教師,礼拝のひとコマ

放送礼拝 中原先生

マタイによる福音書第1章23節

私たちの人生において、「喜び」と呼べるものは大小様々、たくさんあります。自分の欲しいものが手に入ること、友人ができること、信頼されるということ、愛されていると感じる時、また、人生の計画が自分の願った通りに進むこと、、、しかし、喜びの数と同じだけ、いや、ともすればそれ以上に悲しみや苦しみを経験するのではないでしょうか。子供には子供なりの、若者には若者なりの、そして大人になれば大人なりの、悩み、苦しみ、悲しみというものがあるものです。そう考えると、私たちの日常は、一喜一憂の日々です。浮き沈みの連続です。

浮き沈みは、生涯、付きまとうのかもしれません。しかし、もし、全ての苦しみ、悩み、悲しみよりも大きな、そして確かな喜びが存在するならば、私たちは、しっかりとした足取りで、生きていくことができるのではないだろうかと、私は思うのです。依然として苦しみや悲しみはあったとしても、心に宿る確かな喜びを武器に、それらと戦っていける、と私は思うのです。そしてそんな喜びを獲得したいと、心から思います。

ちょうど今日から数えて、50日後がクリスマスです。少し気が早いと思われるかもしれませんが、私の尊敬しています、あるカトリック神父は、お正月を迎えた途端に、「今年ももうすぐクリスマスだな」というのが口癖だったようです。それくらいクリスマスというのは待ち遠しいものです。私もクリスマスが楽しみで仕方ありません。喜ばしい出来事だからです。

クリスマスは、なぜそんなにも喜ばしいのでしょうか。そのことを今朝お読みした御言葉から少しでも深く読み取りたいと思います。今日は時間の関係上、全てを読むことはできませんが、第1章から第2章を注意深く読んでいると、気がつくことがあります。それは、イエスさまの父ヨセフと、母マリアが一言も言葉を発していないということです。クリスマスの出来事の中で、明らかに彼らは重要な登場人物ですから、本当はその言葉があって良いはずです。事実、他の福音書にはしっかりとヨセフとマリアの言葉が書かれていますから、この違いは注目すべき点です。では誰の言葉が記されているのかというと、天使たちが告げる神の言葉なのです。私はある年に、このことに気がつきまして非常に驚きました。興味深いことはまだまだあります。このクリスマスの物語の中には、命令形の言葉がいくつも出てくるということです。第1章だけを見ましても、20節の「迎え入れなさい」、21節の「名付けなさい」、そして24節では「命じた通り」と、これらが命令であったことを念押しするかのように記されます。第2章にはさらにありますが、それは後でご自分で探してみてください。今、2つの特徴を見つけましたが、どちらも、筆者が意図していることだと思います。

命令形に関していえば、もう一つあります。これはルカによる福音書の第1章28節です。マリアがイエスさまを身ごもったことに、天使が祝福の言葉を告げるくだりがあります。「おめでとう、恵まれた方」と天使は言うのですが、このおめでとう」と訳されている言葉です。私が持っている、ある英語の聖書では、動詞一語で”Rejoice!”となっていました。「喜びなさい!」という命令形です。非常に興味深い言い方です。私たちは「喜べ!」と命令したり、反対に「喜べ」と命じられることはほとんどないように思います。ではなぜ、「喜びなさい」と命じられているのでしょうか。それは、私たち人間は、多くの場合、このクリスマスの喜びを受け取り損ねているからだと思います。だから、神の御使いは、「喜びなさい!嬉しい出来事なんだから!」と、命じなければならなかったのでしょう。そして、この私たちが受け取り損ねる喜びこそ、悲しみや苦しみや悩みに打ち勝つための武器です。

今、お話ししました命令形の言葉はみな、ヨセフに告げられた神様の言葉です。その御言葉にどんどん事を進められる神の姿が浮き彫りになっています。神ご自身が、クリスマスの出来事の中心におられるのです。マリア、ヨセフを始めとする登場人物たちは、どんどん事を進められる神様のなさることに、巻き込まれて行くだけです。しかも神様がどんどんことを進めて行かれるのは、ご自分に何か利益があるからではありません。ひとえに私たちのために働かれるのです。私たちのため、とは、一体どういうことでしょうか。それはしっかり22節で答えられています。インマヌエル、「神我らと共に」、このことを実現するため、そのために神ご自身が、ご自分の方から私たちの元に来てくださった、それがクリスマスです。これを自分のための出来事として信じ、受け入れるのか、それとも知識や教養として頭の片隅に入れておくのか。神が私たちと共にいて下さるために、まるで無我夢中で、どんどん事を進めてくださっているのに、どうして私たちが無関心でいられるでしょうか。

