教師,礼拝のひとコマ

放送礼拝 石原先生

 聖書 ローマの信徒への手紙 12章15節~16節

 昨年もお話しましたが、私のこの時期の楽しみはやはり「FNS歌謡祭」です。昨年の放送礼拝では、NMB48の「ワロタピープル」の歌詞から思うことをお話しました。今年の「FNS歌謡祭」も寝る時間との兼ね合いがありますので、慎重に録画し、後日じっくりと鑑賞しました。今年の一押しは、高橋真梨子というベテランの女性シンガーが、ジュリーの愛称で知られる沢田研二の「勝手にしやがれ」をカバーした1曲です。「勝手にしやがれ」であれば、恐らくもう何百回と聴いていると思うのですが、いつもと違う高橋真梨子の「勝手にしやがれ」でしたので、とても新鮮な気持ちで聴くことができ、歌詞を深く味わうことができました。そのなかで、二番のある歌詞が今回ヒットしましたので、紹介します。「別にふざけて困らせたわけじゃない、愛というのに照れてただけだよ」。特に「愛というのに照れてただけだよ」の部分です。

 さて、12月は「寄付月間」だというにユースを先日、目にしました。「欲しい未来に寄付を贈ろう」を合い言葉に、2015年から毎年12月に全国規模で行われています。ホームページにコンセプト的な文章が掲載されていました。これも紹介します。

 1年の終わりに考えたいのは未来のこと
 もっと楽しい未来
 もっと優しい未来
 もっと平和な未来
 もっと多様性が認められる未来
 そんな未来を手にするために、あなたの気持ちを寄付にしよう
 寄付は意思、寄付は投資、寄付は応援、寄付は願い。
 だから、「ギビング ディッセンバー」。
 1年の終わりに、未来を考え寄付をする。
 そんな習慣を、はしめたいと思います。
 欲しい未来を叶えてくれる 様々な取り組みに、あなたの想いを託しましょう。
 さあ、年の終わりに、新しい「寄付」が始まります。

 日本は、欧米に比べると、寄付の文化が乏しい、と言われていますが、皆さんはどう思いますか? 私は、ここ数年、日本でも「善意の輪」がどんどん大きくなっているのを感じます。例えば、漫画「タイガーマスク」の、伊達直人を名乗る匿名の人物がランドセル10個を養護施設に贈ったニュースをきっかけに、次々に新たな伊達直人さんが現れて、全国の施設にランドセルや文房具が届けられました。東日本大震災では、日本中が被災地のことを自分のことのように考え、自分にできることは何か、それを素直に行動に表すことができました。その支援の輪は大きくなり、熊本の震災や西日本豪雨、北海道の震災でも見ることができました。英和の生徒会もすぐに行動に移していました。
 このように、私は、日本が欧米に比べて誰かを助けたいという心が弱いのではなく、「勝手にしやがれ」の歌詞にある、「愛というのに照れてるたけ」ではないか、というふうに思っています。しかし、この「ちょっとした照れ」、が、意外と高い「心のハード」ルになっているのではないでしょうか。そのハードルを下げるにはどのように思考すればよいのでしょうか?
 「見えざる手」で有名な、アダム=スミスという18世紀の有名な経済学者はこう言いました。人間は利己的だが、人間の本性の中には、他人に関心を持つ、「共感」の感情がある、と。 私はアダム=スミスの、「人間は利己的だが・・・」が心のハードルを下げる重要なファクターになると思っています。自分のことより、誰かのこと、自分を犠牲にしてでも困った人を助ける、それはなかなか出来ることではありませんし、できるとすれば、それは徳の高い人、特別心の清い人、この放送を聞いている人の中に、そう思う人がいるかもしれません。
 しかし、それをできるのが、徳の高い人だけ、とするならば、人類はとっくに滅んでいたのではないか。人類は「文明」や「科学」というものを手に入れるずっと前、何度も絶滅の危機にさらされてきました。例えば、気温の急激な低下で、食糧危機に陥いりながらも、何度もそれを乗り越えてきて、今の私たちがあります。なぜ人間は生存の危機を乗り越えてこれたのか? それは誰にでも等しく「分かち合う心」が備わっていたからだと言う人類学者もいます。
 人間は利己的、つまり、自分勝手な生き方をしてしまう生き物でありながらも、同時に他者の立場を自分のこととして想像できる、「共感する心」が神様から与えられているのだと思います。「利己的」と「分かち会う心」、この二つは相反する人間像なのではなく、人間、誰の心にも共存し、時に「利己的」が顔を出し悪さをしたり、そうでありながら、時に「分かち合う心」が誰かの苦しみに寄り添ったり。人を「二者択一」で測ることは愚かなことです。皆さんのなかに、自分を利己的だと嫌悪したり、その逆に「いい人でいること」に疲れを覚えている人はいるでしょうか?神様は利己的で自分勝手な私たち一人一人にも、ちゃんと「分かち合う心」を備えて下さっています。

