のこと、神様の愛について書かれています。
 今日はこの本の中の「信じる」ということについて紹介しながら考えたいと思います。
本には「人は常に何かを信じています。技術を信じて車に乗り、運転手を信じてタクシーに乗ります。しかし、一方で政治やマスコミ、科学も宗教さえ信じられないときがあります。信じても裏切られることが多々あります。でも、こんな時代だからこそ「信じる」という行為には値打ちがあるのでしょう。なぜなら、あらゆる問題が、最後は「信じる」ことでしか解決できないからです。疑いは対立を生み、さらなる疑いを生みます。それに対して、信じることはそのままエネルギーです。信じれば信じるほど、生きるエネルギーが生まれてきます。どれだけ疑っても、疑いからは答えは出ません。どのみち一瞬先は、だれにもわからないのです。信じた者だけがその一瞬を切り開き、決して負けず、希望を捨てずに夜明けを待つことができるのです。」
・・・力づけられるメッセージですね。
 さて、今日の聖書の個所で、トマスはイエスがよみがえったことをすぐには信じませんでした。しかし、他の弟子たちも初めから信じていたのではありません。よみがえったイエスに会ったマグダラのマリアの話を聞いた弟子たちはそれがどういうことを意味しているか解らなかったのです。その弟子たちは自分たちの前に現れたイエスを見て初めて信じたのです。そして、「その話だけでは信じない」と言っていたトマスも、目の前に現れたイエスを見て、この方が払った犠牲によって自分が許されたのだと実感し、心から信じたのです。イエス様は、その復活を疑っていた弟子やトマスに対し、信じていないからと切り捨てるのでなく「この傷跡を見なさい。」としっかり見ることを促し、そのうえで「見ないのに信じる人になりなさい。」と愛にあふれる言葉をおかけになったのです。
 目の前にイエス様を目にしたことのない私たちは、どうすればいいのでしょうか。「見ないのに信じる人」になるためにはどうすればいいのでしょうか?
この山梨英和で聖書を読み賛美歌を歌っている私たちは、実は何度も神様と出会い、神様の愛が豊かに備えられていることを信じるチャンスを与えられています。例えば、一生懸命にやっているのにうまくいかない!なんで私ばっかり?きっと私はだめなんだ!!・・・と思ったことはありませんか?皆さんたちの各委員会や部活の方の礼拝のお話にも何回もそういうお話がありましたね。そこで悩んだことは、必ず解決が用意されていて、それまでとは違った絆が生まれたり、自分の視野が広がったり、そしてそういう機会を用意してくださった神様の愛に気づくのですね。これは、私たちがより強くなるために与えてくださった試練だったのですね。神様の愛を信じたから、何かいいことが起こったというのではありません。 私たちは、初めから全てを信じられるほど強くないのです。でも、それをご存知である神様は、私たちに何度も何度も「本当に信じる機会」を与えてくださいます。ですから、その機会を逃さず神様の愛に気づくことができれば幸いなことです。「信じるものが救われる」のではなく「信じることそのものが救い」なのだと思います。その「信じるエネルギー」をもって毎日を歩んでいきたいと思います。

お祈りします。
天の父なる神様、放送を通してですが、全校の皆さんとともに御言葉を聞き神様がともにいてくださることを見せてくださることに感謝します。私たちは苦しいことがあると、トマスのように神様の存在を疑うことがあります。しかし、そんな私たちの前に、聖書の中から「見ないのに信じる人は幸いである。」と何度も愛にあふれる言葉をかけてくださいます。 今日一日、神様のみ手の内にあって、御心にかなう行いができますように。この祈りを主イエスキリストの御名において、御前に御捧げ致します。  アーメン

放送礼拝 水泳部

テサロニケの信徒への手紙 一 5章16~18節(新p.379)

 私は水泳を始めてから今年で12年目になりました。始めたばかりの頃はタイムが順調に伸び、試合に出場できることが嬉しく水泳が大好きだったのを覚えています。しかし最近では、思うような泳ぎができずタイムも伸びず、水泳を続けることが辛いとか、水泳をやめたと思うような時が多々あります。毎日、一生懸命練習していても周りの友達のように速くなれず、センスや才能のない自分が嫌いで仕方ない時もありました。そんな私が今も水泳を続けていられるのは仲間や家族の支えがあったからです。

 今日の聖書の言葉を考えたいと思います。「いつも喜んでいなさい」の「いつも」は、なかなか難しいことだと思います。喜べるときに喜びなさい、楽しいことがあったら喜びなさい、ではありません。「いつも」と書かれています。心配事を抱えても、辛い中におかれていても、「いつも喜びなさい」とあります。しかし、ここには、神様の大きな約束があると思います。「わたしが、どんななかにあっても喜ばせてあげるから、いつも喜びなさい」という神様が言って下さっているのです。

今年の高等学校総合体育大会では、昨年に引き続きメドレーリレーとフリーリレーにも出場することができ、学校対抗でもチームとして目標としていた4位に入ることができました。みんなが力を合わせた成果であり、そのことで今までの自分の努力が無駄ではなかったのだと思うことができました。

 私たち高校3年生は部活動の引退まで残りわずかとなりました。今月24日25日には関東高校予選会が行われます。この大会に勝ち抜くと来月22日~24日には関東高校本大会があります。水泳はこの関東大会がインターハイ予選に位置づけられています。私自身、高校に入学した時からインターハイ出場を目標としてきました。高校1年生の時も2年生のときもあと少しのところでインターハイ出場権をとることができず、悔しい思いをしてきました。今年こそは入学時、心に決めたインターハイ出場という目標を達成するため、そして、今まで支えてくれた仲間や家族に感謝の気持ちを伝え恩返しができるように、最後の最後まであきらめずに自分の力を出し切りたいです。