星に導かれるまま、非常に強い関心を抱いてやってきたのが、第2章2節に登場する占星術の学者達です。学者ですから、彼らが見た星に関する知識も教養も豊かだったに違いありません。しかし、もしも彼らがそのまま自分の国に止まっていたならば、知識は知識のままで終わり、主イエスにお会いすることはなかったはずです。でも彼らは、星に導かれるまま、クリスマスの真相を確かめるために、神様が起こした出来事を見るために旅に出ました。そうやって自分たちも、その神の出来事の中に入り込んで行ったのです。入り込んで行った時「学者たちはその星を見てこの上もなく喜んだ」とマタイによる福音書第1章10節はしるします。「この上もなく喜んだ」というこの言葉は、原文を直訳すると「大いなる喜びを喜んだ」という言い方がしてあるそうです。「大きな喜びを喜んだ」、おかしな言い方ですけれども、そうとしか表現することのできない大きな喜びがここにあるのです。そしてこの喜びは、2000年前に生きていた人々にのみ許された喜びではないのです。皆さん一人一人に、神さまが、「喜びなさい!私があなたと共にいる、それがクリスマスに実現したのだ!私もそのことが嬉しい!喜びなさい!」と、まず神ご自身が大きな喜びの中に立って、呼びかけてくださっているのです。本当に畏れ多い、感謝なことです。そういう心のうちからふつふつと湧き上がってくる喜びを、私は一昨年よりも、昨年、昨年よりも今年と、少しづつ深く理解し始めています。本当に嬉しいことです。

この世界は、冒頭で申しましたように、人に言えないような悩みがあり、あるいはまた独りぼっちで苦しんでいるのだと思うようなこともある世界です。自分のうちにある暗闇に、心閉ざす思いに暮れることも多々あります。人生の岐路に立って不安を覚えている人もいるでしょうし、これから先もそういうことは続いて行くでしょう。そういう私たちのところにイエス・キリストが来てくださり、「インマヌエル・(私はあなたがたと共にいる)」と一人ひとりに約束してくださっているのです。そしてこのことを、神ご自身が誰よりも喜んでいてくださるのです。暗闇の中にいる私たちのもとに来くることを、ご自分で選ばれた神の御姿をイエス・キリストに見る時、私たちはもはや、暗くなることはなく、喜びのうちに力を得て、確かな思いに生きることができます。この喜びをみなさんにぜひ知って頂きたい。この喜びを知りたい、得たい、味わいたい、クリスマスって私にとって何なのだろう、教えてくださいと、祈り始めるとき、神様はきっと分からせてくださいます。それは神様の願いなのですから。今年のクリスマスが、皆さんにとってそんな「大いなる喜び」を味わい知る歩みの始まりとなりますよう願って止みません。それでは一緒にお祈りいたしましょう。

神様、私たちは、あなたが与えて下さろうとする、本当に大きくて確かな喜びを受け取り損ねます。おろかな私ども許してください。自分たちがいかに大きな喜びを受け損なっているかに気づき、へりくだってあなたに祈り始めることができますように。そしてどうか私どもにあなたが与えてくださった大いなる喜びを、去年よりも今年、今年よりも来年、と深く知り続ける歩みをさせてください。このお祈りを主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン。

放送礼拝 スポーツデー実行委員会

イザヤ書43章18節19節
「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き砂漠に大河を流れさせる。」

私は、中学1年生から毎年スポーツデー実行委員を務めています。小さい頃から水泳をやっていたこともあり、運動するのが好きでスポーツデー実行委員に立候補しました。中学1年生の時のスポーツデーがとても印象に残っていて、6年間スポーツデー実行委員をやりたいという気持ちが強くなり、また毎年前に立って活躍している先輩の姿を見て高校2年生になったら私も委員長をやってみたいと思っていました。
そして、高校2年生になり、委員長をやりたいと高2の委員会のメンバーに言ったところ皆が私を推薦してくれて中1の頃からの目標だった委員長をやる事ができました。その時はとても嬉しかったですし、全校生徒が楽しめるスポーツデーにしたいと強く思ったことを今でも覚えています。
今年のスポーツデーのための会議は4月から始まりました。中高一貫行事と言うこともあり、交流を深めながらクラスを越えて協力し、みんなが楽しめるような種目、ルール、運営にできるよう何度も何度も会議を重ねて決めていきました。意見がまとまらず何度も話し合ったり、雰囲気が悪かったりすることもありました。しかしそんな中でもお互いの力を合わせることの大切さを実感しながら準備をしていきました。そこから生まれたのが今回のスローガンでもある「全力合強(ぜんりょくごうごう)~輝け6色の絆~」でした。
スポーツデーを通して学年を越えて力を合わせて強くなれるようにと考えました。強くなるというのはただ単に勝負に勝つ事だけではなく、精神的にもどんな時でも全力で物事に取り組もうという想いも込められています。また、6色というのはチームカラーだけではなくて中学・高校合わせて6学年ある英和全体がスポーツデーを通して絆を深めていきたいという思いが込められていました。今振り返ると、このスローガン通りのスポーツデーにすることができたのではないでしょうか。
1週間という短い期間での練習でしたが上級生が中心となって練習している皆さんの姿に一体感を感じましたし、当日は各クラスの実行委員を中心にそれぞれのチームが力を合わせて協力している姿を色々なところで見ることができました。
各チームが優勝を狙ってこれまで頑張ってきたので結果を見て喜んでいる人や悔しい人がいると思います。でも結果だけに囚われるのでなくこの短い期間の中で頑張って練習してきた事や3学年で協力した事、先輩や後輩と仲良くなれた事。この今までの過程が1番大切だと思います。本番を全力で戦っていた皆さんは本当に輝いていました。
そしてこんなにも今年のスポーツデーが楽しく、大成功に終わったのは私だけの力ではなく周りの人の支えや協力があったからです。私が前に立ってまとめなければいけないのに自分のせいで沢山迷惑をかけみんなを不安にさせてしまいました。委員長をやめようかと思った事もあり、悩んでた時にある友人が、「あなただからみんなついていくんだよ。裏切らないんだよ。」と背中を押してくれて、自分が委員長としてやらなければいけないことを再確認しました。全体会議や本番で沢山意見やアドバイスをくれたり無理なお願いも沢山聞いてくれた実行委員の先輩と後輩、ルールに従って素早く動いてくれた全校の皆さん、いつもより朝が早いのに私より早く起きてお弁当をかかさず作ってくれて放課後も遅く帰ってきたら夕飯を作って待ってくれていた母、そしてなによりこんな頼りない私を1番近くで支えてくれて信じてついてきてくれた高2の実行委員メンバー。本当に感謝しています。1人ではなにも出来ませんでした。でもこの素敵な”仲間”がいたから辛い時も支え合うことができました。最後のスポーツデーを委員長として全力を尽くせたことが自分にとって変わる大きなきっかけでした。
ここで今日の聖書の箇所をもう一度読みます。「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き砂漠に大河を流れさせる。」 
「新しいこと」は人それぞれ違うけど、スポーツデー実行委員長をしたことが私にとって新しいことをする第一歩になりました。神様はいつも私たちの近くにいて支えてくださります。神様が荒れ野に道を敷き砂漠に大河を流れさせてくださったように、スポーツデーを通して私たちに綺麗な六色の絆をも輝かせてくださったと思います。
苦しいこともたくさんありました。けれども、その度に仲間の大切さと神様がいつも近くにいてくださることを心から感じました。失敗することがあってもそれを恐れず神様が共におられることを忘れず、1日1日を大切に過ごしていきたいと思います。
お祈りします。神様、今日も新しい朝を迎えられたことに感謝します。今日は私が悩み、その度に仲間のおかげで成長できたこと、神様の支えがあったこと、そして新しいことに挑戦することについてお話ししました。沢山の人の支えで今年のスポーツデーが成功したこと、心から感謝いたします。私たちは一人一人ではとても弱い存在です。だからこそ隣人を愛し、神様を信じ、共に歩んでいくことの大切さをこれからも胸に刻みたいと思います。今日一日も皆が健康に過ごすことができますように。また私の話で至らない点があったらあなたが補ってください。願いばかりの祈りですがこの祈りを尊き主イエスキリストの御名によって御前にお捧げ致します。アーメン。

