教師,礼拝のひとコマ

放送礼拝 久木元先生

聖書の箇所:マタイによる福音書25章34~40節
そこで、王は右側にいる人たちに言う。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」
すると、正しい人たちが王に答える。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」
そこで、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

 一ヶ月ほど前に、テレビで「ペコロスの母に会いに行く」という映画を見ました。この映画は、岡野雄一さんという方の描いたエッセイ漫画を映画化したものです。原作の漫画は、学校の図書館にも入っているので、ひょっとしたら見たことがあるという人もいるかもしれませんね。この作品は、作者である岡野さんと、認知症を患って施設に入っている岡野さんの母親との交流を描いた漫画です。「ペコロス」というのは、岡野さんのペンネームで、「小さな玉ねぎ」という意味です。岡野さんがなぜそのようなペンネームをつけたかというと、岡野さんの体型と、つるつるに禿(は)げた頭が、ペコロスのように見えるからだそうです。
 映画のあらすじは次の通りです。62歳の漫画家ゆういちの母みつえ(89歳)は、父さとるが亡くなった後、振り込め詐欺にひっかかりそうになったり、死んだ夫のために酒を買いに行こうとしたり、汚れた下着を大量に貯めたりなど、認知症の症状を見せはじめます。ケアマネージャーの勧めで、ゆういちはみつえをグループホームに入居させます。それでも、みつえの認知症は進み、面会に来たゆういちが分からず、禿げ髪を見てようやく息子を思い出す始末です。また、夫が亡くなったことを忘れ、見えない夫と話したり、原爆で亡くなった幼い妹の幻を見て、妹をあやしたり、少女に戻って無邪気な様子を見せるようになります。ゆういちは、そんな母を優しく見守りながら、昔のことをいろいろと思い出します。ある日、みつえは、ゆういちに、亡くなった夫さとるや幼なじみのちえこ、妹のたかよが会いに来たと語ります。「死んだ父ちゃんに会えるのなら、ボケるのも悪いことばかりじゃないね」とゆういちは思うようになります。
 私はこの映画を見て、深く感動したと同時に、何か苦いものを噛(か)んでしまったような複雑な思いにとらわれました。というのも、実は、私の実家の父親も、認知症を患っているからなのです。たまに実家に帰って父親に会うと、ペコロスの映画と同じように、父親は私が誰なのか、まったく分かっていません。また、息子に会わせても、父は孫を認識できていないのです。私は実家に帰って父に会うたびに、悲しいような、やりきれないような、もやもやした思いを抱かずにはいられないのです。だから、映画の中で、当初は認知症の母親につらく当たりながらも、だんだん心を許して、最終的には優しい気持ちで母に接する岡野さんの姿が、とても羨(うらや)ましく思えたのです。
 それと同時に、認知症の患者に対して、いや、認知症の患者だけでなく、自分が理解できないものに対して、お前はつらく当たったり、無視したりしていないかという問いを突き付けられたような気がしました。お前は、小さい者や弱くされた者に対して、偏見を持ち、排除しようとしていないだろうかという問いです。私はこのような問いに対して、はっきり「Yes」と答えることができません。そして、そのような問いを私に投げかける存在に対して、私は忸怩(じくじ)たる思いを抱かずにはいられません。
 では、そのような問いを私に投げかける存在は誰かというと、それはイエス・キリストに他なりません。イエスは、常に、小さい者、弱くされた者の立場に立って行動していました。それは、子どもであったり、女性であったり、病人であったり、罪びとであったり、異民族であったりしました。イエスは、同時代の人が偏見を抱き、差別を行い、排除していた人たちを決して見捨てず、常に彼らの側に立っていたのです。それだけではありません。今日の聖書の箇所の40節を見てください。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」とは、実は、イエス・キリストのことなのです。つまり、イエスは、小さい者、弱くされた者の姿で私たちの前に現れるのです。イエスは、弱い者・小さくされた者の姿を取って、私たちに差別や偏見の心がないかどうか、問いを投げかけているのです。
 5月27日は山梨英和の129回目の創立記念日で、28日に私たちは花の日を守ります。私たちは病院や介護施設を訪問させていただきますが、そこには、小さくされ、弱くされた者の姿を取ったイエス・キリストが私たちを待っていてくださるということを心にとめていたいですね。

お祈り
神様、今日も新しい朝を与えられてここに集い、放送を通してですが、愛する姉妹たちと一緒に礼拝を捧げる機会に恵まれたことを感謝いたします。私たちは、小さな者・弱くされた者に対して、差別や偏見の心を持ってしまいがちです。しかし、私たちは、小さな者・弱い者としてこの世に生を受け、そして、恐らくは弱い存在としていずれ天に召されます。私たちが今現在、強い者の立場にいるとしても、それは単なる偶然であって、弱い者・小さな者に寄り添わなければならないと思う気持ちを忘れないようにさせてください。私たちは来週、花の日を迎えますが、どうぞ謙虚な気持ちでこの日の訪問ができますように、私たちをお導きください。また、今週から、前期Ⅰテストが始まります。中1の生徒にとっては、初めての定期試験です。不安や緊張を覚える生徒も多くいると思いますが、あなたが常に彼らの傍にいて、お見守りください。今日の一日の歩みが、あなたの御心に添ったものでありますように。このささやかな祈りを主イエスキリストの御名によって御前におささげいたします。アーメン。