放送礼拝 演劇部

箴言 13章4節

私は演劇を観るのが好きです。また、観るだけでなく「演じる」ということにも興味がありました。しかし、私の出身中学校では文化系の部活が少なく演劇部はなかったため、そういった活動をすることなく、私の興味を満たすことはありませんでした。

高校に入学して新入生歓迎会で見た演劇部は楽しそうで、入りたい気持ちが高まり、すぐに入部を決意しました。しかし、同じ時期に入部した中学生たちは、経験者もいれば未経験者とは思えないくらい演技の上手いものもいて、楽しい気持ちはありつつも不安な気持ちが大きくなってきました。学園祭の役決めの頃は、まだ演技の技術が身についておらず、残念ながら役はもらえませんでした。それが悔しくて、自主練をしていました。それが良かったのか、大会に向けての活動が始まると、私は初めて役をもらいました。先輩には勿論のこと、後悔にも遅れを取っていると感じていた私は、その日から毎日必死になって練習をしました。先輩に指摘された部分を少しでも周りに近づけるよう、また少しでも上手くなれるように、家に帰ってからも何度も何度も練習しました。初めはセリフを覚えるのに必死でしたが、先輩から「上手くなったよ」とか「声が出るようになった」と言われるのが嬉しく、「演じる」ことの楽しさを感じられるようになってきました。さらには、今演じている劇の世界に入り込めるようになりました。

今日の聖書の箇所にある「勤勉な人」というのは、言葉の通りコツコツと努力をしています。普段から努力をしているからこそ、自分の望みを叶えるための努力を惜しむことはありません。だから豊かに満たされるのではないでしょうか。私もそうなりたいとおもい、日々努力を続けていきたいと思います。

今年の演劇部は新入部員も増え、また先輩方もこの学園祭で最後となります。今年も部のみんなと劇を作り上げる楽しさや嬉しさを感じられるように、昨年以上に頑張っていきたいと思います。

放送礼拝 バスケットボール部

ローマの信徒への手紙8章18節

私たちは日々の生活の中で、様々な悩みや壁にぶつかることが多くあります。私は、幼い頃から自分にとっての困難や苦労に立ち向かおうとせず、いつも逃げてばかりいました。中学生の時、私は小学校の時のミニバスの仲間と一緒にバスケ部に入部しましたが、先輩とのいざこざや自分の練習に対する意識の低さからすぐにバスケ部を退部しました。そんな自分と決別するきっかけがほしいと考えた私は、英和高校に入学すると同時に、もう一度バスケ部に入りたいと思うようになりました。しかし、遠方から通っていることや入学前に両親と決めた、勉強のために高校に通うから部活には入らないという約束、何より中学生の時の自分の経験があって、なかなか決断することはできませんでした。中学生の時の自分と同じことを繰り返してしまうかもしれないという弱気な思いと、自分を変えたいという思いの中で葛藤し、顧問の先生や両親と何度も話し合いを重ねた結果、同じことは繰り返さないと自分に誓って、バスケ部への入部を決断しました。

入部してからは、様々な悩みにぶつかりました。私は遠方から通っていたため最後まで練習に参加できないことや、自分が思ったようにプレー出来ず悩んだことはもちろんですが、何より悩んだのが、部員との関わり方です。バスケ部では、中高一貫で練習しているため、入部当時から先輩も後輩もいるという環境に戸惑い、なかなか馴染めずにいたのを今でも覚えています。さらに、そんな私を不安にさせたのは、高3の先輩の引退でした。それまで集団をまとめた経験がなく、いつも誰かに付いて行っていた私が、気づいたら中高全体の最上級生、しかも必然的に副部長という立場になり、チームをまとめなければならなくなったことに焦りと不安しか感じることができませんでした。

その環境に馴染めないまま、私は部活で何をしていてもどこか孤独に感じていました。自分の不安を周りの環境のせいにばかりしていましたが、今思うと孤独の原因は周りだけではなかったと思います。バスケはチームスポーツです。全員の気持ちが一つになり、同じ方向を向いていなければ、誰かを感動させられるようなプレーは生まれません。仲間から見ればチームが一つになれない原因の一つに私の存在があったと思います。一緒に練習していてもどこか孤独で、いつしか練習に対する不満ばかりを募らせるようになりました。どうして私だけなのだろう、いつもそう考えていて、練習に楽しさを見出せず、何度も辞めようかと考えました。当時の私は常にネガティブ思考で、何をしても物事を良い方向に考えることができず、過去の自分がそうであったように、楽な道へと少しずつ向かっていたように思えます。そんな私を救ってくれたのは、顧問の先生方、共に闘う同級生、情けない先輩を頼りにしてくれた後輩たち、引退した先輩、私の話を聞いてくれる友人、家族、私の周りにいるたくさんの人の言葉でした。多くの人に教えてもらったのは、前向きに物事を捉え、勇気を出して伝えることの大切さと、人に頼ること、頼られることの大切さでした。誰かに頼れば、必ず自分にとってよい助言が与えられ、その一つ一つが新しい自分に生まれ変わらせてくれました。

自分に精神的余裕が生まれてくると、先輩や顧問の先生にコミュニケーションを取らずにいる後輩のことが心配になり、後輩たちが最上級生になったときに私と同じ思いをして欲しくないという思いが芽生え、新入部員を中心に、自分の方から少しずつ後輩たちともコミュニケーションを取るようになりました。後輩たちを支えているつもりが、そのことで自分を成長させてくれていたことにも気付きました。私を支えてくれた全ての人が、私にとっての恩人です。バスケ部での時間を振り返ると、この時の悩みがあったからこそ、今の自分があるのだと思います。