放送礼拝 黒田先生

10月29日(月) 放送礼拝 詩編81編11節
<お話>
 皆さんは、「祈り」は聞かれると信じていますか、思っていますか?キリスト教では「祈り」を大切にします。実際キリスト教学校に通う皆さんも日頃、朝の礼拝、昼食の前、帰りの礼拝で祈る機会、また友人の祈りに心を合わせる機会が多くあると思います。ジョージ・ミュラーという人物は、キリスト者の中でも「祈りの人」として良く知られています。ミュラーは、19世紀にイングランド南西部のブリストルという町で、ただ「祈る」ことを通して、孤児院を設立・経営した人物です。当時イギリスは産業革命を経て世界一の座に君臨し、繁栄をしていました。しかし一方で、貧富の差は拡大し、労働者階級は貧困に苦しんで、親や頼る人のいない多くの孤児が生み出されました。その孤児たちは「救貧院」という国の施設に収容され、そこでは最低限の食事しか与えられず、設備は不潔・不衛生であり、さらには子どもであっても、勉強はさせてもらえず肉体労働を強制されました。ミュラーはそのような状況に心を痛め、貧しいスラム街に暮らす孤児たちを養い、またキリスト教教育を施す働きに生涯を捧げました。

 ミュラーの孤児院では、経済的に厳しい状況が幾度となく訪れましたが、ミュラーたちが祈った時に、必要なものは全て満たされました。例えば、ある時100人近くの孤児たちが朝食として食べるものが何もありませんでした。しかし、何もない状況で食前の感謝の祈りを捧げた時に、元々他の人に注文されていたけれどもキャンセルになったパンと牛乳が孤児院に届き、皆が食事にありつくことが出来ました。また、ある時には孤児院の孤児の数が増え、近所から騒音への苦情が寄せられ、孤児院を引っ越す必要が出て来ました。経済的には不可能な状況でしたが、祈り続けた時に、多くの献金が寄せられ、無料で設計や工事を請け負ってくれる建築家が現われました。さらには格安で土地を譲ってくれる地主が現れて、多くの孤児を養える広い土地を得て、大きな孤児院を建てることが出来ました。ここで驚くべきことは、ミュラーが経済的不足を外部の人々に対して、口外することは一度もなかったということです。それは、人間の力によるのではなく、ただ神のみが養ってくださる、養うことが出来るということを彼が証明するためでした。口外せずとも、実際に不思議な方法で一番良い時に一番良いものが孤児院に与え続けられました。

 この事柄は、わずか200年前に起った出来事です。これはミュラーが信仰深い人だったからなし得たことでしょうか。そういう面はあるかもしれません。しかし、それ以上に大切なことは「彼が自分の弱さを認めて、神の力に頼った」ということです。今日読んだ詩編81編11節の「口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう」という御言葉は、ミュラーが孤児院の働きを始めるべきか否かを悩んでいた時に、決心を与えられた御言葉です。彼はただこの御言葉を信じて、孤児院を始め、神に必要を求めて、その祈りは聞かれ続けました。