 今、人類は、文明の生まれる前の原始の時代とは、また違う形の絶滅の危機に直面していると思いませんか? 温暖化をはじめとする環境問題、ますます広がる経済格差の問題。原始の人類が、「分かち合う心」で乗り越えたように、私たち、とりわけ、生徒の皆さんのような若い世代が、考えていかなければ、本当に地球が、人間社会がおかしくなってしまうかもしれません。
 先ほどの、寄付月間のキャッチコピーのなかには、「困った人を助けましょう」や、「あなたの100円で何人分の○○」などという言葉は出てきません。そうではなく、一緒に未来を築いていこう、いうメッセージが中心です。「もっと楽しい未来」、「もっと優しい未来」、「もっと平和な未来」、「もっと多様性が認められる社会」。どういう「未来」をつくるかは、私たちの行動しだいではないでしようか?

合同礼拝 大島先生

<讃美歌>   242番

<聖書>   詩編149篇1~3節

1) ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え。主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。

2) イスラエルはその造り主によって喜び祝い/シオンの子らはその王によって喜び躍れ。

3) 踊りをささげて御名を賛美し/太鼓や竪琴を奏でてほめ歌をうたえ。

 今日(あさって)で11月も終わり,次の日曜日はアドヴェントです。今年もクリスマスを楽しみに待つ季節となりました。クリスマスになると,普段の美しさが,より一層輝くようになるものがたくさんあります。
 そのひとつ,今朝は,英和生には聖歌隊でおなじみのハンドベルについて,お話しようと思います。

 ハンドベルは17世紀に,イギリスの教会で誕生した楽器です。
 イギリスの古い教会には塔(タワー)があり,そこには,その教会のシンボルとなる大きなタワーベルが取り付けられています。ベルは普通,1つだけではなく,こんなふうにたくさんついています。

 これらのベルはそれぞれ大きさが異なり,違う音色がします。
 でもタワーベルひとつひとつはとても大きなものです。

 重さも非常に重いので,普通に揺らしたくらいでは全然音がしません。
 ではどうやって鳴らしているかというと,タワーベルひとつひとつにはこのように滑車が取り付けてあります。

 この滑車を回すひもはタワーの一番下まで伸びています。

 そしてそのひもを,タワーの下にいる人が一人一本ずつ持っていて,全力で引っぱります。

参考動画「Mathematical Impressions: Change Ringing」
https://www.youtube.com/watch?v=7Vl-_1F7dFE

 すると滑車が回転し,こんなふうにタワーベルも回転して音が鳴ります。

参考動画「Perth Swan Bells Change Ringing 」
https://www.youtube.com/watch?v=V-djwgPdVmA

 ひもを引っぱるタイミングによって,ベルを鳴らすタイミングを自在に調節することができます。ベルの組み合わせや音のタイミングを変えることで,教会からの様々なお知らせ,礼拝の時間や,結婚式,お葬式,火事や戦争などの緊急事態などを,人々に伝えるのがタワーベルの役割でした。

 しかし,ほかの人と上手にタイミング合わせたり,順番を間違えずにベルを鳴らすのはとても難しいので,しっかり練習をしておく必要があります。でも本物のタワーベルでへたくそに練習されては,聞いている街の人みんなが大混乱してしまいます。
そこで,タワーベルの練習用として考案されたのがハンドベルでした。

 その後ハンドベルは,独立した楽器として親しまれるようになりました。現在は,イギリス,アメリカ,カナダ,韓国などで広く演奏されるようになり,日本では伝統的なミッションスクールを中心に普及しました。キリスト教の信仰の中で生まれた教会楽器ですので,日本ハンドベル連盟の行事は今も必ず礼拝で始まります。なお,日本ハンドベル連盟の理事長を2017年までつとめていらっしゃったのは,昨年亡くなられた日野原重明先生でした。

 山梨英和のハンドベルの歴史は,今から45年前に始まりました。最後の宣教師だったミス・ロジャースが,1973年に2オクターブのハンドベルを寄贈してくださったのが始まりです。日本で最初のハンドベルクワイアは 1970年の金城学院ですから,英和はそのわずか3年後です。日本の中でもかなり早い時期から,山梨英和にハンドベルは根付いていました。
 私が初めてハンドベルと出会ったのは,小学校6年生で参加した英和の入学説明会でのことでした。素晴らしい音色と輝く美しさに感動しすぎて,入学後は中高6年間,聖歌隊に所属しました。

 当時の聖歌隊にはシューマリック社製のハンドベルしかなかったのですが,ある年,新しくマルマーク社製のハンドベルを買って頂くことになりました。

 届いたばかりの真新しい黒いケースを開けてみると,輝く金色のハンドベルがずらりと並んでいて,もう本当にきれいすぎて,みんなで大歓声を上げて喜んだ思い出があります。
 ハンドベルは1つ1つが手作りでとても繊細なものですが,大切に扱えば100年以上使うことのできる楽器です。教会で生まれ,宣教師の先生によってもたらされたこの素晴らしい音色が,創立130周年を迎える山梨英和に,これからも永く響いていってくれることを願って,お祈りをお捧げ致します。