中学・高校合同礼拝 加藤先生

2018年 5月17日、18日 礼拝原稿

聖書 コリント信徒への手紙13章 13節

 NHKで高校野球名場面という番組がありました。特に印象深い試合は、大リーグに行き、今は中日でプレイしている松坂大輔さんが在籍していた横浜高校対PL学園の試合で、延長17回という球史に残る名勝負でした。
当時、試合の行方を固唾をのんで見守っていたことが思い出されました。
横浜高校もPL学園もプロ野球選手を多く輩出した名門高校ですが、驚いたことに現在、PL学園は野球部が休部、事実上は廃部という事態になっているそうです。野球ファンとしては信じられず衝撃が走りました。

 このように一時期の繁栄が終わる例は身近にもありました。山梨でも105年間操業を続けていた老舗のスーパーが倒産した詳細について、15日の山梨日日新聞に掲載されました。また、遠く歴史を振り返ると、「すべての道はローマに通ず」と栄華を誇ったローマ帝国の滅亡や日本でも「平家にあらずんば人にあらず」と豪語した平家一族が、壇ノ浦で滅亡したことは平家物語に記されていて、皆さんも古典で勉強したことと思います。

 国家や企業、私たち人間も今はどんなに繁栄していても、それが続く保証はありません。このようなことを考えると、何のために生きるのかむなしくなりますね。私たちは、いつかはなくなるむなしいのもでなく、いつまでも永遠に残るものと共に生きることはできないのでしょうか。

 今朝読んだ聖書の箇所がその答えです。聖書は力強く語っています。「愛」こそはいつまでも永遠に残ります。それではその「愛」とは具体的に何をすればよいのでしょうか。13章4節~8節に記されています。一緒に読んでみましょう。
  
お金や名誉も大切ですが、まずは第一に愛を追い求め、愛をもって生きなければなりません。ノーベル平和賞を受賞されたマザーテレサは、講演の席で聴衆から、世界平和のために自分が何をしたら良いかと質問された際に「世界平和のためにできることですか?家に帰って家族を愛してあげてあげて下さい。」と答えたそうです。また、次のような言葉も残しています。「私達は大きいことはできません。小さなことを大きな愛をもって行うだけです。」聖書にも「あたなの隣人を愛しなさい」という言葉があります。

 皆さんの周りを見て下さい。困っている友達はいますか?悩んでいる兄弟や姉妹はいますか?私たちはそのような人に手をさしのべているでしょうか。
自分のことだけでなく他者に目をむけて下さい。そして小さな事を大きな愛をもって行うことができる人として、何ができるのか考えましょう。

お祈りします。
 愛する天の神様。あなたの御名を賛美します。今朝も礼拝から一日を始められることに感謝します。パウロはコリントの信徒への手紙で「わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と書き、愛の大切さを述べました。 私達も愛をもって人と接し生きることができるよう神様が導いて下さい。また、今週の日曜はペンテコステです。聖霊が下り教会が誕生した日です。多くの人が教会に足を運ぶことができますように。
 5月ですが真夏のような気候が続いています。来週からは定期試験がスタートします。神様が健康を守って下さり、日頃の勉強の成果が発揮できるよう支えて下さい。このお祈りをイエス様の御名を通してお祈りします。アーメン

放送礼拝 バスケットボール部

コリントの信徒への手紙I 10章13節

私は小さい頃からスポーツが好きだったため、英和中学に入学した時に迷わずバスケ部に入部することを決めました。私がバスケ部に入部してから6年が経ちました。

そんな私は1年前大きな壁にぶち当たりました。高校総体の対戦相手が強豪校に決まり、自分の実力が試せるチャンスだと思い、楽しみにしていました。しかし部員は楽しみよりも不安の方が大きくなってしまい、楽しみの方が大きかったのは私と先輩だけだったと思います。楽しみと緊張の中始まった試合、私の出番は開始2分で終わりました。得意の1対1を仕掛けた瞬間、膝から今までに聞いたことのない音が聞こえ、全身の力が抜けて床に崩れ落ちました。左膝前十字靭帯断裂。スポーツ復帰まで全治9ヵ月の大怪我でした。体を動かすことが大好きな私にはすごくショックな出来事でした。どうして1番楽しみにしていた自分がこんな目に合わなければいけないのか、怪我をした自分を恨んで泣くことしか出来ませんでした。手術をするのも嫌だし、このままスポーツができないのも嫌。私の心の中では毎日葛藤が続きました。

