生徒,礼拝のひとコマ

放送礼拝 保健委員会

保健委員会  テサロニケの信徒への手紙一 5章18節

あなたは毎日お弁当を作っていますか。たいていの人は、ご家族の方に作ってもらっていると思います。今年度、私たち保健委員会は、山梨県高等学校保健研究大会で発表校となっていたため、四月から準備を始めていました。そしてテーマは女子高校生のお弁当作りに挑戦となりました。

普段お弁当を作ったことがなかった私は、実際に栄養満点なお弁当作りができるだろうかという不安がありました。また、委員会のメンバーは部活などの活動で夏休みに全員が集まることが困難だったため、1人1人家で作るということになったので、みんなはどんなお弁当を作るのだろうとさらに不安が増しました。しかし、家庭科の若尾先生が、お弁当のポイントなどを中心に講演してくださったおかげで、不安がなくなってきました。

そのポイントを皆さんにもご紹介します。最初のポイントは、栄養のバランスです。私たちは、特にカロリーを気にすることが多いと思います。だから、低カロリーの食材を選んだり、油をあまり多用しないことが大切です。次に、腐敗を防ぐことです。温かいご飯を冷ましてから詰めること、よく加熱することに気をつけます。最後に手早く作ることです。電子レンジを使うと、時間が短縮できます。そしてスムーズなお弁当の詰め方は、ご飯、主のおかず、副のおかずの順です。

このようなポイントを元に実際お弁当を作ってみると、すき間が無いようにすることが難しかったです。それだけでなく手早く作ることや栄養のことを考えながら作ることは、思っていた以上に大変でした。毎日、当たり前のようにお弁当を食べていただけの私。このような大変さを知り、感謝の気持ちになりました。そしてお弁当作りを通して自分のためでなく誰かのためにお弁当を作ってみたいという気持ちにもなりました。

「いただきます」は、食事に携わってくれたすべての人、そして私たちの栄養の元になってくれている食材たちの命にも感謝しての言葉と聞きます。今日のお昼も、感謝して「いただきます」と言いましょう。最後に、18節をもう1度読みます。「どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです。」

お祈りをします。神様、今日も新しい朝をありがとうございます。だんだん寒くなってきており、体調を崩しやすい季節になりました。バランスの良い食事等に心がけて体調管理をしていけますように。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。

放送礼拝 華道同好会

華道同好会放送礼拝原稿
コロサイの信徒への手紙 3章11節から14節

 私は、中学3年生から華道同好会に入り、今年で3年目になります。華道は、活けるときに一定の決まりごとやルールがあり、私達は先生が黒板に描いてくださる図に従って花を活けていきます。活けるお花は同じ種類でも、一輪一輪違っていたり、活ける人の個性がでるためか仕上がりはそれぞれ違ってきます。明るい作品、繊細な作品、おおらかな作品、几帳面な作品などその人なりの個性が作品に表れます。そうやって、仕上がった作品を見るのもみんなで活動していて面白いと感じるところです。
 華道の作品に表れる活ける人の個性は見ていて楽しいものですが、私達自身の個性については少し違う感情が生れます。私達の年代は、個性に対してとても複雑な気持ちを持っています。他人と全く同じだと嫌なくせに、みんなから大きく外れてしまうことを恐れます。私達は、「みんな」という実体のないものの視線を恐れます。「みんな」という集団は、一人一人の集まりです。だから、本当はその中の一人一人ときちんと向き合うことができれば理解しあえるはずです。しかし、私達は時にその一人一人と向き合えず、集団の中でどう見られているのか不安な気持ちに支配されてしまいます。お互いの違いを認め合う努力を諦めてしまうことがあります。
 今日読んだ聖書の箇所の13節を見てください。互いに忍びあい、責めるべきことがあっても許し合いなさい。主があなたがたを許してくださったようにあなた方も同じようにしなさい。と書かれています。私達は誰でも過ちを犯してしまうことがあります。意図せずして人を傷つけてしまうこともあります。自分がそのような存在であることを認めなければなりません。
大勢の中に紛れていれば間違えていないと思ってしまうこともあります。しかし神様は私達を大勢の中のひとりではなく、たった一人の存在として見てくださいます。だから私達も「みんな」という集団ではなく、その中の一人一人にきちんと向き合うことが大切なのだと思います。互いに許し合うというのは互いを理解しあい歩みよることだと思います。お互いを尊重し合い認め合うことが大切なのだと思います。
 私達は、いろいろな偶然が重なって、今この学校で出会っています。同じ校舎で同じ時を過ごしています。この出会いをより豊かなものにするために、一人一人との関りあいをもっと大切にしたいと思います。