 当然、私たちが祈る祈りが、自分の思っているような形では聞かれないことはあります。祈っていたけれども望んでいる道が閉ざされることがあります。聞かれたとしても、聞かれるまでにとてつもない時間がかかることがあります。そのことは私たちにやりきれない悲しみや怒りを時にもたらすことだと思います。これまでの私自身もそうですし、ミュラー自身にもそういうことは多くありました。そのようなことに対して、私は他人に、「残念だったな。次に向かって頑張れよ」とか「我慢して、頑張れよ」などと軽々しく言うことは出来ません。それは、私が他人の思いを100%心の底から理解することは出来ないからです。けれども、神だけは私たちの全てを知って下さっています。人となってこの世に来て下さった神は私たちのこの世での痛みや悲しみも経験してくださっています。そして、聖書はエレミヤ29:11にあるように、神の計画は私たちに「平安」と「将来」と「希望」を与えるためのものだと約束しています。ですから、私たちは、自分の弱さを認めつつも、大胆に口を広く大きく開けて、祈りによって私たちの必要を神に求めてみませんか?私たちの願いを神に知ってもらいませんか?神の限界を勝手に決めてしまわずに、祈りは聞かれると信頼してみませんか?そのような主体的な祈りによってこそ、私たちは祈りの力や大切さを、身を持って知ることが出来るのではないでしょうか。

放送礼拝 YWCAひまわり部

ローマの信徒への手紙12章15節

私は夏休みに群馬県草津で行われたYWCAカンファレンスに参加し、ハンセン病について学びを深めてきました。

ハンセン病は手足などの末梢神経が侵される感染病で、知覚麻痺により熱や痛みといった感覚がなくなったり、汗が出なくなったりします。また、体の一部が変形する後遺症が残ることもあります。感染力が弱く非常にうつりにくい病気でもあり、特効薬が開発されてからは薬で完治する病気となりました。現在日本でハンセン病にかかる人は0名に近く、たとえ感染したとしても、ほとんどの人に免疫が備わっているため発病は稀です。しかし19世紀後半、ハンセン病は恐ろしい伝染病であると考えられていました。初め患者たちは治療を受けるために自主的に療養所に入所していましたが、諸外国から「文明国なのに患者を放置している」と非難され、患者の隔離政策が制定されました。この時は病気に対する差別や偏見から住み慣れた故郷を離れて放浪していた患者のみが収容されました。ハンセン病と診断されると、市町村の職員や医師が警察官を伴って度々自宅を訪れるようになったので、そのうち近所に知られることとなり、家族も差別や偏見の対象とされることがあったため、患者は故郷を離れることを余儀なくされていました。このような状況のもとで、全ての患者の隔離を目指した法令が成立し、各県で競い合うようにして患者を入所させようとする運動が起こりました。患者の自宅は真っ白になるまで消毒され、人里離れた場所に作られた療養所に送られていくという光景が、人々の心にハンセン病は恐ろしいというイメージを植え付け、それが差別や偏見を助長させることとなりました。

私は実際に国立ハンセン病療養所栗生楽泉園を訪れ、当時の様子を聞きました。入所者は、重傷者の看護や目や手足の不自由な患者の介護、食事運搬、土木工事、さらには亡くなった患者の火葬までさせられたそうです。また、十分な教育は受けられず、療養所内での結婚の条件は優生手術を受けることでした。こうした措置に不満を漏らせば、次々に特別病室という名の重監房に入れられました。病室とは名ばかりで、ここでは一切治療は受けられず、ろくな食事も与えられませんでした。冬にはマイナス20度に至ることもあり、ここで沢山の人が亡くなりました。

私は重監房資料館で実寸大の展示に入り、隣の人の顔も見えないほどの暗闇とコンクリートの壁や床から発せられる底冷えしそうな寒さを体感し、愕然としました。人が人として扱われなかった歴史を肌で感じ、人の命の尊さと人権の意味を知りました。

人権が侵されてよい理由なんて一つもないのだと思います。なぜなら神様がすべての人に命を与えてくださり、一人一人の人権は誰からも侵されないものだと憲法でも保障されているからで
す。神様や他者と共に生きるためです。私たちは誰からも人権を制限されることがない代わりに、誰の人権を制限することも許されていません。それはつまり私たちは誰もが何だってできるし、何にだってなれる可能性を持っていて、誰もがそれについて人の邪魔をする権利を持っていないということだと思います。私たちは神様から命をいただき、憲法によっても権利を保障されているから安心して何にでも挑戦できるし、そうやって私たちが歩んでいくことを神様は許してくださっているのだと思います。けれどもかつての日本においては、ハンセン病患者の人権は無視されました。

さて、このハンセン病問題が起こった原因の一つに、人々の無知・誤解・無関心がありました。私はハンセン病問題に触れて、正しく知ることで解決に向かう問題もあることを知りました。社会問題に対してただただ無力感を抱くのではなく、目の前の問題から目を背けず向き合うこと、そして心を開いて理解しようと努めることをこのカンファレンスで学びました。

ハンセン病患者を強制隔離するという法令は、最近やっと撤廃されました。しかし入所時に家族に迷惑がかかることを心配して、本名や戸籍を捨てた人が故郷に帰れずにいたり、根強く残る差別や偏見により社会復帰が果たせない人もまだいます。その方々一人一人を覚えてお祈りを捧げたいと思います。そして今も人権を守られずに過ごす人のことを理解し、学ぶ姿勢を持ち続け、今日の聖句にあるように「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」あり方をしたいと思います。