 

 

天の父なる神様、おはようございます。

 今日も学校にお導き下さり、一日の始めに礼拝をお捧げすることができて感謝します。

 今年もあと1ヶ月でクリスマスを迎えます。美しいハンドベルの音色に耳を傾けるとき,神様が御子イエス・キリストを贈ってくださったこと,教会が生まれ,ハンドベルが生まれ,宣教師の先生方が遣わされ,山梨英和が建てられたことを覚え,深く感謝いたします。

 今ここに集う,山梨英和に連なる一人一人に,今日もこれからも,ずっと神様がつながっていてくださいますように。

 この祈りを、尊き主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。

 アーメン

放送礼拝 市村先生

新約聖書  ヨハネによる福音書3章16~21節  
賛美歌21 235番「久しく待ちにし」
 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。

おはようございます。寒い朝を迎えましたね。昨日の日曜日は、アドベント2週目を迎え、2本目のロウソクが灯りました。
昨日、家族で教会に向かう車の中で、こんな話をしました。世界一受けたい授業の番組で、ネアンデルタール人が絶滅したのは、なぜか?あるものが無かったからだ。わたしが答えに迷っていると、小学三年生の甥っ子が「ネアンデルタール人は、誰かと何かをすることができなかった。絆とかつながり、がなかったからだよ」と見事に答えました。『わけあって絶滅しました』の本では、想像力が足りなかった、協力して生活できなかった、なども理由として挙げられていました。

へぇ~と驚きながらそんな話をしていた時に、なぜか、私はふとドラえもんのアニメを思い出しました。タイトルは『のび太は独裁者』というお話です。のび太が野球でチームの足を引っ張って惨敗し、ジャイアンに「のび太のせいで負けた」と非難され、暴力を振るわれます。家に帰ったのび太は、それをドラえもんに話します。ドラえもんは「のび太が下手なのが悪い」と言い、練習を勧めますが、のび太は「ジャイアンが悪い、あいつさえいなくなれば・・・」と聞く耳を持ちません。すると、ドラえもんは「ふうん、そんな風に考えるんだ。じゃ、やってみる?」と“どくさいスイッチ”をのび太に渡しました。そのスイッチとは、自分の邪魔になる者を消し去るひみつ道具でした。物語の中でジャイアンを消してしまったのび太は、そのことに恐怖しつつも、今度はジャイアンに代わってスネ夫から意地悪をされそうになり、結局スネ夫も消してしまいます。

やがて夢の中で色々な人から馬鹿にされたのび太は「だれもかれも消えてしまえ!」と誤ってスイッチを押してしまいます。夢から覚めたのび太は、自分の手がスイッチを押してしまっているのに気付きました。自分一人を残して世界中の人間を消してしまいました。最初は「世界が自分だけのものだ!」と楽しんでいましたが、やがて夜になり、電気のつかない部屋に一人、何の音もありません。本当の孤独に、のび太は耐えられなくなり「ひとりでなんて…、生きていけないよ…」と泣き出します。そこにドラえもんが登場し、のび太に伝えます。「気に入らないからって次々に消していけば、きりのないことになるんだよ。わかった?」と。 最後には、もとの世界に戻してくれたドラえもんと野球の練習をするのび太君が描かれています。ジャイアンやスネ夫に「や~い、下手くそ。下手くそが練習してらぁ~。」と野次を飛ばされながらも、のび太はこう言います。「まわりがうるさいってことは楽しいね」と。

気に入らないからって誰かの存在を消していっても、本当の平安になりません。あの人がいない方が自分に好都合だ。あの人がいなければ、自分が傷つかない。自分が嫌な思いをしないで済む。心穏やかに過ごせるはずだ、と思ってしまいがちです。色々な人がいる現実世界に私たちは生きています。人と関わらずに生きていくことはできません。その中で傷つき、悲しみ、怒りを感じることもあります。また逆に自分が相手にそういう思いをさせてしまうこともあります。しかし、自分に関わる「相手」がこの世に生まれて存在しているということは、とても大きくてすごいことです。ここに「あなた」が生まれて存在していることも、とても大きくてすごいことなんです。この自分もその相手も、イエス様の十字架の犠牲の上に、存在しています。十字架で流されたイエス様の血の上に、その痛ましい傷の上に、私たちはいのちを受けています。イエス様を傷つけ、罵倒を浴びせ、死なせたのは私たち一人一人です。その傷をつけた私たちを、気に入らないから消す、と滅ぼすのではなく、むしろ私たちを救うため、神さまはご自分のひとり子を与えてくださり、イエス様がご自分のいのちを私たちのために捧げられました。