お祈りします。
 神様、今日も新しい朝を下さり、放送を通して皆で礼拝を守れたことに感謝いたします。今日は、互いに許し合い理解しあうことの大切さについてお話ししました。互いが尊重し合い高めあえる存在になれるようお支えください。このお祈りを尊き主イエスキリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。

放送礼拝 大野先生

雅歌 2章11節~12節
ごらん、冬は去り、雨の季節は終った。
花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。この里にも山鳩の声が聞こえる。

おはようございます。
アドベントを迎えて最初の月曜日です。
この時期に礼拝を担当する幸いをいただいて今年で4回目となりました。
これまで私はコンピュータにかかわるお話をしてきました。
天才スティーブジョブズとアランチューリング、そして近未来に起こるといわれているシンギュラリティ。シンギュラリティは今年になってずっと現実に近づいてきたと思える世の中になってきたと感じています。これからの10年でIoTとAIの結びつきでできることが次々と実用化されていくでしょう。

今回も引き続き新しいアーキテクチャのコンピュータについてお話しするつもりでした。しかし、最近「本を読む」ということについての記事を目にする機会があり、これに深く共感して、ぜひともみなさんにもお伝えしたいと思いました。本を読む、読まなければならない、それも今、ということです。

まず、私自身と本との関係について少しお話しします。
私は本が好きです。物心ついたときから本とともにいました。家には床から天井まで届く大きな古い本棚や父が手作りした本棚などもあって、中には本がぎっしり詰まっていました。国内や海外の文学全集や単行本などをはじめ、何かの研究書や「人形の作り方」などと言う本もあって、すぐ手の届くところにあるそれらが大好きでした。中には見るからに怪しげな古い本もあり、おそるおそる開いてみると、戦前の検閲なのでしょうか、×で消された文字列や(10行抹消)などと書かれているページが現われて息が止まったことを、古い紙のにおいとともに思い出します。

それほど本が好きになったのは、両親の影響があるのでしょう。
子供だった私に両親は本を与え、漢字を教え、たとえば食事のときや掃除をしているときのような日常の何気ない一瞬に詩や物語の一節を語りかけてくることがよくありました。

からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。

このように、耳にするそのほとんどは文語体で、子供にとっては意味もわからなかったし、それが素晴らしい作品なのかもわかりませんでした。ただ言葉自体は美しい流れの響きとして受け入れられました。この響きに囲まれていたくて、もっと知りたくて、本を手に取る。私が本を好きなのはこうした日本語の表現の多様さ、あるいは言葉の響きの多様さを追いもとめるところが多分にあったと思います。

さて、どうして本を読まなければならないのでしょうか。
なぜなら本を読むことはさまざまな表現・言葉と出会うことであり、「言葉がなければ考えることができない」からです。共感した記事の言葉を借りれば「言葉は思考そのもの」なのです。

少し話が飛びますが、みなさんは「ソーシャルエンジニアリング」「ステルスマーケティング」「SEO」といった言葉を知っていますか。これはネットワーク利用に関係する言葉で、パスワードの不正入手や、記事なのか宣伝なのかわからない宣伝、より多くの検索対象とする技法、といったことです。これらの言葉を知らなければ、より深い意味でネットワーク利用には注意が必要であり、そのためにはどうしたらいいのかといった考えは起こってきません。

私たちは物を考えるときには日本語という言葉を使っています。ですから私たちが物を考えるのに必要不可欠な言葉を十分に知らなければ、その先を考えることができずに、その時点で思考はとまります。考え自体が貧しくなってしまう、ということです。だから言葉を増やさないと考えも深まらなければ広がりもしません。言葉をたくさん知っていて、それを自由に使いこなせることが豊かな思考をはぐくむことにつながります。本を読むことはまさにこのことを具現化できるのです。もちろん、自分ではできない体験を本で体験できる、ということも大きな要素で、想像や感情の世界が広がりますね。

今は他にしたいことがあるから、後でいいや、と思っていませんか。
それではだめです。なぜなら、「本には読むべき時期がある」からです。

実際、子供のころに本を読んでいないと、大人になってからも本を読むことができず、長い文章を読めなくなってしまう、という報告がされていますが、それはさておいて、中高生時代に読んでおかないと一生読めなくなってしまう、といった種類の本があるのです。大人になってからでは遅い、今ならこの登場人物たちと同じ目線で物事を考えられる、今でなければこの登場人物たちの心の動きがわからなくなってしまう、といったものが。「ぐりとぐら」は大変にすばらしい絵本ですが、それを味わえるのは子供だけでしょう?「赤毛のアン」だって「アンネの日記」だって、同世代の今だからより感情移入できると思いませんか。そして今ここで心を動かされる体験をしたことは、大人になってからも間違いなくみなさんの心の中に残って大きな糧となってくれます。そしてみなさんはその糧をきっと次の世代に伝えていくでしょう。今思えば、私の両親が語りかけてきたのも、そんな思いがあったのかもしれません。英和の図書室には今読むべき本がたくさん揃っています。どうぞたくさんの本と出合ってください。