たくさんの人から手術はした方がいいと言われ手術を受けることに決め、夏休みを病院で過ごしました。ここでの出会いが私の気持ちを明るくしてくれたのです。入院している人は年齢もスポーツもそれぞれ違いましたが、同じ痛みを経験しているためすぐに仲良くなることができました。高校の時にラグビーで日本一になった人、中田英寿と一緒にサッカーをしていた人など、たくさんの人がいていろんな話が聞けました。一緒にご飯を食べて、リハビリに行って、夜は勉強する。合宿のような1ヶ月でした。みんなで励まし合い、お互いの成長を喜びながら毎日過ごしていました。怪我を治してスポーツ復帰するという同じ目標があったからこそ頑張れたのだと思います。入院することを嫌がっていた自分が嘘のように毎日が楽しく、退院したくないほどでした。

そして入院中、自分はたくさんの人に支えられていると実感することができました。私が靭帯を切ったことを話した時一緒に泣いてくれた友人。たくさん心配してくれて送迎までしてくださった顧問の先生。一緒にバスケをすることができなくてもバスケ部の一員として認めてくれた部活の仲間。スポーツ復帰を目指し、一緒に頑張った病院の仲間。また怪我をしないように膝のことを気にかけてくれたリハビリの先生。そして 1番近くで支えてくれた両親。自分1人で頑張ったのではなく、みんなの支えがあったから、ここまで来れたと思います。

私は退院するとき、もう一度必ずコートに立つとみんなと約束しました。もう一度コートに立って思いっきりバスケをすることが1番の恩返しになると思います。今まで支えてくれた方々への感謝の気持ちをプレーで表現したいと思うようになりました。そして先日の高校総体で、私は1年ぶりに試合に出場することができました。また怪我をしないか不安で、恐怖もありました。でもそれ以上に試合に出場できることが楽しみでした。まだまだ恐怖があり、思うように自分のプレーが出せないことが何度もありましたが、怪我をしてから1年後に再びコートに立てたことを誇りに思います。

私は怪我をしたことで強くなることができました。そして自分の体を見つめ直すことができました。きっと怪我をしていなければ恐怖も痛みも考えずに今まで通りプレーできたと思います。でも、怪我をしていなければ今の自分はいません。出会うことができなかった人もたくさんいます。今では怪我をしてよかったと思えるようになりました。神様が私なら乗り越えられると信じて与えてくださった試練だったのだと思います。試練は神様からのメッセージなのだと思いました。これから先もっと辛いことがあったとしても出会いを大切にし、壁を乗り越えた後には必ず成長できると信じて自分らしく乗り越えていきたいです。引退まで残り1試合。チーム全体としても気持ちが1つになってきているのを感じます。自分を信じて、自分をキャプテンと認めてくれる仲間を信じて、勝利に向かって、最後の1秒までボールを追いかけたいと思います。支えてくれた方々への感謝の気持ちを忘れずに、大きな壁を乗り越えた自分にしかできないプレーをしたいです。

中高合同礼拝 横手先生

テモテへの手紙二 1章5節
讃美歌543番

テモテへの手紙は使徒パウロから愛する弟子のテモテに宛てて送られました。パウロがテモテに手紙を書いたとき、パウロは「キリスト」を宣伝えたために逮捕されてローマの監獄に入れられていました。この手紙の4章では「遅すぎないうちに」(9節と21節)と書かれていることから、パウロは処刑の日が迫っていることを感じていたと思われます。テモテはパウロがはじめたエペソ教会の牧師だったと言われています。パウロはテモテを「愛する子」と呼んでいます。3節から9節を読みますと心が震えるほどの感動を覚えます。死が明日に迫っていても神に感謝し、テモテをいたわり、神がテモテを守ってくださるようにと執り成して祈るのです。先生と弟子とのこの清らかな関係は私たちの心を揺り動かします。パウロはテモテの信仰のことを「あなたが抱いている純真な信仰」といっています。それは「祖母ロイス」と母エウニケに『宿った』信仰だと書いています。テモテの父は異教徒のローマ人でしたから、テモテの信仰はおばあさんと母親を通して『宿った』のです。パウロは特別な意味を持たせて『宿った』と言っているのです。パウロはテモテの信仰がテモテが自分の力で得たものでなく、神の導きより「与えられたのだ」と書いていることは大切です。   