放送礼拝 谷井先生

エフェソの信徒への手紙3:16-19

今日のテーマは「内面の強さ」についてです。明日は待ちに待ったスポーツデーですが、スポーツの分野においても、「内面の強さ」は重要視されていますね。これが欠けていたら、真の意味でアスリートとは言えません。最近では、大坂なおみ選手の急成長の鍵としても注目されました。
私自身はというと、日々、内面の弱さを痛感しているので、今日の御言葉にある、「内なる人を強めてください」という祈りは私の切なる祈りでもあります。

そもそも「内面の強さ」とは何なのでしょうか。聖書には次のようにあります。「寛容で、親切で、人をねたまず、自慢せず、高慢にならず、礼儀正しく、自分の利益を求めず、怒らず、恨まず、不正を嫌い、全てをがまんし、全てを信じ、全てを期待し、全てを耐え忍ぶ」ことです。実はこの箇所は愛について語られているのですが、内面の強さにも通じると思いました。

この全てを完全にクリアできるのは、この世の中どこを探してもイエス様だけです。イエス様しか当てはまらないのです。一つ一つ福音書を読みながら確認していけばわかるのですが、今日は代わりに、英和でよく賛美するあの歌の歌詞を朗読します。
「まぶねの中に、産声あげ、たくみの家に人となりて、貧しき憂い、生くる悩みつぶさになめしこの人を見よ。食する暇も打ち忘れて、虐げられし人を訪ね、友なき者の友となり、心砕きしこの人を見よ。全てのものを与えし末、死の他何も報いられで、十字架の上にあげられつつ敵を許ししこの人を見よ」

私は、イエス様の内面の聖さと、強さに本当に憧れます。ほんの少しでも近づけることができたらと願っていますし、だからこそ、今日の御言葉にある、「キリストが心のうちに住んでくださいますように」と祈る必要性を覚えます。では、キリストが心のうちに住むとは、具体的にどういうことでしょうか?それは、常に自分の心に「イエス様ならこの状況でどうするか?」と尋ねることです。

例えば、今日は月曜日、宿題結構あったのに週末遊びすぎて宿題をしていない。先生に嘘をついてごまかそうかな…。友達とケンカした。私は悪くない。むこうが謝ってくるなら許してあげてもいい…。こんな状況の時に、自分の気分に左右されるのではなく、まず、「イエス様ならどうする?」と自分に問いかけてみましょう。答えとして、聖書の御言葉がすぐに心に思い浮かんだ人は、普段からしっかり御言葉を蓄えていますね。次は行動に移してみましょう。すぐに思い浮かばなかった人は、心の土をよく耕して、御言葉の種を大切に育てていきましょう。この繰り返しが私達の内面を強くしていくのです。

また、英和生である皆さんには、見習うべきすばらしい信仰の先輩方がいらっしゃいますね。例えば、初代校長のウィンミュート先生です。先生は、25歳という若さで、祖国カナダを離れ、キリストの愛を携えて、一人遠くこの山梨の地に来てくださいました。130年前、しかも女性一人です。想像もできない程の勇気です。また、第10代、12代校長のグリンバンク先生もそのお一人です。第二次世界対戦中、カナダ人宣教師達はスパイとみなされ、多くの人は祖国に帰る選択をしましたが、グリンバンク先生だけは日本に残る事を決め、横浜で一年間、辛い抑留生活を耐えられました。愛するお母様をカナダに残しての決断でした。お二人の先生方の内面の強さ、美しさはキリストの愛に根ざしたものです。

この愛を土台とする英和に連なる私達は、先頭を歩いて下さるイエス様を見上げ、今日も御言葉をしっかりと握りしめて歩みましょう。そして、日々、御言葉によって訓練され、磨かれ、内側から鍛えあげていただきましょう。

放送礼拝 伊藤先生

10月17日 放送礼拝                     
聖書    マルコによる福音書7章31~37節(p.75)
 

スポーツの秋、もうすぐスポーツデーですね。
先日までアジアオリンピック、その後パラリンピックがありました。毎日のように選手達の活躍がニュースで伝わってきました。
2020年には東京オリンピックが開催されることになっています。そしてその後にパラリンピックが行われます。パラリンピックは1960年に第1回ローマ夏季大会から始まり、身体・知的等にしょうがいを持つ人たちが競技します。
「しょうがい」はその人の個性であるという人々がいます。全くその通りだと思います。しかし、現実には「しょうがいのある人」は「しょうがいのない人々」優先の社会の中で周辺に追いやられることが多いとも言えます。この課題は思いがけず深く困難な面を持っていることも事実です。その意味でも、パラリンピックというプロジェクトは大きな意味を持っているのではないでしょうか。パラリンピックは周辺に忘れられがちの人々を社会の中心に連れ出すという方向が感じられます。
「パラ」はギリシャ語で「並べる」「共に」というような意味があるそうです。先にお読みした聖書の箇所マルコによる福音書7章33節には、『イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し…』と書かれています。「連れ出し」て、人々の真ん中に招かれました。彼は周辺ではなく真ん中にいます。
イエスさまは、子ども、老人、女性、異邦人(ユダヤ人達からみた外国人)というような弱い立場の人々を、大人、若者、男性、神の民(ユダヤ人)というような強い立場の人々と「並ぶ存在」へと「連れ出し」てくださいます。すべての人間は父なる神さまの前では等しく愛されている尊い存在であることがわかるようにして下さいます。