今読んで、ぜひみなさんの心に残していただきたい本があります。
それは「日本国憲法 前文」です。たった643文字の中に、日本国憲法全体の考え方を示す根本的な考え方が書かれていて、二度と戦争の過ちを繰り返さない、という固い決意を読み取ることができます。私は山梨英和で過ごした高校時代の政経の授業でこれを暗記する、という課題を出されました。苦労して覚えたのですが、卒業後もさまざまな場面でその一文を思い出し、現在も自分の行動を決める指針となっています。

そしてあらためて、聖書を読んでほしいと思うのです。
職員礼拝では聖書の通読を続けています。一切飛ばさずに読み続けていると、さまざまな発見があります。現在は「雅歌」を読んでいますが、美しい物語の中におもわず心を引かれる言葉をいくつも見つけます。今日お読みしたのは「雅歌」の中で最も心惹かれる言葉です。みなさんも毎日礼拝を守り、聖書を読み続けています。先生方やクラスメートが選ぶ聖書の言葉はみなそれぞれが大切にしている神様の言葉です。ですからその日の礼拝で聞いた聖句の周辺を読むことからはじめてみませんか。きっと発見があり、御言葉が「すとん」と自分の中に取り込まれていく、そういった瞬間があるはずです。御言葉をもっともっと自分の中に取り込んでください。今、この山梨英和でしかできないこと、友とともに聖書を学び、神様の言葉を自分の生きるよりどころにできるという喜びを受け入れてほしいと願っています。

お祈りします。
神様、今朝も姉妹たちとともに礼拝から一日を始められることに感謝します。
寒い季節となりました。明日からは定期試験も始まります。どうぞ一人一人の健康をお守りください。主の御名によって祈ります。アーメン。

中学合同礼拝 中学3年生

聖書:フィリピの信徒への手紙1章9~10節
  「知る力と見抜く力を身につけて、あなたがたの愛がますます豊かになり
      本当に重要なことを見分けられますように」


   私たちは9月15日にリトリートに出かけました。リトリートの目標は「神を信じ、平和をつくり出した人々に学ぶ」で、北杜市の浅川兄弟記念館とポール・ラッシュ記念館・聖アンデレ教会を訪れました。
    この日までに、甲府聖オーガスチン教会の眞野牧師から清里伝道について、山梨英和大学のイ・サンジン先生から浅川兄弟について、ポール・ラッシュ記念館の秦(はた)先生からポール・ラッシュの生涯について学びました。
    これから浅川兄弟のことから学んだことをお話しします。

    浅川伯教(のりたか)と巧の兄弟は、北杜市高根町に生まれ学生時代にキリスト教の洗礼を受け、1910年代に植民地時代の朝鮮に渡りました。兄弟はともに朝鮮の陶磁器の美しさに魅了され、朝鮮の人達への交流を深めました。彼らが生活した当時の朝鮮半島は日本による植民地統治の後、朝鮮の人達を偏見の目で見て差別することが当然のように行われていました。そんな状況を目にした巧は、同じ人間として朝鮮の人達と真の友人として関わりたいと考え、進んで朝鮮の社会に入っていきました。そのため時には同じ日本人から「なんで朝鮮人の味方をするんだ」と軽蔑されることもありました。しかし、巧は抵抗することもせず、この国の人達の苦しみや痛みを知ろうとしました。この姿は、聖書の中で弱い人のそばに寄りそうイエス様の姿と重なるように思いました。
    戦争の近づく社会情勢の中でも、巧は自らの意志で朝鮮の国と文化と人とを心から愛しました。
    巧は荒れ果てた朝鮮の山を緑に変えることを夢み、林業技手として朝鮮の山々を歩き回り、朝鮮の人々と作業を進めました。また、陶磁器や民具を研究し朝鮮民族美術館を設立したりもしました。
    巧が40歳という若さで亡くなった時、多くの朝鮮の人達が悲しみ、「棺をかつがせてほしい」と申し出たそうです。それだけ、巧は朝鮮の人から愛されていたのです。ソウル郊外のマンウリにある巧の墓にはこのように刻まれています。「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人ここ韓国の土になる。」

    今日読んだ聖書の箇所の「知る力と見抜く力を身につけて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられますように」とは、巧の生き方そのものだと思います。巧は本当に重要なことを見分けました。それは国同士の関係が悪かったとしても人と人との心の交流を大切にすることです。
    誰よりも朝鮮の人を愛し愛された巧の生き方は、日本と朝鮮の未来を築く精神が暗示されているようです。
    私たちも普段の生活の中で迷うことがあると思います。けれども、本当に重要なことをしっかりと見抜いて、人に接することができるようになりたいと思いました。