先日の高校総体では、県内随一の強豪校と対戦する、とても貴重なチャンスを与えられました。試合を通して、チームとしては強豪校相手に自分たちのプレーが少しでも通用するという自信につながる大きな成果を得られた一方で、自分自身はなかなか思うようなブレーができず、試合のほとんどをベンチから、満身創痍で戦う仲間の姿をただ見守ることしかできなかった自分をとても情けなく感じていました。応援に足を運んでくれた高校一年生と落合先生、校長先生、家族の声援が飛び交う中で、私はただ自分の自覚のなさを再確認し、見守るだけの辛い時間が流れました。試合中の怪我によりコートに立ちたくても立てない仲間がいて、相手チームにはベンチに入ることさえ許されない人がいて、自分が何をするべきだったのか、改めて考え直すきっかけになったと思います。

私たちに残されたのは、インターハイまでの残り僅かな練習時間のみとなりました。大きな山を何度も乗り越えた今、部員の気持ちが一つにまとまってきているのを日々の練習で強く感じることが出来ています。チームとして技術的にも精神的にも今がとてもよい状態であり、自分自身とても前向きな気持ちで日々を過ごしています。チーム一丸となって挑む目標は「勝利」です。引退を迎える私たちだけでなく、部員全員にとって、このメンバーでコートに立てるのは、インターハイが最後となります。これまでの積み重ねを信じ、共に闘った仲間を信じ、自分を信じて、これまで支えてくれた全ての人への感謝を忘れず、最後のブザーが鳴るその瞬間まで、1つのボールに必死に喰らいつきたいと思います。今の私があるのは、ここまで何度も迷惑をかけ、ぶつかり合い、一緒に戦ってくれた部員みんなのおかげです。見ている人に感動を与えられるような、英和らしいバスケを最後まで追い求めたいと思います。

私は、バスケ部に入ったことで変わることが出来ました。そのことを次のインターハイではプレーで表現し、ここまで私を支えてくれた全ての人に恩返しをするつもりで挑みます。これまで数え切れないほど悩み、そのたびに涙を流してきましたが、流した涙の分だけ成長した自分を証明し、試合に対するプレッシャーを跳ね飛ばし、これまで自分が積み重ねたもの全てをぶつけて、最後まで仲間と走り抜けたいです。そして、残された僅かな時間の中で、私にしか感じることのできない思いを、少しでも多くの人に伝えていきたいです。

お祈り

神様、今日も新しい朝をありがとうございます。礼拝を捧げる機会を与えられたことに感謝します。私たちが乗り越えた困難の分まで成長していくことができますように。今日一日、皆が安全に過ごせるようお見守りください。
 この祈り尊き主、イエスキリストのお名前を通して、御前にお捧げいたします。
アーメン。