私は正直、気の合わない人なんていない、と答えられる自信はありません。みなさんにも受け入れがたい人、距離を置きたい、なるべく関わりたくない人がいると思います。しかし、その人のために自分のいのちを捧げてくださった方がいます。自分自身もそうですが、誰かに対して居なくなってくれれば良いのにと思ってしまう自分、心が整理できずに誰かを無視してしまったり、非難したり、一方的に相手を裁いてしまう自分がいます。思うように上手くできないと心がグチャグチャになる自分がいます。でも、そんな自分を丸ごと愛して、いのちを捧げてくださったイエスさまがいます。

協力することができなかったことから滅びたものたち、本当の孤独を知って心から「一人じゃ生きられない」と後悔したのび太。私達が共に生きるために必要なものは何でしょうか。イエス様の十字架が何のためであるかを信じて生きることです。誰かがいなくなれば良い、自分さえ良ければ、という滅びへと向かうのではなく、自分も相手も愛されている存在であると認め合い、神さまの愛に満たされる生き方へと歩んでいきたいです。

これからクリスマスを迎えます。イエス様が何のために生まれてくださったのか、自分と今生きている仲間と共に味わいながら、イエス様を、クリスマスを待ち望みたいです。

放送礼拝 中原先生

マタイによる福音書第1章23節

私たちの人生において、「喜び」と呼べるものは大小様々、たくさんあります。自分の欲しいものが手に入ること、友人ができること、信頼されるということ、愛されていると感じる時、また、人生の計画が自分の願った通りに進むこと、、、しかし、喜びの数と同じだけ、いや、ともすればそれ以上に悲しみや苦しみを経験するのではないでしょうか。子供には子供なりの、若者には若者なりの、そして大人になれば大人なりの、悩み、苦しみ、悲しみというものがあるものです。そう考えると、私たちの日常は、一喜一憂の日々です。浮き沈みの連続です。

浮き沈みは、生涯、付きまとうのかもしれません。しかし、もし、全ての苦しみ、悩み、悲しみよりも大きな、そして確かな喜びが存在するならば、私たちは、しっかりとした足取りで、生きていくことができるのではないだろうかと、私は思うのです。依然として苦しみや悲しみはあったとしても、心に宿る確かな喜びを武器に、それらと戦っていける、と私は思うのです。そしてそんな喜びを獲得したいと、心から思います。

ちょうど今日から数えて、50日後がクリスマスです。少し気が早いと思われるかもしれませんが、私の尊敬しています、あるカトリック神父は、お正月を迎えた途端に、「今年ももうすぐクリスマスだな」というのが口癖だったようです。それくらいクリスマスというのは待ち遠しいものです。私もクリスマスが楽しみで仕方ありません。喜ばしい出来事だからです。

クリスマスは、なぜそんなにも喜ばしいのでしょうか。そのことを今朝お読みした御言葉から少しでも深く読み取りたいと思います。今日は時間の関係上、全てを読むことはできませんが、第1章から第2章を注意深く読んでいると、気がつくことがあります。それは、イエスさまの父ヨセフと、母マリアが一言も言葉を発していないということです。クリスマスの出来事の中で、明らかに彼らは重要な登場人物ですから、本当はその言葉があって良いはずです。事実、他の福音書にはしっかりとヨセフとマリアの言葉が書かれていますから、この違いは注目すべき点です。では誰の言葉が記されているのかというと、天使たちが告げる神の言葉なのです。私はある年に、このことに気がつきまして非常に驚きました。興味深いことはまだまだあります。このクリスマスの物語の中には、命令形の言葉がいくつも出てくるということです。第1章だけを見ましても、20節の「迎え入れなさい」、21節の「名付けなさい」、そして24節では「命じた通り」と、これらが命令であったことを念押しするかのように記されます。第2章にはさらにありますが、それは後でご自分で探してみてください。今、2つの特徴を見つけましたが、どちらも、筆者が意図していることだと思います。

命令形に関していえば、もう一つあります。これはルカによる福音書の第1章28節です。マリアがイエスさまを身ごもったことに、天使が祝福の言葉を告げるくだりがあります。「おめでとう、恵まれた方」と天使は言うのですが、このおめでとう」と訳されている言葉です。私が持っている、ある英語の聖書では、動詞一語で”Rejoice!”となっていました。「喜びなさい!」という命令形です。非常に興味深い言い方です。私たちは「喜べ!」と命令したり、反対に「喜べ」と命じられることはほとんどないように思います。ではなぜ、「喜びなさい」と命じられているのでしょうか。それは、私たち人間は、多くの場合、このクリスマスの喜びを受け取り損ねているからだと思います。だから、神の御使いは、「喜びなさい!嬉しい出来事なんだから!」と、命じなければならなかったのでしょう。そして、この私たちが受け取り損ねる喜びこそ、悲しみや苦しみや悩みに打ち勝つための武器です。