 2 浅川兄弟記念館の次に、清里清泉寮にあるポール・ラッシュ記念館を訪れ、その後聖アンデレ教会で礼拝をささげました。その時のことをお話しします。
 
  ポール・ラッシュは1925年に東京と横浜のYMCA会館再建のために初来日しました。
 1926年には立教大学教授になり、ポールは日本聖徒アンデレ同胞会を設立し、一時帰国して
からは日本聖路加国際病院建設のために募金活動を行いました。
 戦後の1945年に、連合国軍総司令部の一員として再来日したポールは、1946年「清里教
育実験計画」を開始しました。以後、ポールはキリスト教の隣人愛の精神を類い希な熱意を抱
いて、清里の清泉寮を拠点に高冷地実験農場の設立をはじめ、戦後の農村復興に励み、多くの
人に勇気や感動を与えました。清里の今の発展を築いてくれた人がポール・ラッシュなのです。
 私はポール・ラッシュの生涯の話しを聞いて、日本の人達のことをずっと思い続けていてく
れたことをとてもうれしく思いました。また、一つのことに対して努力していた姿が、すばら
しいと思いました。
 ポール・ラッシュは、縁もゆかりもなかった日本に来て、日本のために生涯をささげました。
戦争に負けた日本のために病院を作り、清里を開拓してくれました。そこにはキリスト教の愛
の精神があふれていると思います。
 私もポール・ラッシュのように何か一つのことに対して努力をし、色々な人の役に立てるよ
うになりたいと思った一日でした。

 お祈りします。
 神様、今日も朝から皆と礼拝できることに感謝します。今日は中3がリトリートで学んだことの一部をお話ししました。私たちも浅川兄弟やポール・ラッシュのように隣人を思いやる気持ちをもつことができますように。
クリスマスまでの日々をイエス様の生涯を思いながら過ごすことができますように。
朝・夕と冷え込んできています。皆の体調が崩れぬようにお見守りください。
このお祈りを尊き主イエス・キリストの御名によって御前におささげいたします。アーメン。

放送礼拝 聖歌隊

箴言17章17節

私達聖歌隊は、9月に盲学校の寄宿舎に入居されている生徒さん達と交流する機会を与えられました。事前に盲学校の校長先生から生徒さん達のお話は聞いていたのですが、交流会が近づいてくるにつれ、「目が見えないってどんな感覚なんだろう」「どんな風に話しかけたり、接したりしたらいいんだろう」と、目が見える私の不安な気持ちがどんどん大きくなっていきました。

また、交流会の練習をしている時、うまくいかないと「なんでこんなことが出来るようにならないんだろう」とネガティブになっていく自分がいました。そんな不安な気持ちで迎えた交流会当日。「気持ちを切り替えなきゃ」と思っていても、やっぱり少し不安な気持ちを引きずる自分がいました。しかし、交流が始まり、どうやったら楽器の音がなるのか、振った り触ったりしながら色々試している生徒さんのチャイムを一緒に持って「こう鳴らすんだよ」とゆっくりチャイムを振ると、柔らかくて明るい音が響き、その生徒さんはとても嬉しそうな表情で何度も何度も鳴らしていました。その様子を見ているうちに、次第に私の心も明るくなっていくことが感じられました。

近所の老人クラブから交流会に参加して下さったお年寄りの方々は、「あっちの音もならしたい」と言って、音の高さが違うチャイムの音を聞き比べて楽しんでくれていました。少し時間が経って全員でドレミの歌を演奏している時、ある生徒さんが突然前に出て、笑顔で指揮を振り出しました。その生徒さんの様子は、周りの人たちをみんな笑顔にしました。

それまでの私は不安やプレッシャーで頭がいっぱいになってしまい、生徒さんやお年寄りの方々のように、音楽をする事によって生まれてくる、純粋な楽しいという気持ちを忘れてしまっていました。気持ちは、自分が出す音や声、表情に大きく影響します。そのことをわかっていたはずなのに、私はずっと「うまくやらなきゃいけない」「できるだろうか」という気持ちを引きずったまま生徒さん達と接していました。そのことに気づくことができた後の合唱は、不安な気持ちを捨てて、「私は歌が好き、楽しい、伝えたい」という気持ちで歌うことができました。

歌っている時に生徒さんが体でリズムを取りながら聞いてくれたり、終わった後にお年寄りの方々が「とても感動したよ、またあなた達の声が聞きたい」と言ってくださったりして、 本当に嬉しかったです。