今、この大切な言葉から思い出されることとして、私は英和の中一の生徒だったときのことをお話します。院長であり校長であられた内藤正隆先生が「無条件の感謝」という説教をなさったクリスマス礼拝を思い出します。そのときの会場はすでに取り壊されて跡形もなくなった「県民会館」でした。その年に山梨英和の今の体育館やその横のプールが完成しました。先生はそのような大事業の中で、とても大きな病気をなさり、おまけに泥棒や火災の被害に遭われ、本当にやせ衰えたお身体でした。その3日後に亡くなられたことは私たち生徒にとっては大きな出来事でした。今も「無条件の感謝」が甦えってきます。私の身体の中にこの説教が『宿った』といっても言い過ぎではありません。なぜならその年の南甲府教会のクリスマス礼拝で私は父から受洗したからです。
『宿る』というもう一つの経験は、それから2年後ネパールで結核撲滅のために医療活動をされた岩村昇医師が山梨英和に来られ、この場所で語られた時のことです。先生はここに立たれ、この場所で左側の愛宕山を指さして「ネパールは本当に甲府に似ています、けれど医師が足りないのです」と言われました。私たち生徒は愛の奉仕に命を捧げてネパールの村々をくまなく訪ね歩いておられる先生の中にイエス・キリストを見たのでした。これを聴いた多くの同級生たちが医師をめざしました。その一人は山梨大学工学部を卒業し、自分が吃音で苦しんでいたのでさらに大阪大学医学部で研究し、言語治療の領域の研究者となり大学の教員になっていました。残念なことに胃がんを患い、道半ばで亡くなりました。しかし、隣人のために生きるということが「神を敬うことの証しだ」と信じて自分を高めて、目標に到達した彼女の姿を私たちは決して忘れることはありません。もう一人の同級生は音大を卒業して、音楽療法の草分け的存在になって、大学の教員となり、東京芸術大学でも今も講義し、知的障害者教育のための教科書をつくり、後に続く学生たちを育てている同級生もいます。このチャペルで本当に「純粋な信仰のめざめ」を経験した皆さんの先輩がおられるのです。
 
 次の日曜日はペンテコステです。(聖霊降臨議日)ペンテコステのオルガン曲には上下の手鍵盤、第一鍵盤と第二鍵盤、足鍵盤とこの三つのパートを使う曲が多いのです。それは、父なる神、子なるキリスト、そして聖霊の関係を表していると言えるでしょう。今日弾きました前奏曲は「来たれ、おお、来たれ、命の聖霊よ」でした。右手は讃美歌のメロディー、それに添えられる左手はアルトパート、そして足鍵盤は低音部の支えの役割をもっています。これはオルガン曲ですがアンサンブルリリエンの皆さんはこの曲をフルート、ヴァイオリン、オルガンの足鍵盤、あるいは、チェロも加わって三パートで弾いていますね。一人で弾くオルガン曲を、合奏することで、この曲がさらに生き生きと感じられます。
新しい年度が始まりました。皆様一人一人を、神様が導かれ、「純粋な信仰の目覚め」をお与えくださいますように、そして、皆さまが測り知れない神様の御計画にあずかることができますようにお祈りいたしましよう。

祈り
私たちを思いがけない時に、信じられない愛の力で、呼び出してくださる神様。
私たちは生徒も教師も神に招かれここにいます。私たちの間に命の言葉が満ちて、「新しい目覚め」を今日も起こしてくださいますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

放送礼拝 佐藤先生

ルカによる福音書13章6~9節

聖書のこの箇所を目にするたび、私は子供のころに住んでいた家を思い出します。
家の裏にはいちじくの木が植えられていて、毎年夏休みの終わりごろから秋にかけて実がなるため、それを取って食べていました。
しかし、たまに水やりをしたくらいで、そのいちじくの木の世話をした記憶はありません。肥料を与えなくても放っておけば実がなるものだと思っていました。
気になったので少し調べてみましたが、きちんと育てるには枝の剪定をしたり根を切ったりと手入れが必要で、しかも植えてから2~3年で実をつけると書いてありました。

今日の聖書の箇所を見てください。
ある人がいちじくの木を植えておき、実をつけ始めるころ、おそらく2~3年経ってから探しに来たのでしょう。しかし、実をつけていませんでした。
来年こそは実をつけるだろうと思い、次の年も探しに来ましたがそれでも実をつけていませんでした。それを3年繰り返しましたがそれでも実を見つけることができませんでした。
そこで園丁に「いちじくの木を切り倒せ」と命じられます。
しかし、園丁は「このままにしておいてください」とお願いします。さらには「木の周りを掘って肥やしをやってみる」とまで言っています。「それでもだめなら切り倒してください」と。

ここでのぶどう園の主人は神様のことでしょう。そしていちじくの木は私たち人間を指していると思われます。とすると園丁はイエス様を表しています。
神様は、私たち人間が悔い改めるのを長い間待っておられましたが、一向に悔い改める様子がありません。
そこでイエス様に、「もう待っていても無駄だから、人間を見捨てなさい」と命じられます。
しかしイエス様は「今まで以上に教えを説いていくので、来年まで待っていてください。そうすれば悔い改めるかもしれません」と神様にお願いします。
しかしこうも言っています。「それでもだめなら見捨ててください」と。