今、お話ししました命令形の言葉はみな、ヨセフに告げられた神様の言葉です。その御言葉にどんどん事を進められる神の姿が浮き彫りになっています。神ご自身が、クリスマスの出来事の中心におられるのです。マリア、ヨセフを始めとする登場人物たちは、どんどん事を進められる神様のなさることに、巻き込まれて行くだけです。しかも神様がどんどんことを進めて行かれるのは、ご自分に何か利益があるからではありません。ひとえに私たちのために働かれるのです。私たちのため、とは、一体どういうことでしょうか。それはしっかり22節で答えられています。インマヌエル、「神我らと共に」、このことを実現するため、そのために神ご自身が、ご自分の方から私たちの元に来てくださった、それがクリスマスです。これを自分のための出来事として信じ、受け入れるのか、それとも知識や教養として頭の片隅に入れておくのか。神が私たちと共にいて下さるために、まるで無我夢中で、どんどん事を進めてくださっているのに、どうして私たちが無関心でいられるでしょうか。

星に導かれるまま、非常に強い関心を抱いてやってきたのが、第2章2節に登場する占星術の学者達です。学者ですから、彼らが見た星に関する知識も教養も豊かだったに違いありません。しかし、もしも彼らがそのまま自分の国に止まっていたならば、知識は知識のままで終わり、主イエスにお会いすることはなかったはずです。でも彼らは、星に導かれるまま、クリスマスの真相を確かめるために、神様が起こした出来事を見るために旅に出ました。そうやって自分たちも、その神の出来事の中に入り込んで行ったのです。入り込んで行った時「学者たちはその星を見てこの上もなく喜んだ」とマタイによる福音書第1章10節はしるします。「この上もなく喜んだ」というこの言葉は、原文を直訳すると「大いなる喜びを喜んだ」という言い方がしてあるそうです。「大きな喜びを喜んだ」、おかしな言い方ですけれども、そうとしか表現することのできない大きな喜びがここにあるのです。そしてこの喜びは、2000年前に生きていた人々にのみ許された喜びではないのです。皆さん一人一人に、神さまが、「喜びなさい!私があなたと共にいる、それがクリスマスに実現したのだ!私もそのことが嬉しい!喜びなさい!」と、まず神ご自身が大きな喜びの中に立って、呼びかけてくださっているのです。本当に畏れ多い、感謝なことです。そういう心のうちからふつふつと湧き上がってくる喜びを、私は一昨年よりも、昨年、昨年よりも今年と、少しづつ深く理解し始めています。本当に嬉しいことです。

この世界は、冒頭で申しましたように、人に言えないような悩みがあり、あるいはまた独りぼっちで苦しんでいるのだと思うようなこともある世界です。自分のうちにある暗闇に、心閉ざす思いに暮れることも多々あります。人生の岐路に立って不安を覚えている人もいるでしょうし、これから先もそういうことは続いて行くでしょう。そういう私たちのところにイエス・キリストが来てくださり、「インマヌエル・(私はあなたがたと共にいる)」と一人ひとりに約束してくださっているのです。そしてこのことを、神ご自身が誰よりも喜んでいてくださるのです。暗闇の中にいる私たちのもとに来くることを、ご自分で選ばれた神の御姿をイエス・キリストに見る時、私たちはもはや、暗くなることはなく、喜びのうちに力を得て、確かな思いに生きることができます。この喜びをみなさんにぜひ知って頂きたい。この喜びを知りたい、得たい、味わいたい、クリスマスって私にとって何なのだろう、教えてくださいと、祈り始めるとき、神様はきっと分からせてくださいます。それは神様の願いなのですから。今年のクリスマスが、皆さんにとってそんな「大いなる喜び」を味わい知る歩みの始まりとなりますよう願って止みません。それでは一緒にお祈りいたしましょう。

神様、私たちは、あなたが与えて下さろうとする、本当に大きくて確かな喜びを受け取り損ねます。おろかな私ども許してください。自分たちがいかに大きな喜びを受け損なっているかに気づき、へりくだってあなたに祈り始めることができますように。そしてどうか私どもにあなたが与えてくださった大いなる喜びを、去年よりも今年、今年よりも来年、と深く知り続ける歩みをさせてください。このお祈りを主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン。

