生徒,礼拝のひとコマ

放送礼拝 新体操部

詩編91編11節~12節

私が部長になって5ヶ月がたちました。最初の頃は、私に務まるのか、ちゃんと周りを見て指示を出せるのかと不安でいっぱいでした。けれども今は私なりに少しずつですが、まとめられてきているのではないかと思います。この5ヶ月で私は色々なことを悩みました。部員とのちょっとした行き違いや意見の違いがありました。
私は、嫌な事や大変な事があったりすると、今日の聖書の箇所を思い出します。私には、大変な事や辛い事があって、その石に当たっても立ち止まらず、主が御使に命じてくださって、私がいるどんな道の上でも手を差し伸べてくれる。少しずつでも前に歩ける様にしてくれるという箇所だなと、読んだ時に思いました。
そして主は石に当たり立ち止まっている私に、私を助けてくださる方達を送ってくださいました。そうして、相談した方達に色々アドバイスをいただいた時、心が楽になったし、私がこれからどうして行くべきか見えた気がしました。聖書に書いてある通り、神様が私をどの様な場合にも守ってくださったのだと思います。
部活に行くことが苦になっていましたが頑張ろうと前向きに考えられるようになりました。悩んでいたからイエス様は私に、先生方や前部長のところまで私を導いてくださったのではないかと思います。
まだ私は、どう指示をしたらみんながわかりやすいのかや、どうしたらみんなが付いて来てくれるような部長になれるのかなど手探り状態です。それでも「役職は人を成長させる」という言葉がある通り、この期間は私を成長させてくれたように思います。まだまだ部長としてスタートしたばかりだし先は長いのですが、少しずつ色々なことができるようになり、私自身も部員全員も成長できたらと思います。
現在は、中学生は10月13日に高校生は10月28日に行われる新人戦に向けて練習を頑張っています。あと少ししか練習期間がありませんが、自分たちで少しでも時間を見つけその時間を大切に頑張っていきたいと思います。

お祈り
神様今日も放送を通してですが、礼拝から1日を始められた事に感謝いたします。今日は、私が悩み、たくさんの方達の言葉に救われた事についてお話ししました。色々な事に悩んでいる人達がたくさんいると思います。その人達の悩みもあなたが救い導いてください。
この祈りを主イエスキリストの御名によって御前にお捧げいたします。
アーメン。

放送礼拝 テニス部

箴言15章15節

私が中学2年生のとき、当時の国語の先生がこんなことをおっしゃっていました。「何をするにも、自分の考え方次第で物事は違って見えてくるものだ。辛いことがあっても、その中に楽しみや喜びを見いだすことが出来れば、気持ちが楽になる」。この言葉は今でも私の励みになっています。
私は去年、高1の7月にテニス部に入部しました。私がテニス部に入った一番の理由は、中学生の時にソフトテニス部に入っていて、仲間とラリーをすることが好きだったからです。部活に入って最初の頃は、「またテニスができる」という嬉しさがあり、毎日の練習を待ち遠しく感じていました。
高校2年生になり、1つ上の先輩方がもう少しで引退という時期に、私は先輩とダブルスを組んで試合に出させてもらうチャンスを頂きました。ダブルスの練習のとき、先輩は、私のプレーが上手くいってもそうでなくても、いつも私に声をかけ、励まし、盛り立ててくれました。試合当日はとても緊張しましたが、「なんとか初戦を突破して、2回戦の第1シードの学校と対戦したい」「すべての力を出し切って、先輩にとって最高の引退試合になるようにしたい」との一心から、先輩に助けてもらいながらではありましたが、精一杯試合に臨みました。
先輩方が引退してからは「私も先輩方のように部活をまとめていきたい」と考えていましたが、なかなかうまくいかず、それまで「ただ楽しい」と感じていた部活に行きたくないと思うこともありました。部長としての責任の重さに戸惑うことが多く、毎日の部活は不安でいっぱいでした。そんなとき、顧問の先生や先輩方に、「最上級生は、技術面だけでなく、声出しやトレーニングなど、何事にも率先して一生懸命取り組むことが大切。そういう姿に後輩がついてくるんだ。」
とアドバイスをして頂きました。私は自分の夏休み中の部活のモットーを「全力、本気、楽しく」として練習に臨みました。炎天下での練習はとても大変でしたが、この期間の活動を通して、部員1人1人の技術が向上したことはもちろん、部活としてのまとまりや一球一球を大切にプレーする姿勢など、部活の雰囲気はこれまで以上によくなったと感じています。