先日行われた芸術文化祭ではこの交流会での経験を生かし、器楽管弦楽部門、合唱部門、ともに仲間達と楽しみながら精一杯演奏することができました。この芸文祭期間に、私達高校二年生は、「もっとできる」「もっとよい演奏を」と、後輩達に対してつい厳しい言葉を投げかけてしまうこともありました。それでも、たった6人しかいない私達と一緒に、朝、昼、放課後と毎日練習を積み重ね、共に頑張ってきた12人の高校一年生には、感謝の気持ちでいっぱいです。

音楽は一人で完成することはできません。作詞や作曲をする方がいて、私達のように演奏する人がいて、そして聞いてくださる方々がいて成り立つものです。パズルは、ピース1つ1つが1つもかけることなく組み合わされ、初めてパズルが完成します。それと同様に私達も聖歌隊の仲間、指導してくださる先生、一人も欠けることなく演奏することで私達の音楽が生まれます。大切なこの出会いに感謝して、「私たちは音楽が好き、音楽を通してこの時を一緒に楽しみたい」という気持ちを込めて、よりよい演奏を目指していきたいです。

放送礼拝 高校宗教委員会

ヨハネによる福音書 4章23節        宗教委員会

皆さんは、『星の王子様』という本を知っていますか? ”大切なものは目に見えない”という言葉を始め、生命や愛など人生の大きな問いに答えた作品として、人々に広く知られています。 では、この本の作者であるサン=テグジュペリという人は知っているでしょうか?

サン=テグジュペリは本だけでなく数々の名言を残した人としても有名です。彼は、第一次世界大戦、第二次世界大戦を経験しています。そして苦難や悲しみ、人々の無意味な争いを知り、感じたこと、考えたことを言葉にして私達に残してくれました。今日はその中でも特に印象に残った言葉を紹介します。

【大人は誰でも、はじめは子供だった。しかし、そのことを忘れずにいる大人はいくらもいない】
当たり前のことを言っているように聞こえるかもしれません。たしかに、月日が経つにつれて昔のことを忘れてしまうのはしかたのない事です。では、サン=テグジュペリはこの言葉を通して何を伝えたかったのでしょうか。私は、たとえ時間が経っても忘れてはいけない事があると解釈しました。忘れてはいけない事、それは気持ちだと思います。日本にも”初心忘れるべからず”という言葉がありますが、私達も、初めは確かに持っていた気持ちを忘れていってしまうことがあります。

身近なことで言えば、家族や友人に対する感謝の気持ちです。私達はいつだって誰かに支えられて生きていますが、その環境に慣れ、いつしかそれが当たり前だと感じてしまいます。サン=テグジュペリの経験したことで言えば、戦争も同じです。初めは一人の生命を奪うことにも抵抗のあった人々が、戦争中には平気で何十人、何百人の命を奪っていきます。その光景が何年も続き、世界中が戦争を正当化するようになるのです。戦争はサン=テグジュペリの言葉通り、時間と共に命に対する気持ちが失われていった出来事です。

また、私達英和生は毎日必ず礼拝を捧げます。皆さんは初めて聖書を手にしたときのことを覚えていますか。私は聖書と共に過ごす英和での生活を想像してとてもワクワクしていました。ですが、最近は、毎日の礼拝に慣れてしまい、正しい姿勢で礼拝を捧げる事が出来ていませんでした。

このように、私達は常に心に留めておかなければいけない大切な事が沢山あります。そして、私がそうだったように多くの人はそれらを見失ってしまうものです。そんな時はぜひ、聖書を開いてみてください。感謝については、テサロニケの信徒への手紙一5章18節に「どんな事にも感謝しなさい」と書いてあります。また、平和についてはマタイによる福音書5章9節に「平和を実現する人々は 幸いである」とあります。礼拝に対する姿勢は今日の聖書の箇所に書かれています。ぜひ、繰り返される日常に時々足を止め、今の自分を振り返って見てください。きっと気づけることがあると思います。

お祈りします。 神様、今日も放送を通してですが礼拝から1日を始められたことに感謝します。今月はキリスト教強調月間です。一人一人が聖書を通して今の自分を見つめ直す時間が持てますように。そして、神様のみことばから多くを学ぶ機会となりますように。また、今日1日の皆の安全をお守りください。このお祈りを尊き主イエスキリストのみ名によって、み前にお捧げいたします。アーメン。

放送礼拝 中学生徒会

マタイによる福音書5章9節

広島から未来のために学ぶ

毎年、夏になると、必ずニュース番組で「広島平和記念式典」についてとりあげられているのを見ます。この2日間、私は毎年テレビの画面でしか見たことのない式典に参加することができました。

式典の前日に「広島平和記念資料館」を見学しました。そこにはこれまでの広島の歴史や原爆の仕組み、その威力や被爆後の状況など様々なことが事細かく説明、展示されていました。私が特に印象に残ったのは、被爆者の負ったケガの画像です。被爆者の悲しく、苦しそうな顔や、見るに耐えないほど痛々しいケガ、人が焦げた様子を見て、あまりの残酷さに私は言葉を失いました。以前から被爆者のケガはひどいものだということは知っていましたが、私の予想を遥かに上回った事実でした。