放送礼拝 黒田先生

10月29日(月) 放送礼拝 詩編81編11節
<お話>
 皆さんは、「祈り」は聞かれると信じていますか、思っていますか?キリスト教では「祈り」を大切にします。実際キリスト教学校に通う皆さんも日頃、朝の礼拝、昼食の前、帰りの礼拝で祈る機会、また友人の祈りに心を合わせる機会が多くあると思います。ジョージ・ミュラーという人物は、キリスト者の中でも「祈りの人」として良く知られています。ミュラーは、19世紀にイングランド南西部のブリストルという町で、ただ「祈る」ことを通して、孤児院を設立・経営した人物です。当時イギリスは産業革命を経て世界一の座に君臨し、繁栄をしていました。しかし一方で、貧富の差は拡大し、労働者階級は貧困に苦しんで、親や頼る人のいない多くの孤児が生み出されました。その孤児たちは「救貧院」という国の施設に収容され、そこでは最低限の食事しか与えられず、設備は不潔・不衛生であり、さらには子どもであっても、勉強はさせてもらえず肉体労働を強制されました。ミュラーはそのような状況に心を痛め、貧しいスラム街に暮らす孤児たちを養い、またキリスト教教育を施す働きに生涯を捧げました。

 ミュラーの孤児院では、経済的に厳しい状況が幾度となく訪れましたが、ミュラーたちが祈った時に、必要なものは全て満たされました。例えば、ある時100人近くの孤児たちが朝食として食べるものが何もありませんでした。しかし、何もない状況で食前の感謝の祈りを捧げた時に、元々他の人に注文されていたけれどもキャンセルになったパンと牛乳が孤児院に届き、皆が食事にありつくことが出来ました。また、ある時には孤児院の孤児の数が増え、近所から騒音への苦情が寄せられ、孤児院を引っ越す必要が出て来ました。経済的には不可能な状況でしたが、祈り続けた時に、多くの献金が寄せられ、無料で設計や工事を請け負ってくれる建築家が現われました。さらには格安で土地を譲ってくれる地主が現れて、多くの孤児を養える広い土地を得て、大きな孤児院を建てることが出来ました。ここで驚くべきことは、ミュラーが経済的不足を外部の人々に対して、口外することは一度もなかったということです。それは、人間の力によるのではなく、ただ神のみが養ってくださる、養うことが出来るということを彼が証明するためでした。口外せずとも、実際に不思議な方法で一番良い時に一番良いものが孤児院に与え続けられました。

 この事柄は、わずか200年前に起った出来事です。これはミュラーが信仰深い人だったからなし得たことでしょうか。そういう面はあるかもしれません。しかし、それ以上に大切なことは「彼が自分の弱さを認めて、神の力に頼った」ということです。今日読んだ詩編81編11節の「口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう」という御言葉は、ミュラーが孤児院の働きを始めるべきか否かを悩んでいた時に、決心を与えられた御言葉です。彼はただこの御言葉を信じて、孤児院を始め、神に必要を求めて、その祈りは聞かれ続けました。

 当然、私たちが祈る祈りが、自分の思っているような形では聞かれないことはあります。祈っていたけれども望んでいる道が閉ざされることがあります。聞かれたとしても、聞かれるまでにとてつもない時間がかかることがあります。そのことは私たちにやりきれない悲しみや怒りを時にもたらすことだと思います。これまでの私自身もそうですし、ミュラー自身にもそういうことは多くありました。そのようなことに対して、私は他人に、「残念だったな。次に向かって頑張れよ」とか「我慢して、頑張れよ」などと軽々しく言うことは出来ません。それは、私が他人の思いを100%心の底から理解することは出来ないからです。けれども、神だけは私たちの全てを知って下さっています。人となってこの世に来て下さった神は私たちのこの世での痛みや悲しみも経験してくださっています。そして、聖書はエレミヤ29:11にあるように、神の計画は私たちに「平安」と「将来」と「希望」を与えるためのものだと約束しています。ですから、私たちは、自分の弱さを認めつつも、大胆に口を広く大きく開けて、祈りによって私たちの必要を神に求めてみませんか?私たちの願いを神に知ってもらいませんか?神の限界を勝手に決めてしまわずに、祈りは聞かれると信頼してみませんか?そのような主体的な祈りによってこそ、私たちは祈りの力や大切さを、身を持って知ることが出来るのではないでしょうか。

放送礼拝 谷井先生

エフェソの信徒への手紙3:16-19

今日のテーマは「内面の強さ」についてです。明日は待ちに待ったスポーツデーですが、スポーツの分野においても、「内面の強さ」は重要視されていますね。これが欠けていたら、真の意味でアスリートとは言えません。最近では、大坂なおみ選手の急成長の鍵としても注目されました。
私自身はというと、日々、内面の弱さを痛感しているので、今日の御言葉にある、「内なる人を強めてください」という祈りは私の切なる祈りでもあります。

そもそも「内面の強さ」とは何なのでしょうか。聖書には次のようにあります。「寛容で、親切で、人をねたまず、自慢せず、高慢にならず、礼儀正しく、自分の利益を求めず、怒らず、恨まず、不正を嫌い、全てをがまんし、全てを信じ、全てを期待し、全てを耐え忍ぶ」ことです。実はこの箇所は愛について語られているのですが、内面の強さにも通じると思いました。