今日の聖書の箇所には「貧しい人の一生は災いが多いが、心が朗らかなら、常に宴会に等しい」とあります。私はこの「心が朗らか」というのは、「夢や希望を持っている人」と解釈しています。1ヶ月後には新人戦があります。現在高校テニス部は部員が4人しかおらず、7人制の団体戦を闘うには、最初からとても厳しい状況にあります。しかし一戦一戦を大切に、精一杯プレーすることを目標にし、さらに技術面で上達できるよう練習に励みたいと思います。また高校での部活動に悔いが残らないよう、これからも支えてくださる全ての方々に感謝して、全員で頑張っていきたいと思っています。

中学合同礼拝 中学2年生

中学合同礼拝
聖書 マタイによる福音書6:25~31

私たち中学2年生は9月14日~15日まで山中湖にキャンプに行ってきました。今回のキャンプは中学校生活最後の宿泊行事となるため、とても楽しみにしていました。私はこのキャンプを最高の思い出にするために、みんなの中心になって働きたいと思い、キャンプ実行委員長になることを決めました。夏休み前から何度もキャンプ委員で話し合いを重ね、準備をしてきました。みんなで意見を出し合った結果、今回のキャンプのテーマは、Enjoy Nature’s Wonders(自然の不思議を楽しもう)に決定しました。
キャンプ一日目は、大平山、平尾山、石割山を約5時間かけて登りました。天候にも恵まれ、全員が登り切ることができました。途中は急な坂や滑りやすいところが多く大変でした。しかし、仲間で手を取り合い、声を掛け合って励まし合いながら登ることができました。1人では諦めたくなることも、みんなでやれば乗り越えることができると実感しました。登山の後は、チームに分かれて飯ごう炊飯でカレーライスを作りました。薪に火がなかなか付かず、苦戦しながら何度も挑戦しました。最初小さかった火がだんだんと強くなってきた時はとても嬉しかったです。それぞれが自分の役割を果たし、どの班もおいしいカレーライスを作る事ができました。後片付けは、自分のチームのものだけではなく、他のチームの調理器具も洗ったりして助け合いました。なかなかスタッフの方からOKが出ず、何度も鍋や飯ごうの洗い直しをしましたが、最後まで諦めずにできました。夜はキャンプファイヤーをしました。この時のために、キャンプファイヤー係が事前に何回も打ち合わせをして、様々なゲームを考えてくれてとても盛り上がりました。
2日目は、チームに分かれて、オリエンテーリングをしました。地図を見ながら周辺を散策し、カヌーやボートに乗ったり、ゲームをしてポイントを競い合いました。私達の班は、途中道に迷ってしまうこともあり不安になりましたが、みんなで助け合って無事にゴールすることができました。
今回のキャンプを通して学んだことはたくさんありますが、その中でも2つのことを特に学ぶことができました。
一つ目は、自然を通して感じた神さまのすばらしさです。私は今回、登山を初めてしました。山にはこんなに沢山の草花があることを知り驚きました。私の身長くらいある草や、道ばたに咲く小さな花も見ました。また、様々な種類の鳥のさえずりも聞こえてきました。今日の聖書の箇所にあるように、働きも紡ぎもしない野の花や鳥さえも神さまは大切に養ってくださっていることがよくわかりました。そして、それら以上に私達を神さまは大切に思い、養ってくださることを知ることができました。
二つ目は、1人ではできないことも、みんなとなら乗り越えることが出来るということです。今振り返ると、登山や飯ごう炊飯、オリエンテーリングで、もし1人だったら諦めてしまったことが沢山あったなと思います。今回のことで、仲間がいることのありがたさを改めて知ることができました。
これらの学びを通して、同時に私たちの課題も見えてきました。キャンプ中の糟谷先生の礼拝で、次のことを聞きました。私たちは、世界の中心が自分であることがほとんどですが、それでは、誰かのために動くことはできません。困っている人を助けるためには、一歩中心からずれなくてはいけません。それはなかなか難しいことですが、それができた時、1人1人が成長し、さらに互いの絆が深まっていくと思いました。一泊二日の短い間でしたが、多くのことを学び、貴重な体験をすることができたことを感謝しています。