 神様は、創世記7章ではノアの方舟以外の地球上のすべての生物を滅ぼされています。
さらに19章ではソドムとゴモラの町も滅ばされています。
旧約聖書の頃には神様と人間の間をとりなすイエス様はいなかったため、滅ばされてしまったのだと思います。

では、今日の聖書の箇所ではどうでしょうか。
いちじくの木が実を結んだのか、結ばなかったのか、私たち人間が悔い改めたのか、悔い改めなかったのか、その結果は聖書には書かれていません。
私たち人間は見捨てられてしまったのでしょうか?
それは皆さんもよく知っている通りで、見捨てられることはありませんでした。
イエス様が十字架に架かることにより神様との間をとりなし、私たち人間を救ってくださったのです。

本来滅ばされるはずだった私たちには、こうしてチャンスが与えられています。
一度やってみてだめでも、二度三度とやってみる。それでもだめなら、あきらめずできるまで何度でもやってみる。こうして少しずつ変わっていくのです。
悔い改めるという大きな変化は難しいかもしれませんが、身近なことからあきらめないでチャレンジしてみましょう。
私たちは、イエス様のおかげで神様から見放されることはないのですから。
最後に私が部活で部員に伝える言葉を紹介します。
「練習でできないことは、本番でもできない。練習でできたからと行って、本番でできるとは限らない。だから練習が必要なのだ。」

放送礼拝 語学部

語学部 詩編1編1~3節

先日、私はグレイテスト・ショーマンという映画を観てきました。この作品は主人公のバーナムが愛する家族のために貧しい生活から抜け出そうと、ユニークな人々を集めてサーカス団を結成し、成功を収めようと困難に立ち向かうお話です。

ミュージカル映画ということで、作品内でも印象的な曲が多く歌われています。中でもThis is meという曲は、バーナム一座のパフォーマー役を演じたキアラ・セトルさんが迫力ある歌声を披露しています。彼女の役は、女性なのにヒゲが濃いという特異体質で、人の目を避けながら生きてきたという役柄でした。

This is meの歌詞を和訳すると、暗闇には慣れているわ 隠れてろって人々は言うの 壊れた部品はいらないって 私の欠点をずっと恥ずかしく思ってきた 彼らは言う 失せろ、ありのままのお前を愛す人なんかいないって でもあいつらに私をゴミ扱いなんてさせない 私達にだって居場所がある 私たちが輝ける場所 鋭い言葉で傷つけられた時は 洪水を起こして溺れさせてやる 私は勇敢よ あざだらけでも これが私のあるべき姿なの これが私よ というような差別と偏見をテーマとした内容になっています。

この歌詞の中には、現代でも差別や偏見によって苦しんでいる人々の心の叫びとその苦しみに立ち向かう姿が描かれていると思います。私たちは、自分たちの主観で「同じ」や「違う」を決めつけ、人を批判したり、偏見の目で見てしまう弱い生き 物です。このような勝手な判断で弱い立場に追いやられた人は、自分の存在を認めてもらえないと感じ、心の大きな傷になり、やがて人前に立つことさえ出来なくなってしまいます。そんな人々に自信と勇気を与えて下さるのは、神様という大きな存在なのだと、改めて思いました。

歌詞の一部に「私たちにだって居場所がある 私たちが輝ける場所」という言葉があります。神様はどんな私たちでも必ず愛して下さり、それぞれに輝ける場所を与えて下さるのです。 パフォーマー役のキアラさんは、リハーサルの時にマイクの前で歌うことがなかなかできませんでした。それは歌詞と役柄に自分自身が重なるものがあったからではないかと思います。キアラさんは、既に役になりきっていたとも言えるでしょう。映画とはキャスト一人一人が役に入り込み、自身と一体になって初めて観ている人の心を動かすことができるのだと、演技をする人間として強く思いました。

今年の学園祭では、美女と野獣を上演します。多くの人が物語を知っている有名な作品は、話がわかりやすくて見やすい反面、1つ1つのキャラクターの個性になりきらないと中途半端な劇になってしまうというプレッシャーがかかります。そしてどの作品にもそれぞれ伝えたいことがあります。 美女と野獣に込められたメッセージは、ただ人を外見で判断してはならないということだけではありません。ベルは誰よりも自分の信念を持っている強い女性であるから、醜い姿の野獣を心で愛することが出来たのです。私たちは、人を外見で判断してはいけないことを理解していますが、実際に世間に流されずに自分の信念を貫くことが出来る人は少ないと思います。

登場人物の心の奥を理解して部員全員が物語の中のキャラクターになりきって、これからの練習をしていきたいです。そして、部員が一丸となり、観て下さる方の記憶に残る劇を発表したいです。

お祈りします。
神様、今朝も放送を通して礼拝から1日を始められたことに感謝致します。私たちは心の弱さや思い込みなどから、人を差別したり偏見の目で見てしまうことがありますが、周りに流されず勇気を持って生活できますように神様がお導き下さい。この祈りを尊き主イエスキリストの御名によって御前にお捧げ致します。アーメン。