今日は、一人の貧しいおばあさんの詩を紹介させて頂きたいと思います。
題は「マローンおばさん」作者はエリナー・ファージョンという英国女性です。

森のそばで一人貧しく暮らしていたマローンおばさん。誰一人おばさんを訪ねる人はなく、心にかけるひともいない。
ある冬の月曜日、みすぼらしくて弱りはてたスズメが一羽、窓辺にやってきた。おばさんは「あんたの居場所くらいここにはあるよ」とスズメを抱いてつぶやいた。火曜日の朝、おなかをすかせ、棒切れのようにやせこけたネコが一匹やってきた。おばさんは「あんたの居場所くらい、ここにはあるよ」とネコをひざの上でさすってあげた。水曜日、6匹の子ギツネを連れた母さんギツネが座ってた。おばさんは「あんたがたの居場所くらいここにはあるよ」とキツネの親子を招き入れた。
「こんなによごれてつかれきって」 「あんたの居場所くらいここにはあるよ」
と言って、自分のわずかな食料をわけあたえるマローンおばさん。
マローンおばさんのもとには、スズメだけでなく様々な動物がやってくるのですが、
どの動物も弱っていたり、けがをしていたり、お腹をすかせていたり。
でも、どんな動物に対しても、居場所はここにあるよ。といって家の中に入れて
自分の食料をわけあたえました。
「次から次へと家族がふえた。
でも もう1ぴきぐらい居場所はあるよ」

そんな風になにもかも分け与えていたら、土曜日の夜ご飯の時間になってもマローンおばさんは起きてこなかった。
動物たちはマローンおばさんを天国の門へ連れて行きます。
そして、動物たちは門番の聖ペテロさまに、貧しくてなにも持っていなかったけれど、お母さんのように広く大きな心で動物たちに居場所を与えた人であることを伝えました。
それを知った聖ペテロ様
「母よ、入って王座におつきなさい。
あなたの居場所がここにはありますよ。マローンおばさん。」
と、中に迎え入れる・・・
“There’s room for another one, Mrs. Malone.”
ペテロの最後のセリフは、マローンおばさんが月曜日から金曜日まで新しい仲間を迎える度にいつも口にしたことばでした。「もう1ぴきぐらい居場所はあるよ。」
マローンおばさんは、その同じ言葉を今度は自分のために聞いたのです。

貧しい生活のマローンおばさんですが、来る動物を断ることなく「居場所」をつくり、わずかな食事をあたえました。
「居場所がない」ということがどれだけつらいことかを、マローンおばさんが知っているからかもしれません。ひとりぼっちでさびしい暮らしをしていたマローンおばさん。
そのことを誰かに嘆くこともなく、居場所がない!と訴えることもしなかった。
そのかわりにしたこと・・・それは多くの弱った動物の「居場所」をつくることでした。
そのことで、たくさんの動物たちに愛され、その空間がマローンおばさんの「居場所」になりました。
貧しい生活のマローンおばさんでしたが、最後はたくさんの動物に愛されて幸せだったのではないでしょうか。
自分のことでいっぱいいっぱいになった時、孤独を感じるとき、多くの人は、自分中心に考えてしまうような気がします。
まずは、自分から誰かの居場所をつくることが、自分の居場所になっていくのかもしれません。
イエスさまは、『心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
わたしの父の家には住む所がたくさんある。』とおっしゃいました。
「耳が聞こえず、舌が回らない」あの人もイエスさまのおられるところでは周辺ではなく、中心部にその居場所があったのです。

お祈りします。
恵み深い父なる神さま。
私たちの生きている社会には、しょうがいを持つ人、弱い人、疲れている人
悩んでいる人、苦しんでいる人がたくさんいます。わたしたちもその一人です。
どうか、マローンおばさんのように居場所はあるよ、と受け入れる心の温かい人
心の広い人になれますように。そして、他の人のことを思いやる心を持って、行動できる人になれますように。
私たちが疲れてぼろぼろになっても、神さまの家にはいつも私たちを迎えてくれる場所が用意されていることを思い、その豊かな恵みに感謝致します。
一人一人の祈りに合わせて、イエス様のお名前を通して御前にお捧げ致します。 アーメン

放送礼拝 長田先生

2018年10月15日 放送礼拝

 ヨハネの手紙1  1章1~2節
 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言葉について。― この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちが見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。

私は本を読むのが好きですが、みなさんはいかがですか?今どんな本を手にしていますか?
本との出会いは自分の世界を広げてくれます。おもしろいと思った本があったらそのシリーズを読んでみたくなるのではないでしょうか。ハリー・ポッターシリーズなどは続きが出るのを待ち遠しく思っていた人もいたはずです。また、その作者の他の本を次々と読んでいくこともあるでしょうし、関連したテーマの本を読んでいくこともあるでしょう。そうしてかけがえのない出会いをし、追体験をすることができるのです。
 私は、今年ある著者の本と出会い、その人が書いた他の本も読みたいと思い、さらにその本で紹介された写真集も手にしました。読むうちに、「私が追体験したことをみんなに伝えたい。」と思うようにもなりました。人は心動かされたことを誰かに伝えたくなります。これから、私が今年強く心動かされた命の言葉を証しし、伝えようと思います。