放送礼拝 図書委員会

2017.9.12図書委員会放送礼拝

「ヨハネによる福音書1章1節〜3節」

私は小さい頃から本を読むことが好きでした。小学生の時は、休み時間になれば学校の図書室に、休日には母と近所の図書館に、というように毎日本に囲まれた生活を送っていたのを覚えています。授業の前に読んでいた本の続きが気になって授業中もずっとその本のことを考えていたり、寝る前にどうしても最後まで読みたくて布団に入るふりをして暗がりでこっそり読み続けたこともありました。

でも中学、高校と学年が上がっていくにつれて段々と図書館に通う足が遠のいていきました。特に高校に上がってからは授業時間が増えたり、部活動や他の活動に精一杯で本を読む時間を作ることも難しくなっていきました。それでも久しぶりに本を開いたとき、そこには昔読んだときと変わらない世界が広がっていて、もう少し頑張ってみようと思わせてくれました。

本は年齢や性別、また国籍の壁を超えて辛いことを忘れさせてくれる時間や、背中を押してくれる言葉を私たちに与えてくれます。皆さんの中にも本によって慰められたり力をもらったりした経験のある人もいるのではないでしょうか。本を読むことはいま幸せな人にも、苦しんでいたり悩んだりしている人にも新たな一歩を踏み出すきっかけを与えてくれると私は思います。

私たち山梨英和の生徒が最も身近に手にしている「本」は何でしょうか?毎日朝と帰りに開く「聖書」だと私は思います。聖書を開くとそこには多くの人々が登場します。イエス・キリストはもちろん、ペトロやヨハネなどの弟子たち、マリアや徴税人のザアカイ、旧約聖書ではアブラハムやイサク、モーセなど。聖書の「言葉」は、私たちに時代も場所も越えて、彼らの活き活きとした姿や、喜びも悩みも苦しみも伝えてくれます。私たちが、図書館や書店で手にするそれぞれの本にもこんな力が秘められているような気がするのです。

皆さんが最近本を読んだのはいつですか?慌ただしい毎日の中でなかなか本を読む時間が取れなかったり、そもそも文章を読むことが苦手な人もいると思います。私たちは学校にも地域にも多くの本を手に取ることのできる環境にいます。最近では電子書籍などの普及に伴い、いつでもどこでも、気軽に本を読めるようになりました。身の回りにある本に目を向け、気軽に手に取ってほしいと思います。また今年も図書委員会では読書週間イベントを行う予定です。是非この機会に図書室に足を運んで、新しい一冊と出会ってみてください。

お祈りします
神様、今日も礼拝から1日を始められたことに感謝します。私たちが少しでも周りにある本に目を向け、たくさんの言葉と出会うことができますように。今日1日の歩みをお守りください。
このお祈りを尊き主イエスキリストのお名前によって御前におささげします。アーメン。

放送礼拝 若尾先生

ルカによる福音書6章38節

体育の授業で皆さんが走ったり、歩いたりする様子を見るようになりました。強歩の注意事項などが掲載された保健便りも発行され、いよいよ強歩大会に向けて準備がスタートしています。山梨英和では強歩大会をウォーカソンとも呼びます。ウォ-カソンは「Walk」と「Marathon」を合体させた意味でまさに歩いたり走ったりする、強歩大会の意味ですが、
もう一つ、スポンサーに依頼して募金を集める、charity活動としての意味もあることを、強歩大会を経験した中学3年生以上の英和生なら知っていると思います。

私が「ウォーカソン」という言葉と出会ったのは、大学生時代です。大学生時代に下宿していた寮の管理人さんからの声かけでした。管理人さんに「ウォーカソンで一緒に歩いたり、走ったりして募金を集めませんか」というようなことをいわれました。私自身は開催日に都合が悪く参加できなかったのですが、よくわからないままにスポンサーになり、募金した記憶がありました。そして数年後、教員として働き出すと、山梨県内では「走ったり、歩いたりする」一般的に強歩と呼んでいる大会を、山梨英和ではウォーカソンとしてスポンサーを募ることを知り、少しびっくりしたのを覚えています。そして、もっと驚いたのは、生徒のみなさんがスポンサーを募り、多くの募金を集めていること、そしてその募金をアジアの国、タイの学校に行くことができない中学生の学費支援に使っていることでした。教員となり数年後のことになりますが、私は、生徒2名と、学資支援をしているタイの中学生に会いに行くというツアーに、参加することができました。