この全てを完全にクリアできるのは、この世の中どこを探してもイエス様だけです。イエス様しか当てはまらないのです。一つ一つ福音書を読みながら確認していけばわかるのですが、今日は代わりに、英和でよく賛美するあの歌の歌詞を朗読します。
「まぶねの中に、産声あげ、たくみの家に人となりて、貧しき憂い、生くる悩みつぶさになめしこの人を見よ。食する暇も打ち忘れて、虐げられし人を訪ね、友なき者の友となり、心砕きしこの人を見よ。全てのものを与えし末、死の他何も報いられで、十字架の上にあげられつつ敵を許ししこの人を見よ」

私は、イエス様の内面の聖さと、強さに本当に憧れます。ほんの少しでも近づけることができたらと願っていますし、だからこそ、今日の御言葉にある、「キリストが心のうちに住んでくださいますように」と祈る必要性を覚えます。では、キリストが心のうちに住むとは、具体的にどういうことでしょうか?それは、常に自分の心に「イエス様ならこの状況でどうするか?」と尋ねることです。

例えば、今日は月曜日、宿題結構あったのに週末遊びすぎて宿題をしていない。先生に嘘をついてごまかそうかな…。友達とケンカした。私は悪くない。むこうが謝ってくるなら許してあげてもいい…。こんな状況の時に、自分の気分に左右されるのではなく、まず、「イエス様ならどうする?」と自分に問いかけてみましょう。答えとして、聖書の御言葉がすぐに心に思い浮かんだ人は、普段からしっかり御言葉を蓄えていますね。次は行動に移してみましょう。すぐに思い浮かばなかった人は、心の土をよく耕して、御言葉の種を大切に育てていきましょう。この繰り返しが私達の内面を強くしていくのです。

また、英和生である皆さんには、見習うべきすばらしい信仰の先輩方がいらっしゃいますね。例えば、初代校長のウィンミュート先生です。先生は、25歳という若さで、祖国カナダを離れ、キリストの愛を携えて、一人遠くこの山梨の地に来てくださいました。130年前、しかも女性一人です。想像もできない程の勇気です。また、第10代、12代校長のグリンバンク先生もそのお一人です。第二次世界対戦中、カナダ人宣教師達はスパイとみなされ、多くの人は祖国に帰る選択をしましたが、グリンバンク先生だけは日本に残る事を決め、横浜で一年間、辛い抑留生活を耐えられました。愛するお母様をカナダに残しての決断でした。お二人の先生方の内面の強さ、美しさはキリストの愛に根ざしたものです。

この愛を土台とする英和に連なる私達は、先頭を歩いて下さるイエス様を見上げ、今日も御言葉をしっかりと握りしめて歩みましょう。そして、日々、御言葉によって訓練され、磨かれ、内側から鍛えあげていただきましょう。

放送礼拝 伊藤先生

10月17日 放送礼拝                     
聖書    マルコによる福音書7章31~37節(p.75)
 

スポーツの秋、もうすぐスポーツデーですね。
先日までアジアオリンピック、その後パラリンピックがありました。毎日のように選手達の活躍がニュースで伝わってきました。
2020年には東京オリンピックが開催されることになっています。そしてその後にパラリンピックが行われます。パラリンピックは1960年に第1回ローマ夏季大会から始まり、身体・知的等にしょうがいを持つ人たちが競技します。
「しょうがい」はその人の個性であるという人々がいます。全くその通りだと思います。しかし、現実には「しょうがいのある人」は「しょうがいのない人々」優先の社会の中で周辺に追いやられることが多いとも言えます。この課題は思いがけず深く困難な面を持っていることも事実です。その意味でも、パラリンピックというプロジェクトは大きな意味を持っているのではないでしょうか。パラリンピックは周辺に忘れられがちの人々を社会の中心に連れ出すという方向が感じられます。
「パラ」はギリシャ語で「並べる」「共に」というような意味があるそうです。先にお読みした聖書の箇所マルコによる福音書7章33節には、『イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し…』と書かれています。「連れ出し」て、人々の真ん中に招かれました。彼は周辺ではなく真ん中にいます。
イエスさまは、子ども、老人、女性、異邦人(ユダヤ人達からみた外国人)というような弱い立場の人々を、大人、若者、男性、神の民(ユダヤ人)というような強い立場の人々と「並ぶ存在」へと「連れ出し」てくださいます。すべての人間は父なる神さまの前では等しく愛されている尊い存在であることがわかるようにして下さいます。