また、はじめて目の前にした「原爆ドーム」はテレビで見たときの何倍もインパクトがあり、原爆の恐ろしさを今に生きる私たちへ物語っていました。実物を見ることで「これは未来に残さなければならない」という気持ちがよりいっそう強くなりました。

式典当日は宿泊施設から出たとたん、朝なのに気温が高いことに驚きました。式典の会場につくと、この暑さは増していき、日陰に入っていても汗だくで、私のペットボトルの水はどんどん減っていきました。この暑さの中、原爆が空から降ってきたら、まさに「生き地獄」という言葉がぴったりだと感じました。

子供代表による「平和への誓い」の、その堂々とした姿勢やハキハキと自信を持って話している姿に感動しました。また、「未来の人に、戦争の体験は不要です。しかし、戦争の事実を正しく学ぶことは必要です」という言葉は本当にその通りだと深く感じました。

広島は焼け野原だったところから、現在たくさんの人が集まり、笑顔あふれる場所になりました。このような復興を遂げることができたのは、被爆後の人々の団結力や復興にかけるそれぞれの思いの強さがあったからだと思います。

唯一の被爆国である日本が主体となり、1人ではなく、たくさん人が集まって平和について考え、過去の悲劇を確実に未来へ伝え、一歩一歩着実に世界の平和に向かって歩んでいくことが大切だと感じました。

今年8月6日、 緑に囲まれた平和祈念公園は、せみの鳴き声に包まれ、青く澄み渡った空が広がっていました。七十二年前のあの日もこんな朝だったのでしょうか。広島平和祈念式典は原爆死没者名簿奉納から始まりました。この一年間で死亡が確認された被爆者の数は合わせて五五三〇人。その方たちの名簿が慰霊碑に納められました。七十二年もの間、原爆によって苦しめられ、家族の元へ帰ることができなかった方々のことを思うと、悲しくてやるせなくなりました。

平和宣言と共に大空へ放たれた鳩の光景が私は今でも忘れられません。あの鳩のように被爆者の魂が、心置き無く翼を広げ、飛ぶことのできる日はいつ訪れるのでしょうか。平和への願いを背負い、飛び立って行く鳩の姿には、とても感慨深いものがありました。それと同時に、私たちが鳩のように、被爆者の思いを受け継ぎ、伝えていかなければならないと思う瞬間でもありました。

平和記念式典の前日、全校生徒で折った折り鶴を、平和への願いを込め、奉納しました。そこには掛けきれないほど沢山の折り鶴が掛けられており、皆の平和への願いがここに集まっていると感じました。これからも折り鶴を折り続け、平和を祈り続けていきたいです。

平和な時代に生まれた私たちは、原爆の恐ろしさを知ってはいますが、心のどこかでもう戦争は起こらないと思っていないでしょうか。私は初めて原爆ドームを訪れ、原爆にあった人々の生々しい姿が映されている写真を見ました。そこには人間が人間でなくなってしまう恐ろしい姿や、思わず顔を背けたくなるような写真もありました。原爆が人をこんなにも酷い姿にしてしまうのを目の当たりにし、原爆を心から憎いと思いました。

今年、核兵器禁止条約が国連で採択され、核をめぐる動きが大きな転機を迎えました。被爆者の貴重な証言が、世界の人々の心を動かしたのです。世界は平和に向けて動き出しています。

今回の式典参加で、平和であり続ける為には、私たちに何ができるのかを真剣に考える機会を持つことができました。原爆死没者慰霊碑に刻まれている言葉、「過ちは繰り返しませぬから。」被爆者とのこの約束を、私たちは決して忘れてはなりません。私たちには、平和を守り続けていく使命があるからです。

お祈りします。
神さま、今日も皆(みな)が学校に集(つど)えたことに感謝いたします。
今日の私たちのお話が皆の心に留まりますように。
私たち1人1人が、過去を学び、平和について考え「平和を実現する人」となれますようにお導き下さい。
この祈りを尊き主、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