当時募金していた基金の名前は「ダルニー奨学金」。タイに住んでいた少女ダルニーちゃんの学費支援からスタートしました。現在は経済発展にともない、支援の必要性が薄くなり、隣国のラオスの支援にスライドしてきましたが、私の訪問当時のタイの東北部は大変貧しい地域と言われていました。そのため、学校に行けず、農作業に追われる子供たちが大勢いました。ですから、支援を受けて、学校に行けるのは大変ありがたいことなのです。学校校舎も今は、大きく改善されている地域もありますが、数十年前の訪問時、訪問先の小学校校舎は衝撃的なものでした。柱にトタン屋根、教室と教室の境は壁で黒板はありましたが、校庭との壁はなく、電気もない建物でした。そのような校舎でも、友達に会え、勉強ができる学校をみんな大好きでした。学校訪問のあと、支援を受けている一人の男子中学生の家を訪ねた時の事です。やはり壁のない高床式の家の前で、その男の子は満面の笑顔で、目をキラキラさせ、「よこうそ、僕の家へ」と言わんばかりに迎えてくれました。一緒にいたお母さんも急いで畑から戻り、にこやかに、感謝の気持ち一杯に頭を下げ、お礼をしてくれました。

わたしは、私たちが届ける募金で、あのキラキラとした眼を見ることができるなんて、なんてステキなことなのだろうと、改めてウォーカソンの取り組みのすばらしさを実感しました。そもそも強歩は体力や気力、自分自身との戦いです。そのことはかわりません。
ただ、長い距離、目の前の坂道に、一歩が踏み出せないと思う時があるかもしれません。そんな時、この一歩の歩みの先に、多くの支援を受け取るラオスの子供たちの笑顔が待っていることを少しでも思い出したなら、その子供たちが背中を押してくれていることに気がつくのではないでしょうか。

今日の聖書のケ所を読む時、ウォーカソンのこと思います。今まで参加していた先輩、多くの卒業生が、「前に進むエネルギーがなくなりそうな時、支援を待っているタイやラオスの中学生のことを考え、少しでも多く支援をしたいという気持ちになると、元気が出てきた。」と話してくれました。実は私たちが、与えているようで、走るエネルギーなど多くのモノを与えてもらっているのではないでしょうか。来月の強歩大会でも、自分自身ががんばるのと同時に、ウォーカソンとして、自分のがんばりで 学校に行けるようになる仲間がいる・・・そんな、気持ちをもって走れば、元気がたくさんもらえそうです。

10月17日までの練習でも、辛くてもう嫌だ・・・、と思うこともあるかもしれません。でも、そこで頑張ることは、自分自身のためでもあると思うと同時に、皆さんの支援をラオスで待っている仲間のことも思って、頑張ってください。