 私が最初に手に取ったのは『狂う人』という島尾敏雄とミホ夫婦の評伝です。著者は梯久美子さん。島尾ミホさんから何年にもわたって交流を続け、死後に息子さんから両親(島尾敏雄とミホ夫婦)のことをきれいごとでなく書いて欲しいと言われたそうです。この本で梯さんは相手に寄りそい、決して無理強いせず、相手の語る言葉を真摯に受けとめていました。
私はこの姿勢に惹かれ、続いて梯さんの『昭和20年夏』シリーズを読んだのです。
『昭和20年夏 女たちの戦争』『昭和20年夏 子ども達が見た戦争』『昭和20年夏 僕は兵士だった』という三部作です。『ゲゲゲの鬼太郎』の作者・水木しげるさんや昨年亡くなった俳人の金子兜太さん、『魔女の宅急便』の作者・角野栄子さん、国連で活躍されていた緒方貞子さん、女優の中村メイコさんなどから昭和20年の夏を中心に戦争経験を聞き書きしたものです。難しい言葉で書かれていませんし、感情的に語られてもいません。けれども、時を経て語られる言葉がこちらの胸に迫ってくるのです。図書室に入れてもらいましたので、ぜひ読んでください。
名もない一兵士が、子どもが、少女が、それぞれの思いを抱いて昭和20年を過ごしているのですが、悲惨な話しばかりではなく、思わず笑ってしまうようなエピソードもあります。さまざまな境遇の人達が生きた昭和20年、戦争が日常生活だった日々が身近に感じられるはずです。
 その中で、私が手にとってみたいと思った一冊が「女達の戦争」の中で語られていた写真集「ひろしま」です。この本も図書室に入れてもらいました。写真を撮影したのは石内都さんという女性カメラマン。広島で被爆死した人達がその日身につけていたものを撮影したものです。
 かわいい花がらのスカートが表紙でした。戦争中女性はもんぺで地味な服を着ていたと思っていましたが、この日着ていた服の中には、チェックのワンピースもあり、戦時中であってもせいいっぱいおしゃれしていたことがわかります。
けれども、思い思いに色鮮やかな服を着て出かけて行った8月6日の朝、その生涯は一発の原子爆弾によって断ち切られたのです。
 国語で平和教材を扱ったとき、思わず目を背けたくなるような資料に出会うことがありますし、実際目をそらしてしまう生徒の人もいます。見てはいけないもの、見たくないもの、と思ってしまうのでしょう。けれども、この写真集を手にしたとき、これは語り伝えなければいけないものだと思いました。そして、先ほどの聖書の箇所「わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちが見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。」を思い出しました。
 この服を着ていた人達は亡くなりました。けれども、この写真は永遠の命をもって伝えられるべきものなのです。そして、これを手にした私は、より多くの人達に伝えていかなければいけないと感じたのです。ぜひ、図書室に入れていただいたこの本達を手にとってください。
今日、放送礼拝という時を与えていただき、この命の言葉を伝えることができて感謝です。

図書室にはあなたを待っているたくさんの本が有り、たくさんの出会いがあります。この秋、たくさんの本を手にとってください。命の言葉に触れ、そのメッセージを受けとめてください。 読書が豊かな時を与えてくれることでしょう。

放送礼拝 新体操部

聖書 : 旧約聖書 詩編46編2節

今年9月16日に閉幕した新体操世界選手権で日本代表フェアリーズのフープ団体が見事銀メダルを獲得しました。世界には何組もの強豪団体がいる中で、日本選手団が最高得点に近い数字を出せたのは日々力を入れて努力している証だなと思い、尊敬しています。

新体操には個人競技と団体競技があります。英和ではありがたいことに団体を組むのに必要な人数の5人以上の仲間がいるため、中学生はクラブ、高校生はフープとクラブ両方を使用する団体演技に日々挑戦し続けています。

音楽に合わせたリズミカルな動き、力強さ、スピード、柔軟性や手具の操作など、日々自分が磨き上げてきた努力が結果に現れるスポーツです。大会で上手くいき成功した技の瞬間は全員で喜び合い、技をもっと高め合おうとする自信がわいてきますが、成功するまでの裏には仲間同士でも競い合うためチームでの意見の食い違いなどが多々あります。学年が上がるごとに個人の忙しさが変わり、なかなか思うように活動することができない日々が多くあり、誰か1人抜ける事でできる穴はとても大きく、自分と相手の出来の違いに悩んだり、なぜ大会に選ばれなかったのかと自分や仲間を責め、思い通りに行かなくて悔しい部分など様々な感情が個々にあります。

個人演技の場合は自分ひとりの責任で自分を追い込めば成長することができる一方、団体を組むという事はチーム全員の個性や表現を見抜き、ひとりで頑張ればいいのではなく全員が本気で挑み、全体で一つになろうとしなければなりません。不安などの感情の解決には仲間という存在があるから対処でき、頼ることもでき、声をかけてもらうことで自分自身を成長、変化させてくれます。

一つの短い時間の中で行われる演技ですが、団体という大きな課題に一人一人が時間をかけて大会で悔いのないように必死に取り組み、例え上手くいかず失敗しても、その過去を糧にしてこの瞬間へと導いてくれた神様に感謝して、これからも様々なことを乗り越え挑戦して行きたいと思います。