放送礼拝 久木元先生

聖書:マタイによる福音書26節69~75節

ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

先日、ゴールデンウィークの休みを利用して、久しぶりに映画を鑑賞してきました。前回、映画館で映画を見たのは、2014年のことですから、実に3年ぶりになります。そのときに見た映画は、フランスにあるグラン・シャルトルージュ修道院の日常生活を取材したドキュメンタリー『大いなる沈黙へ』という映画でした。そして、今回は何を見てきたのかと言うと、『沈黙』という映画です。「沈黙」つながりですね。自分でも今になって気づいて、びっくりしています。何か自分の中に、「沈黙」を好む志向でもあるのでしょうか。今回見た『沈黙』という映画は、遠藤周作の小説を、マーティン・スコセッシというアメリカの監督が映画化したものです。日本では、今年の1月に公開されました。今日は、この『沈黙』という作品を通じて、イエス・キリストは私たちの弱さに寄り添っていてくださるというお話をしようと思います。
遠藤周作の『沈黙』については、今年3月の終業礼拝で、校長先生がお話ししてくださったので、覚えている人も多いでしょうが、4月から英和に入学した人は知らない人もいるでしょうから、簡単にあらすじを紹介しておきます。時は江戸時代、島原の乱が終わって間もないころ、イエズス会のフェレイラ神父が、布教に赴いた日本での苛酷な弾圧に屈して、キリスト教の信仰を捨てたという報せがローマにもたらされました。フェレイラの弟子ロドリゴと神父とガルペ神父は、その真相を確かめるために長崎に潜入し、隠れキリシタンたちに歓迎されるが、やがて長崎奉行所に追われる身となります。逃亡するロドリゴはやがて、キチジローという、彼らの密入国を手助けした人物の裏切りで密告され、捕らえられます。殉教(信仰を守るために死ぬこと)する覚悟で牢につながれたロドリゴのもとに、夜中、フェレイラ神父が訪れ、踏絵を踏むようにロドリゴを説得します。その説得を拒絶するロドリゴに、フェレイラ神父は、ロドリゴが踏絵を踏まない限り、拷問を受けている信者たちは許されないことを告げます。自分の信仰を守るのか、それとも、自分が踏絵を踏むことによって、拷問されている人々を救うべきなのか、究極の選択を突きつけられたロドリゴは、フェレイラから、「もしキリストがここにいられたら、たしかにキリストは、彼等のために転んだ(信仰を捨てる)だろう」と言われて、ついに踏絵を踏むことを受け入れます。夜明けに、ロドリゴは奉行所の中庭で踏絵を踏むことになりますが、そのとき、彼の足に激しい痛みが襲います。そして、踏絵のなかのイエスが「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」と語る声を聞きます。踏絵を踏むことによって信仰を捨てたロドリゴはその後、奉行所の監視下で、キリスト教を取り締まる側に回り、岡田三右衛門という日本人の名前を名乗り、日本人の女性と結婚して、その生涯を終えます。
ここで一つ、大きな疑問が生じるのですが、果たしてロドリゴは本当に信仰を捨てたと言えるのでしょうか。そのことを考えるために、ロドリゴが踏絵を踏む場面を検証してみたいと思います。ロドリゴが踏絵を踏む場面で、鶏が鳴く描写があります。ちょっと小説から引用してみましょう。「こうして司祭(ロドリゴのことです)が踏絵に脚をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。」この場面は、今日読んだ聖書の箇所を踏まえて書かれたことは明らかです。この聖書の箇所は、「ペトロの否認」と呼ばれ、古来、絵画をはじめとするさまざまな芸術作品に描かれてきた有名なエピソードですが、聖書に親しんだ人であれば、この、ロドリゴが踏絵を踏む場面から、ペトロの否認を連想することでしょう。つまり、『沈黙』におけるロドリゴは福音書におけるペトロの役割を担わされているのです。ペトロはこの出来事の後、自分の行いを激しく後悔して改心し、復活したイエス・キリストに出会い、初期キリスト教の中心的な指導者として活躍することになります。ロドリゴ神父という人物を造形するに当たり、遠藤周作が福音書のペトロを念頭に置いていたとすれば、ロドリゴが踏絵を踏んだ後も信仰を守り続けていたと考えることができるでしょう。実は、映画の『沈黙』では、原作の小説にないラストシーンが用意されていて、ロドリゴが信仰を捨てていたのではないことが明らかにされるのですが、それを今ここで話してしまうとネタばれになってしまいますので、そのラストシーンについては、これ以上は話しません。気になる人は、ぜひ映画館で映画を見て確認してください。
ペトロにとってイエス・キリストを否認すること、そして、ロドリゴ神父にとって踏絵を踏むことは、彼らが人間的な成長を遂げるために必要なことでした。ペトロはイエスから「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言われて、「あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と誓いました。このときのペトロは、自分を強い人間だと思い込んでいたのでしょう。自分はどんな困難に遭っても、決して信仰を捨てることのない強い人間だと自覚して、自分の中にある弱さに気づいていなかったのだと思われます。イエス・キリストが逮捕された時、他の弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまったのですが、ペトロだけはイエスの後についていきました。そして、イエスの裁判が行われる大祭司の屋敷の中庭まで入っていったのです。そこで、ペトロは、イエスの弟子であることを見破られてしまいました。「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と屋敷の女中から指摘されると、「そんな人は知らない」と否認してしまいます。イエスに対して「あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と誓ったにもかかわらず。ペトロは自分の身を守るために、一番大切な人を裏切ってしまったのです。でも、人間って、そういうものですよね。自分の身に危険が及ぶと、嘘をついて自分を守ろうとしたり、誰かを裏切ってしまったりするものです。人間はそういう弱さを抱えた存在なのです。ペトロはイエスを否認したときに、初めてその人間の弱さに気づいた。自分も弱い人間であり、自分を守るためには嘘をついたり誰かを裏切ったりする卑怯な存在であるということを、嫌というほど自覚させられた。でも、この出来事を通じて、ペトロは人間的に成長することができたのです。人間は誰でも、その内に弱さを抱えた存在であるが故に、ある行いについて良いとか悪いとか、人間が裁くことはできないのだということ。そして、そのような人間の弱さをイエス・キリストは全部分かっていて、それでもなお私たちの側に寄り添っていてくださったこと。こういったことを理解することによって、ペトロはキリストの教えを伝道できるようになったのです。
ロドリゴ神父も同様です。彼も踏絵を踏むことによって、人間の弱さを理解した。『沈黙』では、キチジローという、人間の本質的な弱さを体現した人物が重要な役割を果たしていますが、彼は前にも述べた通り、ロドリゴを奉行所に密告して褒美のお金をもらってしまうのです。そういう点で、キチジローは、福音書におけるユダの役割を担っているといえるでしょう。ロドリゴもこのキチジローに、ユダと同じような雰囲気を感じ、嫌悪感を抱いていました。しかし、踏絵を踏んだ後のロドリゴは、キチジローの弱さが理解できるようになります。ロドリゴはそれまではキチジローの弱さを裁いていたのですが、彼は自分にキチジローの弱さを裁く資格がないことを思い知り、彼の弱さに寄り添おうとするのです。イエス・キリストがペトロの弱さに寄り添ってくれていたように。
キチジローの弱さについてもぜひ話しておきたいのですが、そこまで話すと時間がオーバーしてしまうでしょうから、また次の機会に譲るとします。最後に、ロドリゴがキチジローの罪の許しを行った後、イエス・キリストに呼びかけた言葉、そしてイエスの返事を引用して閉じたいと思います。
「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」

お祈りします。ご在天の父なる神様、新しい朝を与えられてこの学び舎に集い、愛する姉妹たちとともに礼拝を守れることに感謝いたします。私たちは本当に弱く、そして小さな存在です。時には嘘をついてしまったり、誰かを裏切ってしまうような、卑怯なこともしてしまう人間です。それでもあなたは私たち一人ひとりを愛してくださり、最愛の一人子、イエス・キリストを私たちのもとに遣わしてくださいました。なんという幸いでしょうか。そして、主イエス・キリストは私たちの弱さを分かってくださり、私たちが苦しむとき、悲しむときには一緒に苦しみ、悲しんでくださいます。苦しいとき、悲しいときにも、常に主イエス・キリストが側にいてくださることを信じて、前を向いて生きていけますように、私たち一人ひとりをお支えください。来週には前期Ⅰ試験が始まります。一人ひとりが充分に力を発揮できますよう、お導きください。困難の中にあって、なかなか学校に足が向かない姉妹のことも覚えます。どうかあなたが側にいて、慰めをお与えください。この小さな祈りを、主イエス・キリストのお名前を通してみ前におささげいたします。アーメン。