放送礼拝 山田先生

2017.9.4放送礼拝
ヨハネによる福音書 1章1~5節
「人を喜ばせる言葉」

 夏休み中に「日本語を考える」という研修で、子どもがどのように「ことば」を覚えて使えるようになっていくかという内容の講義を受けました。とても興味深い有意義な講座でした。
 赤ちゃんは、1歳を過ぎるころから言葉らしいものをしゃべりだし、1歳半ごろから「マンマ」や「ワンワン」などの幼児語といわれる言葉を話しだします。このころの子どもは、生き物は犬も猫もパンダもみんな「ワンワン」と呼んで表現します。食べ物はみんな「マンマ」と呼ぶようです。もちろん個人差はあるようですが。
 子どもはだんだんと「マンマ」には、白いお米を炊いた「ごはん」や、ご飯を丸めた「おにぎり」や、おにぎりの中身には「うめぼし」「こんぶ」「たらこ」などがあることを「言葉」とともに理解していきます。言葉を理解する中で、自分の世界を広げていきます。少し難しい言葉でいうと、「ことばは世界を理解するための認識の道具」といえるのです。毎日少しずつ、子どもは喜びとともに言語を獲得していくのです。
 2歳から3歳児くらいになると、社会性を持つ言葉を使えるようになります。「アリガトウ」「ゴメンナサイ」という、目に見えない自分の気持ちも「ことば」に表すこともできるようになります。
私ごとですが、この講義を聞きながら自分の子育てのことを思い出していました。子どもがお菓子をもらった時やコップやスプーンを取ってもらった時に、「アリガトウ」が言えた時のこと、そして「アリガトウ」という子どもの「ことば」がおじいちゃんもおばあちゃんも、家族みんなをなごませたことを思い出しました。また、いけないことをしてしかられて、泣きながら「ゴメンナサイ」が言えた時の我が子の気持ちも思い出していました。子どもは「アリガトウ」という言葉と同時に「感謝」という認識をも持つようになり、「ゴメンナサイ」という言葉とともに「謝罪」という概念を手に入れることになるのです。そして、その言葉は、「アリガトウができるようになったね」「ゴメンナサイが言えたの、えらいね」と、家族みんなを喜ばせたものでした。
 このように、子どもの「ことば」は、自分の世界を広げるだけでなく、周りの大人たちの喜びも一緒に運んでくる魔法の言葉だったのです。でも、私たちは知っています、言葉は時に人をひどく傷つける武器になるということを。では、なぜ人を喜ばせる言葉が人を傷つける言葉になってしまうのでしょうか? 悪口、かげ口、からかい、嘘、いじわる、なぜこのような言葉を使ってしまうのでしょうか? 私たちは「ことば」を覚えながら、さまざまな感情を認識していきます。憎しみ、ねたみ、さげすみ、わがまま、劣等感、思い上がり。
 聖書のいう初めにあった「言葉」とは何でしょうか?神とともにある永遠の「言葉」
とは、わたしはイエス・キリストのことだと思います。イエス・キリストは、私たちに愛を伝えるために生まれ、教え、十字架でなくなりました。神さまの言葉とは、人を愛するための言葉だと私は思います。
 私は毎日、国語の授業で「ことば」を教えています。その言葉が、愛を伝える人を喜ばせる言葉であるように願っています。でも、人は誰でも失敗します。その時は「ゴメンナサイ」といいましょう。どうしても人を傷つける言葉が口をついて出てしましそうなときは、口を閉じて神さまに祈りましょう!
 わたしたちには、毎日自分の心や言葉を振り返り、静かに祈る時間が与えられています。聖書のみ言葉と、友人や先生の話に耳を傾け、深く祈る礼拝のときを与えられているのです。毎日神様からいただく素敵な時間です。「アリガトウゴザイマス」と感謝しましょう!
 夏休みがおわり、学校にも礼拝の時間が戻ってきました。夏休みから冬休みまでのこの期間は、1年間で最も長く充実した時期です。キャンプ、SSH研究発表、ドイツ研修、ウォーカソン、そして高校3年生は進路実現、皆さんが大きく成長するときです。毎日の礼拝に感謝して、一日一日進んでいきましょう!

お祈り
 神様、今日も礼拝の時間をありがとうございます。自分自身にも、隣人にも、あなたからの愛の言葉が注がれていることを信じて過ごせますように。後期も、安全に豊かな日々となりますように導いてください。尊き主イエス・キリストのみ名によりお祈りします。
アーメン