中学合同礼拝 井出先生

聖書 出エジプト記 11章1~10節
今回読んだ聖書の箇所には怖いことが書かれていますね。神様がエジプトの国中の初子をみんな殺してしまうことを予言していることが書かれています。なぜ、神様がこんな恐ろしいことをすることを予言してたのでしょうか。このころ、イスラエルの人々はエジプトで奴隷として働いていました。そんなイスラエルの人々を神様が助けるために、モーセに命じて様々な奇跡をエジプトの王様に見せているのです。最初に読んだ聖書の箇所の前にも神様はナイル川の水を血に変えてしまったり、3日間エジプトを何も見えないくらいの暗闇に変えたりと様々な奇跡を見せました。いろいろな奇跡をみた王様ですが、結局神様の予言を信じなかったことが、この聖書の箇所に書かれています。
みなさんは普段の生活の中で神様はいると感じることはありますか?僕は普段の生活の中でいろいろなときに神様はいると感じています。僕の教えている科目である理科について知っていく中でも神様がいると感じることがあります。例えば、音が聞こえる仕組みについてみなさんは知っていますか。音が耳まで届くと、まず耳介(みなさんが耳と呼んでいるところ)によって音が集められます。そして、耳の穴のことを外耳といいますが、外耳を通って鼓膜まで音が伝わります。鼓膜で音は大きくされ、中耳という場所を通って、内耳という場所まで伝わっていきます。中耳の中にはいろいろな長さの細かい毛が生えており、音が届くとこの毛を揺らします。毛が揺れることで電気が発生し、この電気信号が脳に伝わり、脳が電気信号を解読することで、音を認識しています。僕たちが音を認識するまでにこんな複雑な仕組みが働いているんですね。そして、音が耳に入ってから、脳で認識するまでの時間は一瞬です。一瞬じゃなかったら会話なんてできないですよね。そして、私たちは音を認識するだけではなくて、「ありがとう」と言われたら嬉しくなったり、悪口を言われたら悲しくなったり、また相手が話しているニュアンスなんかでも感情が変化したりします。これってすごい奇跡だとは思いませんか。もし、人間と同じような機械を造ろうとして、世界中で一番頭のいい人たちが集まっても造ることなんてできません。だから、人間よりもはるかに頭が良くて、何でもできてしまうような存在、つまり神様がいないと人間のような奇跡みたいな存在はなかったんじゃないかと思うのです。
今回は耳について紹介したのですが、この英和の中で過ごす中で、みなさんが学校行事や勉強、部活を一生けん命取り組んでいる姿をみて、一人ひとりが奇跡のような存在であるとひしひしと感じています。みなさんは友達の姿を見たり、普段の生活の中で、奇跡だなって感じることはありますか?僕は、神様から毎日奇跡を見せてもらっているのに、出エジプト記に書かれている王様のように、神様の存在を疑ってしまったり、神様から離れて生活をしてしまうこともあります。聖書には王様の心を神様がかたくなにされたと書かれています。神様自身が王様の奇跡を信じられない心をつくっているんです。だから、神様が奇跡を見てすばらしいと感じられるような心を贈ってくださらないと、いくら奇跡が私たちの周りで起こっていたとしてもなかなか気づけないんですね。神様から贈られてくる奇跡のような日々に感謝しながら過ごしていきたいですね。みなさんも、もし心がかたくなになっているなら、神様にお祈りすれば日々見えているものが全然違うものに見えてくると思います。

高3学年礼拝 井出先生 

聖書 列王記上3章5節~14節
今読んだ箇所では、神様がソロモンになんでも願いをかなえるということが書かれています。そのとき、ソロモンは神様に知恵を欲しました。みなさんならなにを欲しますか。この、聖書の箇所から勉強をすることの理由を考えることができると思います。
「なぜ勉強をするのか?」
この疑問は教育学部で勉強をしていた僕にとって、非常に重要な問でした。また、これからも考えていかなければならない重要な問のひとつです。みなさんはこの問に対して答えることができますか?なかなか難しい問いですよね。将来役立つと思いながら勉強している人。受験に必要だから勉強をしている人。いろいろな理由があると思います。
僕は勉強をする理由が大きく分けて二つあると考えています。
みなさんは「女王の教室」というドラマを知っていますか?このドラマは阿久津先生という非常に厳しく悪魔のような担任教師がいて、小学校6年生の子ども達が立ち向かっていくという内容です。物語の終盤になると、途中様々なことから、子ども達が実は阿久津先生は良い先生なんじゃないかという思いを抱き始めます。最後に阿久津先生は良い先生なのかを試すために大人が答えにくいと思う質問を阿久津先生にしていきます。その中に、「なぜ勉強をしなければならないのか?」という質問があります。阿久津先生はその質問に対して、「勉強はしなければならないからやるのではない。生きていると様々な疑問がわいてくる。その疑問の答えを知りたいと思うから勉強するのだ。」と言います。このドラマの再放送を大学生のときに見たときに、非常にしっくり来たことを覚えています。勉強というものはしないといけないからするのではなく、自分が疑問に思うこと、わからないことを解決するために勉強をするのです。僕が受験生であった時を振り返ると、勉強すればするほど疑問に思うことが出てきたことを覚えています。そして、その疑問を解決することが勉強の面白いところであると思っています。みなさんも受験勉強は苦しいものであると思いますが、知的好奇心を満たす楽しさを感じながら勉強していってほしいと思います。
二つ目の理由は神様や人のために何かをするために知恵を身に着けるように勉強をするのだと考えています。ソロモンは神様の役に立つように知恵を欲しました。そして、神様はそのことを喜んだことが聖書には書かれています。聖書にはこの知恵を使ったソロモンの話が続きに書かれています。ぜひ聖書列王記上3章16節~28節を読んでみてください。簡単にお話をまとめると、2人の女性が一人の子供を連れてきます。その2人の女性はその子供が自分の子供だと言い、ソロモンに審判をしてもらうためにやってきます。ソロモンは2人の女性に子供を二つに割いて分け合いなさいと命じます。一人の女性は相手の子供だと認めるから子供を助けてくださいとソロモンにお願いします。もう一人の女性は子供を割いてくださいとお願いします。そこで、ソロモンは子供を助けてほしいとお願いした女性が本当の母親であると審判します。神様から与えられた知恵はすごいですね。ソロモンはこの知恵を使って、神様と人々のために働き、王としての役割を果たしました。ソロモンは神様から授けられた知恵を国を統治するために用いましたが、どのような職業においても、よい働きをするためには知恵が必要になると思います。そして、将来役に立つ知識や知恵を身に着けるためには、まず基礎学力がないといけません。基礎学力があるからこそ高度な知識や考え方を理解することができるからです。今のみなさんの学びが神様や人のために役立つような知恵につながっていくことを心からお祈りしています。