放送礼拝 美術部

コヘレトの言葉12章1節

 私が美術部に入部してから5年が経ちました。小さい頃から絵画教室に通っていて絵を描くことが大好きだった私は、中学生になったら美術部に入るという強い思いで英和に入学したのを今でも覚えています。

美術部に入って最初に取り組んだのがUTY教育美術展でした。最初の作品は楽しく制作でき納得のいく作品ができ、また嬉しいことに良い評価も頂くことができました。後に祖母がその絵を刺繍で作ってくれて思い出深い作品でもあります。美術部として良いスタートができたと感じていました。

しかし、2年目に私の考えが大きく変えられることがありました。前年同様、UTYの作品を仕上げ提出し結果を待っていました。結果は、作品を提出した友達はみんな良い評価をもらったのに私だけ何にも引っかかりませんでした。「なんで私だけ? 何が駄目だったの?」と本当に悔しくて原因を考えました。みんなの作品と自分のを見比べて考えたら、私の中で一つの考えにたどり着きました。私に足りなかったのは、その作品を通して何を伝えたかったということです。コンセプトがなかったわけではありませんが、私の作品には伝えたい思いが込められていませんでした。その時に、「ただ楽しく作り自己満足で終わっては駄目なんだ。見てもらう人に伝わるようにしなければいけないんだ」と学びました。それからは、見てくれる人に作品に込めた思いが伝わるような、楽しんでもらえるような作品を目標に制作しています。

 ところが、今度は考えすぎて自分でどうしたいのか分からなくなってきてしまいました。「何を伝えたいの? そもそも何を描きたいの?」と。仲間が持っているそれぞれの世界観や得意分野があることが羨ましくて「どうして私には何もないんだろう」と悩みました。また、私は高校2年生の始めまで掛け持ちでダンス同好会に入っていました。姉の影響で入部しましたが、ステージで踊っていくうちに踊りで表現する楽しさを知りどんどんダンスが好きになっていき、絵を描いている時より踊っている時の方が楽しく感じました。これらのことから大好きだった美術が苦痛になりました。「さんざんやってきたんだしもうそろそろやめてもいいんじゃないかな」と辞めたいと思う時もありました。しかし、辛いのはアイデアを出す段階だけであって、大きなキャンパスに色を付けられなくなってしまうと考えると寂しくなり、またずっとやってきた美術からきっぱりと離れることもできず、もう少し頑張ってみようと思えました。

 今までを通して見つめ直すと美術部を辞めなくて良かったなと思います。悩みは今でも無くならないし技術面が一段と向上したかときかれると「はい」とは言い難いですが、多くのことを学ぶことができました。思い通りに作品ができなかったり、良い評価がもらえなかったり2つの部活の掛け持ちが大変だったりと辛いこともたくさんありましたが、これがあったからこそ私は成長することができ、良いことも悪いことも全部含めて私の青春の思い出だから、逃げずに頑張ってこれて良かったです。

 6年目を迎え、現在美術部ではUTY教育美術展の作品に取り組んでいます。この作品が高校3年生にとっては最後の作品となります。楽しく制作することはもちろん作品に込めた思いが見る人に伝わるように楽しんでもらえるように最後まで諦めずに精一杯制作していきたいです。

放送礼拝 佐藤先生

ルカによる福音書10章25節~37節(新約聖書P.126)

 「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるのか」。この問いは人生の大切な問題です。人は金儲けのためだけに生まれて来るわけではないし、名誉や権力だけが人生の究極の目標ではありません。人生の終わりにあたって、「お前は沢山の間違いや失敗を犯したけれども、良い人生を送った。安心して私のところへ来なさい。」と、神様に言っていただけるどうか、これが人生の根本的な問題ではないでしょうか。

 律法の専門家の質問に対して、イエス様はすぐに「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」と問い返されました。
当時のユダヤでは神の言葉イコール律法でした。律法は生活を定める掟ですから、永遠の命を受け継げるかどうかということは、どのように生きるかということにかかっていました。
律法というのは、旧約聖書のことを指します。それを一言で言えばどういうことか、というのがイエス様の問いかけです。さすがに、この律法の専門家の答えは正確でした。
「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と答えました。イエス様はそれをほめて「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と言われました。

  ここで一つ気をつけたいことがあります。ここにある二つの戒めは「神を愛する」ことと「隣人を愛する」ことだと言われています。しかし、隣人については「隣人を自分のように愛しなさい」と言われています。つまり自己愛が前提として考えられています。そう考えると、ここでは神への愛、自分への愛、隣人への愛という三つの愛が語られていることになります。

 「愛」、それは誰かとの関わりです。この関わりは、まず神様との関わりから始まります。私たちは神様によって創られ、その神様に愛されている存在です。そのことを受け入れられたとき、私たちは神様を愛することができます。
 次に自分との関わりですが、私たちは自分で自分を創ったのではなく、神様によって創られた存在です。その神様の愛を感じることができると、私たちは自分を愛することができます。
 そして、自分を本当に愛することが出来るならば、それと同じように隣人を愛することができるはずです。

 さて、この律法の専門家は、自分が律法の精神を実行しているかどうかという問いになって跳ね返って来てうろたえました。
 自分は律法の教え通りに隣人を愛しているかどうか、考えてみるとそうではない。そこで自分の立場を弁護し、正当化しなければならなくなりました。そこで彼は「では、わたしの隣人とはだれですか」と問いかけました。