放送礼拝 御園生先生

「 信じる  」放送礼拝  ヨハネによる福音書20章26節~29節      2017.6.26 

先日、「星言葉」という小さな本に出合いました。この本を書いたのはカトリックの神父さんの晴佐久昌英さんです。前書きには、「ふと気づいたら、この星に生まれていた。あまりにも美しく、何から何まで不思議な星。・・・ぼくは、この星が好きだ。だから、もっとこの星をよく知りたいし、この星と深く交わりたい。・・・そんな思いを、この星に生まれた仲間たちと分かち合いたくて、この本を書いた。この星の言葉には、力がある。疲れたとき、迷ったとき、一番大切なことを見失いそうなときにこの本を開けば、きっと何かいいことがあるはずだ。ぼくはそういう、この星の上の不思議なご縁を信じている。」とありました。
 そして「愛する」「生きる」「歌う」「恐れる」など50の項目を通して、神様のこと、神様の愛について書かれています。
 今日はこの本の中の「信じる」ということについて紹介しながら考えたいと思います。
本には「人は常に何かを信じています。技術を信じて車に乗り、運転手を信じてタクシーに乗ります。しかし、一方で政治やマスコミ、科学も宗教さえ信じられないときがあります。信じても裏切られることが多々あります。でも、こんな時代だからこそ「信じる」という行為には値打ちがあるのでしょう。なぜなら、あらゆる問題が、最後は「信じる」ことでしか解決できないからです。疑いは対立を生み、さらなる疑いを生みます。それに対して、信じることはそのままエネルギーです。信じれば信じるほど、生きるエネルギーが生まれてきます。どれだけ疑っても、疑いからは答えは出ません。どのみち一瞬先は、だれにもわからないのです。信じた者だけがその一瞬を切り開き、決して負けず、希望を捨てずに夜明けを待つことができるのです。」
・・・力づけられるメッセージですね。
 さて、今日の聖書の個所で、トマスはイエスがよみがえったことをすぐには信じませんでした。しかし、他の弟子たちも初めから信じていたのではありません。よみがえったイエスに会ったマグダラのマリアの話を聞いた弟子たちはそれがどういうことを意味しているか解らなかったのです。その弟子たちは自分たちの前に現れたイエスを見て初めて信じたのです。そして、「その話だけでは信じない」と言っていたトマスも、目の前に現れたイエスを見て、この方が払った犠牲によって自分が許されたのだと実感し、心から信じたのです。イエス様は、その復活を疑っていた弟子やトマスに対し、信じていないからと切り捨てるのでなく「この傷跡を見なさい。」としっかり見ることを促し、そのうえで「見ないのに信じる人になりなさい。」と愛にあふれる言葉をおかけになったのです。
 目の前にイエス様を目にしたことのない私たちは、どうすればいいのでしょうか。「見ないのに信じる人」になるためにはどうすればいいのでしょうか?
この山梨英和で聖書を読み賛美歌を歌っている私たちは、実は何度も神様と出会い、神様の愛が豊かに備えられていることを信じるチャンスを与えられています。例えば、一生懸命にやっているのにうまくいかない!なんで私ばっかり?きっと私はだめなんだ!!・・・と思ったことはありませんか?皆さんたちの各委員会や部活の方の礼拝のお話にも何回もそういうお話がありましたね。そこで悩んだことは、必ず解決が用意されていて、それまでとは違った絆が生まれたり、自分の視野が広がったり、そしてそういう機会を用意してくださった神様の愛に気づくのですね。これは、私たちがより強くなるために与えてくださった試練だったのですね。神様の愛を信じたから、何かいいことが起こったというのではありません。 私たちは、初めから全てを信じられるほど強くないのです。でも、それをご存知である神様は、私たちに何度も何度も「本当に信じる機会」を与えてくださいます。ですから、その機会を逃さず神様の愛に気づくことができれば幸いなことです。「信じるものが救われる」のではなく「信じることそのものが救い」なのだと思います。その「信じるエネルギー」をもって毎日を歩んでいきたいと思います。

お祈りします。
天の父なる神様、放送を通してですが、全校の皆さんとともに御言葉を聞き神様がともにいてくださることを見せてくださることに感謝します。私たちは苦しいことがあると、トマスのように神様の存在を疑うことがあります。しかし、そんな私たちの前に、聖書の中から「見ないのに信じる人は幸いである。」と何度も愛にあふれる言葉をかけてくださいます。 今日一日、神様のみ手の内にあって、御心にかなう行いができますように。この祈りを主イエスキリストの御名において、御前に御捧げ致します。  アーメン

放送礼拝 水泳部

テサロニケの信徒への手紙 一 5章16~18節(新p.379)

 私は水泳を始めてから今年で12年目になりました。始めたばかりの頃はタイムが順調に伸び、試合に出場できることが嬉しく水泳が大好きだったのを覚えています。しかし最近では、思うような泳ぎができずタイムも伸びず、水泳を続けることが辛いとか、水泳をやめたと思うような時が多々あります。毎日、一生懸命練習していても周りの友達のように速くなれず、センスや才能のない自分が嫌いで仕方ない時もありました。そんな私が今も水泳を続けていられるのは仲間や家族の支えがあったからです。

 今日の聖書の言葉を考えたいと思います。「いつも喜んでいなさい」の「いつも」は、なかなか難しいことだと思います。喜べるときに喜びなさい、楽しいことがあったら喜びなさい、ではありません。「いつも」と書かれています。心配事を抱えても、辛い中におかれていても、「いつも喜びなさい」とあります。しかし、ここには、神様の大きな約束があると思います。「わたしが、どんななかにあっても喜ばせてあげるから、いつも喜びなさい」という神様が言って下さっているのです。

今年の高等学校総合体育大会では、昨年に引き続きメドレーリレーとフリーリレーにも出場することができ、学校対抗でもチームとして目標としていた4位に入ることができました。みんなが力を合わせた成果であり、そのことで今までの自分の努力が無駄ではなかったのだと思うことができました。