放送礼拝 高校生徒会

詩編133編1~3節

みなさんは千々石ミゲルという方の名前を聞いたことがあるでしょうか。キリスト教について学んだり、日本への宣教を依頼するためにローマに派遣された天正遣欧少年使節の4人の少年のうちの1人です。ミゲルは熱心なカトリックのキリスト教信者でした。長年信仰し、日本に帰国後は布教活動を行なっていました。

しかし後にイエズス会を脱退し、キリスト教の信仰も捨ててしまいます。それには諸説ありますが、一つの説はキリスト教徒による仏教徒への迫害が理由だったのではないかというものです。私はミゲルが信じていたものを投げ出すほど衝撃的な出来事があったのではないかと想像しました。そして信仰を持つ人たちが、他宗教の人たちを迫害したことに少なからずショックを受けました。彼らは信仰を疎かにしていたわけではありません。聖書の教えに基づいて生活し、自ら人を傷つけることなどしない生き方を心がけていたと思います。おそらくこの人たちは、自分と考え方が異なる人たちへの寛容さが欠けていたのだと思います。

創世記に記されているように、神様は「良い」存在としてわたしたち人間をおつくりになりました。けれども人間は罪のために他者を傷つけてしまい、他者を認めることができなくなってしまっています。そういう罪から救い出されて、もともとの神様に造られた良い者として、互いに尊敬を持って接することが本来の人間のあり方なのだと思います。けれどもミゲルはその罪につまずいてしまいました。本来なら罪に気づき、それを指摘し、和解の道を伝えることができたのではないかと思います。

私は生徒会役員として活動する中で、1人で抱え込み、悩んでしまうことがよくあります。仲間に頼りたくはない、一人で全部行わなければという思いが無意識のうちにありました。ミゲルがつまずいてしまった人たちの姿と同じように、寛容な思いを忘れそうになることもありました。しかし、振り返ってみるとたくさんの方に支えられていることを実感する出来事が多くあることに気づきました。先日の学園祭に向けての会議の際に、クラスメイトがもっと私に協力したいという理由で係りのリーダーを快く受け入れてくれました。また、放課後には生徒会室で私たちと一緒に仕事を手伝ってくれたりする仲間もいます。忙しい中、的確なアドバイスをしてくださったり、毎日のように頑張れと声をかけてくださる先生方もいます。私は知らぬ間にたくさんの良い仲間や先生方に支えられていました。仲間の「もっと頼ってよ」という言葉を聞くたびに自分がどれほど恵まれているのかを実感する毎日です。一人では成し得ないことがたくさんあるのだと気づくことができました。

中学1年生の頃から生徒会に携わってきましたが、この経験の中で得た一番大きなものは仲間だと思います。多くの方と関わっていく中で培われたお互いの友情や信頼は他の何かに代えることはできません。私たちは神様のような完璧な存在にはなれないので、嫌なことがあった時、やけくそになりそうな時がありますが、それでもそばに仲間がいてくれるだけで誰かを傷つけてしまうことがなくなるかもしれません。気持ちを共有するだけですっきりしてまた励むことができるかもしれません。

英和で生活していく中でみなさんは必ず「出会えてよかった」と心から思える仲間にたくさん出会うと思います。そんな仲間たちと過ごす時間を大切にしてください。仲間と過ごす何気ない時間が一生の宝物になっていくと思います。年間行事の中でも一大イベントである学園祭が近づいています。学園祭に向けて全校で協力しなければならない場面がこれからどんどんでてきます。仲間を思い、辛い時には助け合って最高の学園祭を作り上げていきましょう。

放送礼拝 マンドリン部

コヘレトの言葉4章9~12節

誰にでも心に残る桜の風景があります。

先日、第51回マンドリン部定期演奏会を行いました。今年度のテーマは「桜」でした。桜は不思議な花です。見る人によって様々な色に映ります。美しく、強く、儚く、潔く……。音もそれとよく似ています。指導する先生、演奏する生徒、聞いてくれる方々により全く別の音になります。また、楽しい時に見る花、聞く音、辛い時に見る花、聞く音……。その時の感情や環境に揺れ動くという共通点もあります。春の訪れにマンドリンの音色をのせて、それぞれの懐かしい記憶に触れて頂けたらと思い、心を込めて演奏しました。

高校3年生にとっては最後の定期演奏会でした。高3の部員2人で演奏した曲はテーマに合わせた森山直太朗作詞作曲の「さくら」でした。みなさんはこの歌に隠された意味があるということを知っていますか? 卒業、恩師からのメッセージ、友との別れというイメージが強い曲ですが実は特攻隊員とそれを見送る友との情景という説があります。確かに歌詞には深いフレーズがたくさんあります。