 先程、神への愛、自分への愛、隣人への愛について話しました。しかし、ここで律法の専門家と同じ一つの問いが生まれます。神様も自分も誰であるかはっきりしていますが、隣人とは誰のことか、ということです。
 そのころのユダヤ教の常識では、「隣人」とは「ユダヤ人の同胞」のことでした。イエス様は、当時のユダヤ人が決して交際しようとしなかったサマリア人をたとえ話の中に登場させて、サマリア人がユダヤ人の「隣人になった」と言い、律法の専門家には「行って、あなたも同じようにしなさい」と命じられました。

 律法の専門家が訪ねたのは「わたしの隣人とは誰ですか」ということでした。ところがこのたとえ話の最後でイエス様は「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問われました。誰が隣人にふさわしいかということではなくて、助けを必要としている人の隣人になってあげることが出来るかどうかが問題だと、イエス様は言われているのです。

 この追いはぎに襲われた人は助けてくれる隣人を必要としていました。この祭司もレビ人もユダヤ人の同胞で、ユダヤ社会における隣人です。しかも彼らは特に神に近い関係にある人たちです。にもかかわらず、彼らは仲間を見捨て、その隣人になることを拒否しました。
 それとは対照的に、ユダヤ人から蔑まれていたサマリア人が通りかかって、憐れに思い、すぐに助けの手を差し伸べました。

 私たちにはとてもこのサマリア人のようなことはできない、と思うかもしれませんが、愛の業というものは誰でもその気になれば出来ることです。
 どんなにささやかであっても、自分に出来ることを心を尽くして行えば、すぐに隣人になれると、この聖書の箇所は私たちに語っているのではないでしょうか。
 私たちもこのサマリア人のように、助けを必要としている人の隣人となりたいものです。

 お祈りします。
 御在天の父なる神様、今日は、「善きサマリア人」のたとえ話を通して、私たちは、その人が誰であろうと助けを必要としている人の隣人となって、愛の業を実行することこそ永遠の命を受ける道であることを学びました。神様どうか、私たちがサマリア人と同じように行動できるよう、力を強めてください。
 この祈りを、主イエス・キリストのお名前によってお捧げいたします。
アーメン

放送礼拝 語学部

マタイ による福音書6章34節

ちょうど5年前、英和に入学して初めての新入生歓迎会のことは今でも覚えています。中学生
になり英語の勉強をがんばりたいとは思っていましたが、それまで英語で会話がペラペラできる
とか、英語が得意、というわけではありませんでした。クラブの紹介が進んでいき、語学部の紹
介が始まりました。先輩がステージでドレスやスーツを着ている姿に釘づけになっていて、部活
として何をするのかもあまりわからないまま、気づいたら入部を決めていました。
そんな私でしたが、中学1年生の学園祭では先輩と一緒にアンネフランクのステージに立ってい
ました。今まで演技をしたことがあったわけではなく、英語もそんな得意と言えるほどでもな
かった私は、学園祭まで心配と不安だらけの毎日でした。しかしそんな私に、先輩方は根気強く
発音指導をしてくださったり、演技のことなど私ができるまで優しく教えてくれました。実際に
演じている先輩を近くで見たとき、経験の少ない私は圧倒され、鳥肌の立つような感覚もありま
した。日ごとに、私も先輩方のように上手になりたい!と強く思うようになりました。アンネフ
ランクの上演を通して、希望を失わずに強く生き抜いていけるような女性になりたいと思いまし
た。

中学二年生のときはジャンヌダルクを演じました。多くの戦いのシーンは、どのシーンよりも
難しくて本当に大変で、練習では何時間も費やしました。国の危機に立ち向かい、神様の声をき
き先頭に立って引っ張っていくジャンヌの姿に心惹かれました。

中学三年生では、レミゼラブルを演じました。この劇は、私の中で一番印象に残っていて今で
もあの時のことは忘れられません。一言では言い表せないくらいの、達成感や感動を実感しまし
た。それが、中学最高学年だったからか、3年の経験があったからかは、わかりませんが、あの
とき感じた達成感を私はそれ以降大切にしています。

そして、私が高校一年生の時、部員が急激に増え、戸惑うことも増えました。上級生より中学
1年生の数が多く、何をどのように指示していいのか、よくわからないことも多かったと思いま
す。また、そのことが後輩たちを不安にさせていたとも思います。
しかし、私は、中学生の時、自分のことに必死になりすぎて、周りを気にかけることが出来な
かったことを思い出し、高校生になったら自覚を持って周りに気を配り、引っ張ってくださる先
輩方の力に少しでもなれるよう心がけられるようになりました。先輩方のリーダーシップで、大
人数だからこそのアリスインワンダーランドやピーターパンを語学部らしく作り上げることがで
きたと思います。

高3となり、今まさに私たちが部活を引っ張っているところです。私の中で先輩方の存在は偉大
で憧れで、私自身が最高学年であることは今もまだ実感できません。今まで先輩の背中を見て、
頼ってばかりで部活をしてきた分、いざ自分たちが上に立ってまとめてくとなると不安でいっぱ
いになります。どうすれば上手くまとめられるか、どうすれば部員みんなが楽しく活動できる
か、など悩みが尽きることはありません。逃げたくなることも何度もありました。しかし、そん
な時にふと今日の聖書の箇所である、「明日のことはあす自らが思い悩む。その日の苦労はその
日だけでも十分である」という御言葉を思い出します。私は、自分のことを話すことが得意では
なくとても苦手です。周りを巻き込んでまでこんなこと言っていいのか、とか周りに迷惑をかけ
てしまうくらいなら1人で解決してしまえばいいんだ、と思ってしまいすぐ抱え込みます。しか
し、それが逆に空回りして結局迷惑をかけてしまうということも何度もありました。そんな時
に、初めてこの箇所を目にし、今までの考え方が変わるきっかけとなりました。後のことをちゃ
んと考えるのも大事だけど、後のことをいろいろ考えすぎて、今の自分のこうどうに迷いや戸惑
いが出るくらいなら、壁にぶつかった時に周りの力を借りながらでも乗り越えていけばいいん
じゃないか、と思うようになりました。これから学園祭に向け、練習が始まります。今年の劇は
私が経験した5回の劇と違った感じに仕上げる予定です。本番までにはいろいろな試練があると
思います。そんな時は、逃げずに立ち向かい、劇を見てくださるすべての人に、あー今年の語学
部は今までと違った感じだったけどよかったよ、と言ってもらえるよう、お互いに補い合い、部
員全員で協力して頑張っていきます。