 私たち高校3年生は部活動の引退まで残りわずかとなりました。今月24日25日には関東高校予選会が行われます。この大会に勝ち抜くと来月22日~24日には関東高校本大会があります。水泳はこの関東大会がインターハイ予選に位置づけられています。私自身、高校に入学した時からインターハイ出場を目標としてきました。高校1年生の時も2年生のときもあと少しのところでインターハイ出場権をとることができず、悔しい思いをしてきました。今年こそは入学時、心に決めたインターハイ出場という目標を達成するため、そして、今まで支えてくれた仲間や家族に感謝の気持ちを伝え恩返しができるように、最後の最後まであきらめずに自分の力を出し切りたいです。

放送礼拝 演劇部

箴言 13章4節

私は演劇を観るのが好きです。また、観るだけでなく「演じる」ということにも興味がありました。しかし、私の出身中学校では文化系の部活が少なく演劇部はなかったため、そういった活動をすることなく、私の興味を満たすことはありませんでした。

高校に入学して新入生歓迎会で見た演劇部は楽しそうで、入りたい気持ちが高まり、すぐに入部を決意しました。しかし、同じ時期に入部した中学生たちは、経験者もいれば未経験者とは思えないくらい演技の上手いものもいて、楽しい気持ちはありつつも不安な気持ちが大きくなってきました。学園祭の役決めの頃は、まだ演技の技術が身についておらず、残念ながら役はもらえませんでした。それが悔しくて、自主練をしていました。それが良かったのか、大会に向けての活動が始まると、私は初めて役をもらいました。先輩には勿論のこと、後悔にも遅れを取っていると感じていた私は、その日から毎日必死になって練習をしました。先輩に指摘された部分を少しでも周りに近づけるよう、また少しでも上手くなれるように、家に帰ってからも何度も何度も練習しました。初めはセリフを覚えるのに必死でしたが、先輩から「上手くなったよ」とか「声が出るようになった」と言われるのが嬉しく、「演じる」ことの楽しさを感じられるようになってきました。さらには、今演じている劇の世界に入り込めるようになりました。

今日の聖書の箇所にある「勤勉な人」というのは、言葉の通りコツコツと努力をしています。普段から努力をしているからこそ、自分の望みを叶えるための努力を惜しむことはありません。だから豊かに満たされるのではないでしょうか。私もそうなりたいとおもい、日々努力を続けていきたいと思います。

今年の演劇部は新入部員も増え、また先輩方もこの学園祭で最後となります。今年も部のみんなと劇を作り上げる楽しさや嬉しさを感じられるように、昨年以上に頑張っていきたいと思います。

放送礼拝 バスケットボール部

ローマの信徒への手紙8章18節

私たちは日々の生活の中で、様々な悩みや壁にぶつかることが多くあります。私は、幼い頃から自分にとっての困難や苦労に立ち向かおうとせず、いつも逃げてばかりいました。中学生の時、私は小学校の時のミニバスの仲間と一緒にバスケ部に入部しましたが、先輩とのいざこざや自分の練習に対する意識の低さからすぐにバスケ部を退部しました。そんな自分と決別するきっかけがほしいと考えた私は、英和高校に入学すると同時に、もう一度バスケ部に入りたいと思うようになりました。しかし、遠方から通っていることや入学前に両親と決めた、勉強のために高校に通うから部活には入らないという約束、何より中学生の時の自分の経験があって、なかなか決断することはできませんでした。中学生の時の自分と同じことを繰り返してしまうかもしれないという弱気な思いと、自分を変えたいという思いの中で葛藤し、顧問の先生や両親と何度も話し合いを重ねた結果、同じことは繰り返さないと自分に誓って、バスケ部への入部を決断しました。

入部してからは、様々な悩みにぶつかりました。私は遠方から通っていたため最後まで練習に参加できないことや、自分が思ったようにプレー出来ず悩んだことはもちろんですが、何より悩んだのが、部員との関わり方です。バスケ部では、中高一貫で練習しているため、入部当時から先輩も後輩もいるという環境に戸惑い、なかなか馴染めずにいたのを今でも覚えています。さらに、そんな私を不安にさせたのは、高3の先輩の引退でした。それまで集団をまとめた経験がなく、いつも誰かに付いて行っていた私が、気づいたら中高全体の最上級生、しかも必然的に副部長という立場になり、チームをまとめなければならなくなったことに焦りと不安しか感じることができませんでした。