放送礼拝 糟谷先生

讃美歌:453 何ひとつ持たないで
聖 書:エフェソの信徒への手紙 6章 10-17節

 試験の1日目、眠気と戦いながら顔を洗い、支度をして登校した方も多いのではないでしょうか。
 しばらく前に、顔を洗う洗顔フォームが切れてしまったので、買いに行きました。ドラッグストアの棚の前で、白いボトルと青いボトルを手に取って迷った結果、何となく青い方を選びました。
 青い方を選んだのには、もしかすると、TVコマーシャルの影響があるかもしれません。
 白い方のコマーシャルは、人気の女優さんが朝の明るい光の中、キラキラした笑顔で、ふわっふわのマシュマロ泡を紹介するさわやかな映像です。青い方のコマーシャルは、これも人気の女優さんが、夜、仕事から帰った自分の部屋で、ひとり呟きながら、その日にあった嫌なこと大変なことを洗い流すように顔を洗う映像です。どちらも魅力的で良くできたCMだと思いますが、青い方のシリーズの方が現実的で共感できます。くたくたに疲れた一日の終わりに顔を洗って素の自分に戻る時、汚れだけでなく、その日の疲れや失敗を洗い落としているんだな、生きるってことはだれでも大変なんだな、とあらためて思うからです。
 顔を洗って落とすものは汚れや疲れや失敗だけではありません。大人だけでなく、中高生のみなさんだって、一歩自分の部屋から出れば、家族には家族にみせる顔、友だちには友達にみせる顔、外を歩く時は外を歩く時の顔があるのではないでしょうか。また、そうありたい自分であるための服や、話し方や、ふるまいを身につけて過ごすこともあるでしょう。むき出しの自分で生きていられる人の方が少ないと思います。身につけなければ生きられない社会的な「私」は、着続けるにはとても重いものです。青いボトルの製品を作った会社は、夜顔を洗うとき人は身につけた重いものをいったん脱いで素の自分になるのだ、ということもコマーシャルで表現したかったのではないでしょうか。
 神さまの前に立つ時、私たちは顔を洗った後のような無防備な姿で向き合わなければなりません。神さまは、見栄えのいい服ではなくその中にいる弱くて情けない本当の私をご覧になります。それは、私にとっては怖いことです。
 創世記で、人がヘビにそそのかされて知恵の実を食べた後、自分が裸であるのに気づき、ありあわせの葉っぱで身を隠す場面があります。あの人たちの気持ちはよくわかります。ありのままの情けない自分を神さまに見られると思ったら、そうするしかなかったのでしょう。神さまはそれを見てどうされたでしょうか。そんなみっともない葉っぱを着ても無駄だ、とはぎ取られたでしょうか。その反対です。神さまは、あたたかくて丈夫な毛皮で服を作り、人に着せてくださいました。楽園を出て、この世という現実の中で生きるには、裸では生きられないことをわかっておられたからです。
 さて、今日という一日の中へ私たちを送り出す時も、神さまは毛皮の衣を枕元に用意してくださっています。今日の聖書では「神の武具」と書かれているものです。私たちの一日は戦いの一日です。それは、だれかとの戦いではなく、自分の中にある悪との戦いです。戦いに勝つために必要な帯、胸当て、履物、盾、兜、剣というアイテムは、目の前にある聖書の中に用意されています。私たちが毎朝聖書を開くのは、悪との戦いに負けないよう、神の武具を装着するためでもあるのです。
 神さまは、私たちをありのままの姿で受け入れ、身につけるべき神の武具を用意してくださっています。それを身につけて、自分の中の悪とよく戦い、ぼこぼこにやられながらも、一日の終わりに顔を洗って、ありのままの自分で神さまに向き合い、なぐさめられたいと私は思います。

放送礼拝 華道同好会

マルコによる福音書16章15節

 私は華道同好会に所属していて、中学校に入学してからずっと生け花をしています。私たちの同好会では、木曜日と金曜日に協議会室でたくさんの生徒がおけいこをしています。しかし、全国的に見ると今生け花をしている人の数は年々減少していて、流派の継承が難しくなっています。

 その原因のひとつは家元の高齢化で、消滅する流派も多くあるそうです。若い世代の私たちは華道を日本の文化として受け継ぎ、発展させていく必要があります。華道という文化を守り、広めていくためには、まず私自身が同好会での活動に励み、日々技術を上げていく必要があります。その次に、華道を知らない人の輪の中に一歩踏み込む必要があります。そこで華道の魅力を伝えられるようになりたいと思っています。

 さて、今日の聖書の箇所の御言葉は、復活されたイエス様が弟子たちの前に現れ、天に上げられる前に最後に語られた言葉です。イエス様が死んでしまって悲しみに打ちひしがれていた弟子たちの前にイエス様が現れて、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を述べ伝えなさい」と命じられたのです。

 弟子たちはみなガリラヤの出身で、学問も財産もないような人々でした。そのような一人一人が行くことのできる範囲は限られているはずなのに、イエス様は全世界に福音を伝えることを求めたのです。これは自分の生活圏から出て、よいしらせを広めていくことを意味していて、私たちにも求められていることです。

 華道を伝えるのと同じで、何かを伝えるためには、そのことを知る必要があります。私たちは山梨英和で聖書に出会いました。よいしらせとは何か、私たちはどのように振る舞うべきか、聖書を読んで学ぶことができると思います。イエス様の求めに対して、まず知ることから始めたいと思います。

  お祈りします。

 天の父なる神様、今日も新しい朝をありがとうございます。イエス様の弟子たちが全世界に福音を述べ伝えたように、私たちもよい行いをしていくことができるようにお導きください。このお祈りを、主イエスキリストの御名によって御前におささげいたします。アーメン