合同礼拝 高2担当

マタイによる福音書5章9節

(沖縄・長崎コース)
平和。この言葉を聞いてみなさんは何を思うでしょう。今は平和でしょうか。憎しみや争いの中で、飢えている人や悲しんでいる人がいるのなら、平和とは言えないと私は思います。

私たちは昨年度、修学旅行の事前学習として、映画を鑑賞したり、班ごとに調べ学習をしたり、プレゼンテーションを行い沖縄・長崎についての学びを深めました。特に、沖縄の歴史についてはほとんど無知と言っていい程知識がありませんでした。しかし、この修学旅行をきっかけに、実際に沖縄に行き、壕体験や資料館を見学したり、講話を聞いたりしたことでたくさんのことを知ることができました。その中でも一番こころに残っていることは、轟壕に入った事です。自然の鍾乳洞である洞窟の中は、湿度が高く、足場も悪く真っ暗で、懐中電灯に照らし出されたかすかに見える内部の様子やなんとも言えない空気感に恐怖を感じました。あるポイントで足を止め、すべての懐中電灯を消したときは、驚くほど真っ暗で、誰がどこにいるか、何がどこにあるか、全く見えませんでした。当時の沖縄の人々はこの暗さの中で、家族と共に生活をし、日本兵からの脅しや死に対する底知れぬ恐怖におびえながら生きていました。子どもが泣いたり騒いだりすると日本兵が来るため、母親が子どもの口元を自分の胸に強く押さえ付け、その結果子どもが窒息死してしまうことも少なくなかったといいます。また、日本兵が、いつまで経っても泣き止まない子どもを母親から無理矢理奪いとり殺してしまうこともあったそうです。弱い立場の人々をいとも簡単に殺してしまう異常な精神が、追い詰められた人間の心の闇を映し出しているようでとても恐ろしかったです。また、瀕死の状態の人、泣き叫んでいる人、困っている人がいたとしてもお互いに助けあうことができず、「多くの人が人を殺して生きてきた」というのは、想像できないほど残酷で悲惨な経験だったにではないかと感じました。

長崎では、原爆について資料館や講話などから詳しく学びました。原子爆弾が爆発したことにより発生した熱線、放射能、爆風が約7万4千人もの人々の命を奪いました。その中でも特に心に残っているのが、講話をしてくださった講師の方やガイドさんから言われた「二度と被爆者を出してはいけない」という言葉です。これは、核兵器廃絶。すなわち、核兵器をゼロにするということです。「もし一発でも残っていたら、その一発によって何万人もの命が奪われてしまう。だからゼロにしなくてはいけいない。」という言葉が胸に重く響きました。

この修学旅行を機に被害、そして加害の両方の側面から戦争や平和について深く学ぶことができました。世界では今もなお争いが絶えず、多くの人々の命が奪われています。しかし、人の手によって人の命が奪われることは決してあってはなりません。修学旅行の経験を通して、私たちには平和を実現するためにできることを考え、平和の大切さを未来に生きる人々に伝えていく使命がある事ことに気づくことができました。また、平和は人々の心が安定することによってもたらされると考えます。心が安定し元気になることで、自分や他者を愛することができるようになります。聖書にはその心の栄養の源となる御言葉が記されています。神様が私たちに語りかけてくださる御言葉を心に留め、一日一日を大切に生きていきたいと思います。

(韓国コース)
「許しこそすれ、忘れること勿れ」私は、この言葉を忘れることができません。5日間の修学旅行を終え、一番印象に残っている場所、それは提岩里(チュアムリ)教会です。私は提岩里教会を訪ね、自分が戦争に対してどれだけ浅はかな考えであったかを実感しました。

1919年に韓国で起きた三・一独立運動は、日本の植民地からの独立を求め、次第に韓国の各地へ広まって行きました。宗教指導者が主導的な役割を果たしましたが、当時の日本軍はこの運動を鎮圧させるために手段を選びませんでした。そのような中、同年の4月15日に提岩里教会事件が起こりました。事件は、陸軍79連隊に所属する有田俊夫(としお)中尉が指揮を取り決行されました。教会に集められた15歳以上の成年男性21名は教会に閉じ込められた後、窓から銃撃を受け、放火されて亡くなりました。また、家族を心配して駆けつけた夫人ふたりも刀により殺害されました。その後、この事件は現場の視察に訪れたアメリカ総領事館・領事、アメリカ人宣教師、AP通信の特派員により日本軍の虐殺事件として世界中に報道されました。また、カナダ人宣教師フランク・ウィリアム・スコフィールド牧師が、凄惨な事件現場や家族や友人が悲しむ姿を写真に収めそれらの記録が連日報道されました。しかし、事件の指揮者である有田中尉は放火・殺人の罪で処罰されることはなく、謝罪すらありませんでした。

「このような残酷な行為を本当に人間ができるのでしょうか。」提岩里教会記念館で私たちに説明してくださった方がおっしゃいました。私も受入難い出来事ですが同じ日本人が犯した過去の過ちなのです。「私は日本を許すことができません。」とはっきり言われた時に、韓国と日本の間にある大きな壁を感じ胸が痛みました。