その環境に馴染めないまま、私は部活で何をしていてもどこか孤独に感じていました。自分の不安を周りの環境のせいにばかりしていましたが、今思うと孤独の原因は周りだけではなかったと思います。バスケはチームスポーツです。全員の気持ちが一つになり、同じ方向を向いていなければ、誰かを感動させられるようなプレーは生まれません。仲間から見ればチームが一つになれない原因の一つに私の存在があったと思います。一緒に練習していてもどこか孤独で、いつしか練習に対する不満ばかりを募らせるようになりました。どうして私だけなのだろう、いつもそう考えていて、練習に楽しさを見出せず、何度も辞めようかと考えました。当時の私は常にネガティブ思考で、何をしても物事を良い方向に考えることができず、過去の自分がそうであったように、楽な道へと少しずつ向かっていたように思えます。そんな私を救ってくれたのは、顧問の先生方、共に闘う同級生、情けない先輩を頼りにしてくれた後輩たち、引退した先輩、私の話を聞いてくれる友人、家族、私の周りにいるたくさんの人の言葉でした。多くの人に教えてもらったのは、前向きに物事を捉え、勇気を出して伝えることの大切さと、人に頼ること、頼られることの大切さでした。誰かに頼れば、必ず自分にとってよい助言が与えられ、その一つ一つが新しい自分に生まれ変わらせてくれました。

自分に精神的余裕が生まれてくると、先輩や顧問の先生にコミュニケーションを取らずにいる後輩のことが心配になり、後輩たちが最上級生になったときに私と同じ思いをして欲しくないという思いが芽生え、新入部員を中心に、自分の方から少しずつ後輩たちともコミュニケーションを取るようになりました。後輩たちを支えているつもりが、そのことで自分を成長させてくれていたことにも気付きました。私を支えてくれた全ての人が、私にとっての恩人です。バスケ部での時間を振り返ると、この時の悩みがあったからこそ、今の自分があるのだと思います。

先日の高校総体では、県内随一の強豪校と対戦する、とても貴重なチャンスを与えられました。試合を通して、チームとしては強豪校相手に自分たちのプレーが少しでも通用するという自信につながる大きな成果を得られた一方で、自分自身はなかなか思うようなブレーができず、試合のほとんどをベンチから、満身創痍で戦う仲間の姿をただ見守ることしかできなかった自分をとても情けなく感じていました。応援に足を運んでくれた高校一年生と落合先生、校長先生、家族の声援が飛び交う中で、私はただ自分の自覚のなさを再確認し、見守るだけの辛い時間が流れました。試合中の怪我によりコートに立ちたくても立てない仲間がいて、相手チームにはベンチに入ることさえ許されない人がいて、自分が何をするべきだったのか、改めて考え直すきっかけになったと思います。

私たちに残されたのは、インターハイまでの残り僅かな練習時間のみとなりました。大きな山を何度も乗り越えた今、部員の気持ちが一つにまとまってきているのを日々の練習で強く感じることが出来ています。チームとして技術的にも精神的にも今がとてもよい状態であり、自分自身とても前向きな気持ちで日々を過ごしています。チーム一丸となって挑む目標は「勝利」です。引退を迎える私たちだけでなく、部員全員にとって、このメンバーでコートに立てるのは、インターハイが最後となります。これまでの積み重ねを信じ、共に闘った仲間を信じ、自分を信じて、これまで支えてくれた全ての人への感謝を忘れず、最後のブザーが鳴るその瞬間まで、1つのボールに必死に喰らいつきたいと思います。今の私があるのは、ここまで何度も迷惑をかけ、ぶつかり合い、一緒に戦ってくれた部員みんなのおかげです。見ている人に感動を与えられるような、英和らしいバスケを最後まで追い求めたいと思います。

私は、バスケ部に入ったことで変わることが出来ました。そのことを次のインターハイではプレーで表現し、ここまで私を支えてくれた全ての人に恩返しをするつもりで挑みます。これまで数え切れないほど悩み、そのたびに涙を流してきましたが、流した涙の分だけ成長した自分を証明し、試合に対するプレッシャーを跳ね飛ばし、これまで自分が積み重ねたもの全てをぶつけて、最後まで仲間と走り抜けたいです。そして、残された僅かな時間の中で、私にしか感じることのできない思いを、少しでも多くの人に伝えていきたいです。

お祈り

神様、今日も新しい朝をありがとうございます。礼拝を捧げる機会を与えられたことに感謝します。私たちが乗り越えた困難の分まで成長していくことができますように。今日一日、皆が安全に過ごせるようお見守りください。
 この祈り尊き主、イエスキリストのお名前を通して、御前にお捧げいたします。
アーメン。