いつか生まれ変わる瞬間を信じ
さくら ただ舞い落ちる
刹那に散りゆく運命と知って
僕らを急かすように今、惜別の時……

さくら=特攻隊員と置き換えて歌詞を刻むと、なんとも言えないせつない感情が込み上げてきます。ただ、森山直太朗さんが戦地へ旅立つ友をイメージしてこの曲を作ったかは明らかにされていません。しかし、確かに特攻隊の時代はありました。友の未来を願う本当の言葉は言えないまま、さくらになぞらえるしかなかった情景が見えてきます。

歌詞をどう受け取り、イメージするかは聞き手に委ねられ、解釈は自由です。この曲に限らずもともと知っている音楽を別の角度で見つめ直して見ると、全く違う光景が見えてくるということに驚かされます。全ての物事には色々な考え方があっていいと思います。自分がどんな選択をするのか、他者が何を選択するのかも自由です。選ぶ自由がある中で、その自由に感謝しながら、それぞれの願いを持ち、その実現に向けて精一杯努力していけば良いのではないでしょうか。

英和に入学してから6年間続けてきたマンドリン部の活動も残りわずかとなりました。時間的、体力的、精神的に余裕の無い時もありましたが、なんとか続けられたのはサポートしてくれた顧問の先生や先輩たち、そして今いる仲間たちのおかげです。色々な曲と出会い、たくさん感動もしました。マンドリン部を通して私は一番大切なものが与えられました。隣を向けばお互い切磋琢磨して、より良い刺激がもらえる友がいます。私は、そんな関係を築ける幸せを大切にしたいと思います。あの場所は私の一生の心の支えです。来年の桜は、私たち一人一人にとって何色に見えるでしょうか。何色に映るにせよ、桜の花を誰かと一緒に美しいと感じられこと、語り合える友がいる幸せ、今与えられているときや場所を大切にしながら前に進んでいきたいと思います。

放送礼拝 伊藤先生

聖   書:マタイによる福音書5章43~44節(p. 8)          
 
新学期が始まってから10日たちましたが、新しい環境はどうですか?中1、高1の生徒の皆さんは、新しい校舎、新しい先生。新しいクラスメートに出会い、色々なことを試行錯誤しながら落ち着かない生活を送っているのではありませんか?期待や不安でいっぱいのことと思います。私も中学1年生の時、クラスの中で誰も知っている人がいなかったので友達ができるかなとドキドキしたことを覚えています。
さて今日はマーティン=ルーサー=キング牧師のお話をします。1968年4月4日にキング牧師がなくなって50年がたつというニュースを聞いたからです。キング牧師は黒人奴隷制度が廃止されて約70年後に生まれました。アメリカの黒人であるキング牧師は23歳で牧師になり13年間、非暴力で黒人の権利を勝ち取る運動を指導し、ノーベル平和賞を受賞し、39歳で暗殺され亡くなりました。“I HAVE A DREAM”のスピーチは世界中で有名になりました。「私には夢がある。それは、いつの日か、かつての奴隷の息子と、奴隷所有者の息子が、兄弟として同じテーブルにつくことだ。」といった内容です。
そのキング牧師が銃で撃たれて亡くなってから50年たった今、人々はもう一度この運動の意味を問い直そうとしています。キング牧師はこの活動を単なる社会運動ではなくイエス様の言葉に従って運動をしたので、黒人も白人もお互いに人間の尊厳を学ぶものとなりました。
キング牧師はイエス様の言葉を自分の生き方を変える道しるべにしていきました。私たちには悪い癖や欠点があります。自分と異なる考え方、身体の形、皮膚の色,生活習慣で他人と自分を比較し時には差別したりさげすんで優越感を持ったり、また逆に劣等感を持ったりします。
現在アメリカでは、白人至上主義と呼ばれるグループが再び勢力を増してきていて、反対派のグループの人たちとの衝突のなか亡くなった人が出た時に、トランプ大統領が喧嘩両成敗という立場に立ったために人種差別の傾向が強まってしまいました。また、ヒスパニック(ラテンアメリカ)の人たちに対する国外退去を表明していて、少し前のオバマ前大統領の融和的平和的なムードが一変してきています。
こういった人間の持つ考え方は2000年前のイエス様の時代も同じでした。権力を持つ人、奴隷として仕える人、女性・子ども・人種の差別、職業的な差別、病気の人への差別や偏見、神様がご覧になったら、何と思われるでしょうか。なんて人間は悲しい考え方をするのでしょうか。また、個人的な利益からまたは国のレベルでの損得から憎しみや戦争が生まれ、現在でもどこかで戦争の火種がくすぶっています。
さて、黒人達は奴隷制が廃止された後、白人とあらゆる所で隔離されました。具体的に言うとバスや学校や図書館、トイレ、レストラン、住む場所等で白人と区別され忌み嫌われていたのです。そしてキング牧師たちが行った公民権運動は、白人からの激しい抵抗を受けました。逮捕されたり、暴行され殺されたり、指導者たちの家が爆破されたりしました。その中でも、権利を要求してバスのボイコットをしたり、行進したり、座り込み運動をしたりしました。子ども達も小学生から高校生までが行進をしましたが、警察は警察犬と高圧ホースによる放水で攻撃したりしました。テレビで全世界に報道され、私も見た記憶があります。
そのようにして、10数年間も闘って自由で平等な生活や選挙の権利を勝ち取っていくわけです。どれほどの苦しみ、犠牲があり、血が流れたかということを思う時、最近の風潮を無視することはできません。歴史は繰り返されるなどといとも簡単に言うことはできません。
憎悪と敵対心がむき出しになり、暴力的な形で爆発した時代のさなかで、キング牧師はこう言っています。「私は、非暴力がこの国の正義を求める闘いで、もっとも有効な武器であると信じています。」
また、「人間の気高さを信じるならば、私たちは他人を抑圧したり搾取したり殺したりできないのです。」キング牧師にとっては、イエス様が教えられた愛が人間が抱える問題に対する究極の答えだったのです。