 日本は、戦争に負けた事を決して敗戦記念日とは言いません。また、歴史の教科書にも日本が加害者として犯した残虐な行為はほとんど記述されていません。約70年たった今でも、日本は事実に触れようとしないのです。私達はまず、過去に起きた出来事を知り、学ぶ必要があります。そして、二度と同じ過ちが繰り返されないようにしなければなりません。
私が冒頭で紹介した言葉「許しこそすれ、忘れること勿れ」は、現代を生きる私たちの心に強く訴えかけています。「あなた方の敵を愛しなさい」まさにイエス様がおっしゃったことと同じことです。加害者である私たちが罪を許されたとしても、決して自分達が犯した過ちを忘れてはならないのです。そして私たちの世代が後生に語り継がなければならないのです。韓国と日本の間にある壁を越えるためには、私たち日本人が加害者であったことを自覚し、私たち若者が両国の架け橋になるよう努めていく必要があると思うのです。しかし、そのような思いとは裏腹に、最近ニュースや新聞で、核ミサイル実験や戦争を匂わせる報道がされています。決して他人事ではないということを私たち一人一人が真剣に考え、目を向けて行くべきたと思います。過去に起きてしまった出来事は、今どんなに悔やんでも変えることはできません。修学旅行で学んだ事や得た思いを無駄にすることのないよう、自分にできることを模索しながら生活していこうと思います、今ある平和に感謝して。

放送礼拝 高校生徒会

ペトロの手紙一 4章10節

私達は、どちらかというと、大きなこと、優れたこと、立派なことに注目すると思います。なにかをし遂げた人を見ると、ああ立派だな、すごいなと思い、そんな人と自分を比べてやっぱり自分は…と、自分の小ささに劣等感を抱いてしまったり、逆にあの人に比べれば、自分は偉いと優越感に浸ってしまったりしたことはありませんか。

新年度が始まり、高3にもなり、慌ただしい日々を送っていると、先輩たちはどうやってこの時期を乗り切ってきたのだろうと、自分と比べてそんなことを思っています。

さて、今年度初めて全校で力を合わせて取り組んでいく行事が学園祭です。

今年度の学園祭では、三面壁画というモザイク画を作っていきます。モザイクアートを知っていますか。モザイクというのは小片を寄せ合わせ埋め込んで、絵や模様を表す装飾美術の手法のことで、この方法を使って作られたものがモザイクアートです。埋め合わされる小片は、写真であったり、折り紙であったり様々です。モザイク画は、遠くから見ると絵や模様として見ることができますが、近づいて見ると、ただの四角で仕上がった絵を想像することは簡単なことではありません。

三面壁画はモザイクアートです。作成するために、ひとりひとりが大きなモザイクアートの一部分を取り出した紙に色を塗って仕上げていきます。全校のみなさんが塗っていくひとマスひとマスはとても小さく、手元で色を塗っていると、完成する絵を想像できずに身近に感じられないこともあると思います。しかしその小さなひとマスはそれぞれ大切で、大きな絵を仕上げていく上でかかせないものです。近くだと見えない絵ですが、一人一人の紙を貼り合わせて離れて見てみると、大きな絵となって現れます。1枚では完成しない壁画が、全部揃うことによって初めて完成します。この壁画を目にした時にはきっと、壁画のみでなく、私たちの生活というのはひとりだけの働きでは成り立たたず、反対に、全体というのはひとりがいなくて成り立つものではない、ということを実感できるに違いありません。

モザイク画のマス目は小さく私たちひとりひとりもモザイク画のマスのように小さな存在に感じてしまった経験のない人は少ないと思います。他の人を見て落ち込んだり、評価を気にしすぎてしまったりすることもあるかもしれません。しかし、その評価は自分の全体につけられたものではなく、ある一面が取り上げられているということなのではないでしょうか。人はそれぞれ異なる存在としてそれぞれ賜物を授けられて誕生しました。モザイク画を遠くでみると初めて全体像がわかるように、自分自身を客観的な視線でみることも大切なことなのだと思います。

今年度の学園祭のテーマは、ギリシャ語で「美しい形をみる」という語源を持つkaleidocsopeです。一度しかない今年度の学園祭です。今年度のメンバーだからできる今年らしい学園祭を作りあげていきませんか。山梨英和で過ごす時間を大切に、そして有意義なものとしてひとりでも多くの人の心に残るように、努力していきたいです。一度しか描くことのできない、色彩豊かな模様を一緒に描き、美しい形をつくっていきましょう。

視覚と聴覚の重複障害者でありながらも世界各地を歴訪し、障害者の教育・福祉の発展に尽くしたことで有名なヘレンケラーは「物事を成し遂げさせるのは、希望と自信です」という言葉を残しています。ひとりひとりが神様からいただいた唯一無二な賜物に自信を持っていけることを信じて、生徒会役員としての残りの任期も、責任を果たしていきたいと思っています。学園祭の成功はもちろん、日々の生活も充実したものとなるように、これからも活動に励んでいこうと思います。

-お祈り-
神様、今日も新しい朝をありがとうございます。放送を通して、全校で礼拝をお捧げできることを感謝いたします。新年度が始まり、3週間ほど経ち、疲れを覚えている人もいるかもしれません。どうかひとりひとりに神様のお恵みがありますように。また、英和生にとって、毎日がかけがえのないものになりますように、神様、どうか導いてください。今日も1日実り多い時間を過ごすことができますように。全てを神様の御手にゆだねます。願いばかりの祈りですが、感謝して、イエスさまのお名前を通して、御前に御捧げ致します。アーメン