放送礼拝 スポーツデー係

ヘブライ人への手紙12章1~3節

最後のウォーカソン、全力で走ろう。そう決めたのは当日の1週間前でした。過去に2回ウォーカソンを経験してきましたが、2回とも良い結果を出す事が出来ませんでした。急な坂道で体力を奪われ、早い段階で折り返してくる人とすれ違い、ゴールにたどり着けないのではないかと不安な気持ちでいっぱいだったのを覚えています。そんな悔しい思いをしてきたので、今年は同じスポーツデー実行委員の仲間と一緒に上位を目指して走ろうと約束をしました。

それから、当日を迎えるまでの期間、私たちは朝の練習に積極的に参加をして20分間という短い時間でしたが、ペースを合わせて走りました。ペースを合わせられず、ついて行く事が出来ない日もありました。それでも友人たちが私にペースを合わせてくれたり、声をかけてくれたりして私を励ましてくれました。

当日を迎えるにあたり、たくさんの準備がありました。その中でも特にタイやラオスの貧困に苦しむ子供達のダルニー奨学金の募金活動を行うという事が大変でした。現在ラオスでは教員数、教材、教具などの不足により十分な学習環境が確保されていません。また通学困難により勉強をしたくてもできないという子供達がたくさんいます。

小学校を卒業してすぐに働く子供もいるそうです。それに比べて現在の私たちの教育はどうでしょうか。学校の制服があり、カバンや靴があり、1人1人自分の教材があり、十分な学習環境があります。それが当たり前だと思っていないでしょうか。

ダルニー奨学金は貧困のために教育に恵まれない子供達の進学を支援するというシステムです。年間14,400円、1ヶ月あたり1,200円で1人の子供が1年間学校に通う事ができます。私は先日見た映画の中で、どんなに長い距離でもどんなに危険な道でいつ命を失うかわからないという状況にあっても大好きな友達と大好きな勉強をして、夢に向かって頑張っている子供達の姿に感動しました。叶えたい夢、やりたい事に向かっている姿は本当に魅力的だと感じました。

当日はあいにくの雨でウォーカソンを実施することが出来ませんでしたが、当日まで一生懸命走ってきた事は決して無駄ではないと思います。その一歩一歩が苦しむ人々の助けに繋がると思います。また、今回のプログラムを通じて自分と向き合い、他者を思うことができたのではないでしょうか。2年後にまたウォーカソンが実施されます。高校1年生と中学生の皆さんの中には、ウォーカソンをやりたかったと思う人や、映画を見て何か自分の中で感じたものがあるという人がいると思います。その気持ちを2年後に活かし、よいウォーカソンが実施できるよう頑張ってください。

ウォーカソンを実施するまでの準備、また特別プログラムを実施できたのは多くの先生方、保護者の方々の支えがあったから、という事を忘れてはいけません。 これから先、困難や苦しみに直面する事がたくさんあるでしょう。しかし私たちは神様という大きな支えの中で生かされています。その事を覚え、日々の生活を歩んでいきましょう。

お祈り 神様今日も新しい朝を迎えられたことに感謝いたします。今日は自分と向き合い他者を思うことの大切さをお話ししました。私たちが積み重ねてきた一歩一歩が他者を助けるものとなりますよう導いてください。また今日も一日みなが安全に過ごせますようお支えください。この祈りを尊き主イエスキリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。