イエス様が差別や偏見の問題にどう対処なさったのかは、新約聖書の福音書を読んでいくと良く分かります。いつ読んでも目から鱗のように新しい発見があります。
今日の世界で、黒人や少数民族に対する嫌がらせ犯罪、また、私たちの身近においても、差別やいじめはますます増加する傾向にあります。こんな時、キング牧師が願ったような兄弟愛にあふれた社会を実現することの大切さを思います。私たちは、そのような学校に、また、社会を造っていくために、学んでいきたいと思います。

放送礼拝 放送部

コヘレトの言葉11章9~10節

みなさんは陣内大蔵さんという方を知っていますか。英和で歌い継がれている学生歌、「この坂道を登った先に私の好きな笑顔が見える」から始まる「EIWAY」の作曲を担当して下さったのが陣内先生です。昔はシンガーソングライターとして活躍し、今では東京の東美教会で牧師先生として活動しています。

私は6月のコンテストに向けて「EIWAY」についてアナウンス原稿を作るために春休み中に陣内先生がいらっしゃる東京の教会に取材に行き、お話を伺ってきました。そもそも「EIWAY」は2010年度の学園祭の全校制作の作品として作られました。英和と陣内先生の関わりはその2年前の全校修養会で講師として英和に来てくださったのが始まりでした。学園祭で英和の学生歌を作ると決まったとき、当時の生徒会が「英和の曲を作るなら、英和のことをよく知ってくれている方にお願いしたい」ということで英和生から大好評だった陣内先生にお願いすることになりました。

「EIWAY」の歌詞は全校生徒から「英和の生活の中で感じたこと」をテーマで募集をしました。英和生からは「グリンバンクチャペル」「セーラー服」「神様」「夢」「絆」「かけがえのない日々」などたくさんの歌詞が集まりました。1番の歌詞は日常の生活、2番は感謝の気持ち、3番は巣立っていく人たちへの応援というテーマをもとに歌詞を組み合わせていきました。陣内先生はその英和らしい歌詞をバランスよくいい曲になるように時間をかけてまとめ上げて下さいました。当時の生徒会役員と陣内先生がたくさんのやりとりを経てついに完成した時は、「やっとできた!」という嬉しい思いだったそうです。

学園祭2日目に陣内先生より、「EIWAY」の発表が行われました。はじめは驚いていた生徒たちも次第に先生のピアノ伴奏に合わせて歌い出し、体育館中の全ての人が笑顔になりました。8年間歌い継がれる今では暖かいメロディーや歌詞を口ずさんだり、卒業式で思わず泣いてしまう先輩方もいます。

「EIWAY」はこの先も英和と共に成長し、英和生の心に寄り添う友のような存在になっていくと思います。陣内先生から「学生時代の友達は変わらず付き合っていける関係。一生その関係性が続いていけたら本当に愛おしい。みなさんは山梨英和というすてきな環境で育っているので素晴らしい人生にしてください」とメッセージをいただきました。

歌詞の最後にある「Go your own way この一瞬を忘れない」という歌詞には、英和を卒業するときに「自分にしか歩めない道」を信じて歩んでいってほしいという願いが込められています。今日の聖書の箇所には、「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を目に映るところに従って行け」と書かれています。自分の将来を真剣に考えたり、今だからこそ思いっきり何かに挑戦出来る、そんな時を今私たちは生きています。

私たちが卒業するときにこの曲を歌って、そばにいてくれた友達や先生、導いてくれた神様に感謝できるように、英和で過ごす「かけがえのない日々」の生活を大切にしていきたいと思います。

お祈りします。
神様今日も放送を通して礼拝から1日を始められることに感謝いたします。
今日は英和で過ごす一瞬一瞬を大切にすることをお話ししました。
どうかみなが自分らしい道をこれからも歩んで行くことができるように、あなたが支え導いてく
ださい。
この祈りを尊き主イエスキリストの御名によって御前にお捧げ致します。アーメン。