今日は、一人の貧しいおばあさんの詩を紹介させて頂きたいと思います。
題は「マローンおばさん」作者はエリナー・ファージョンという英国女性です。

森のそばで一人貧しく暮らしていたマローンおばさん。誰一人おばさんを訪ねる人はなく、心にかけるひともいない。
ある冬の月曜日、みすぼらしくて弱りはてたスズメが一羽、窓辺にやってきた。おばさんは「あんたの居場所くらいここにはあるよ」とスズメを抱いてつぶやいた。火曜日の朝、おなかをすかせ、棒切れのようにやせこけたネコが一匹やってきた。おばさんは「あんたの居場所くらい、ここにはあるよ」とネコをひざの上でさすってあげた。水曜日、6匹の子ギツネを連れた母さんギツネが座ってた。おばさんは「あんたがたの居場所くらいここにはあるよ」とキツネの親子を招き入れた。
「こんなによごれてつかれきって」 「あんたの居場所くらいここにはあるよ」
と言って、自分のわずかな食料をわけあたえるマローンおばさん。
マローンおばさんのもとには、スズメだけでなく様々な動物がやってくるのですが、
どの動物も弱っていたり、けがをしていたり、お腹をすかせていたり。
でも、どんな動物に対しても、居場所はここにあるよ。といって家の中に入れて
自分の食料をわけあたえました。
「次から次へと家族がふえた。
でも もう1ぴきぐらい居場所はあるよ」

そんな風になにもかも分け与えていたら、土曜日の夜ご飯の時間になってもマローンおばさんは起きてこなかった。
動物たちはマローンおばさんを天国の門へ連れて行きます。
そして、動物たちは門番の聖ペテロさまに、貧しくてなにも持っていなかったけれど、お母さんのように広く大きな心で動物たちに居場所を与えた人であることを伝えました。
それを知った聖ペテロ様
「母よ、入って王座におつきなさい。
あなたの居場所がここにはありますよ。マローンおばさん。」
と、中に迎え入れる・・・
“There’s room for another one, Mrs. Malone.”
ペテロの最後のセリフは、マローンおばさんが月曜日から金曜日まで新しい仲間を迎える度にいつも口にしたことばでした。「もう1ぴきぐらい居場所はあるよ。」
マローンおばさんは、その同じ言葉を今度は自分のために聞いたのです。

貧しい生活のマローンおばさんですが、来る動物を断ることなく「居場所」をつくり、わずかな食事をあたえました。
「居場所がない」ということがどれだけつらいことかを、マローンおばさんが知っているからかもしれません。ひとりぼっちでさびしい暮らしをしていたマローンおばさん。
そのことを誰かに嘆くこともなく、居場所がない!と訴えることもしなかった。
そのかわりにしたこと・・・それは多くの弱った動物の「居場所」をつくることでした。
そのことで、たくさんの動物たちに愛され、その空間がマローンおばさんの「居場所」になりました。
貧しい生活のマローンおばさんでしたが、最後はたくさんの動物に愛されて幸せだったのではないでしょうか。
自分のことでいっぱいいっぱいになった時、孤独を感じるとき、多くの人は、自分中心に考えてしまうような気がします。
まずは、自分から誰かの居場所をつくることが、自分の居場所になっていくのかもしれません。
イエスさまは、『心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
わたしの父の家には住む所がたくさんある。』とおっしゃいました。
「耳が聞こえず、舌が回らない」あの人もイエスさまのおられるところでは周辺ではなく、中心部にその居場所があったのです。

お祈りします。
恵み深い父なる神さま。
私たちの生きている社会には、しょうがいを持つ人、弱い人、疲れている人
悩んでいる人、苦しんでいる人がたくさんいます。わたしたちもその一人です。
どうか、マローンおばさんのように居場所はあるよ、と受け入れる心の温かい人
心の広い人になれますように。そして、他の人のことを思いやる心を持って、行動できる人になれますように。
私たちが疲れてぼろぼろになっても、神さまの家にはいつも私たちを迎えてくれる場所が用意されていることを思い、その豊かな恵みに感謝致します。
一人一人の祈りに合わせて、イエス様のお名前を通して御前にお捧げ致します。 アーメン

放送礼拝 長田先生

2018年10月15日 放送礼拝

 ヨハネの手紙1  1章1~2節
 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言葉について。― この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちが見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。

私は本を読むのが好きですが、みなさんはいかがですか?今どんな本を手にしていますか?
本との出会いは自分の世界を広げてくれます。おもしろいと思った本があったらそのシリーズを読んでみたくなるのではないでしょうか。ハリー・ポッターシリーズなどは続きが出るのを待ち遠しく思っていた人もいたはずです。また、その作者の他の本を次々と読んでいくこともあるでしょうし、関連したテーマの本を読んでいくこともあるでしょう。そうしてかけがえのない出会いをし、追体験をすることができるのです。
 私は、今年ある著者の本と出会い、その人が書いた他の本も読みたいと思い、さらにその本で紹介された写真集も手にしました。読むうちに、「私が追体験したことをみんなに伝えたい。」と思うようにもなりました。人は心動かされたことを誰かに伝えたくなります。これから、私が今年強く心動かされた命の言葉を証しし、伝えようと思います。

 私が最初に手に取ったのは『狂う人』という島尾敏雄とミホ夫婦の評伝です。著者は梯久美子さん。島尾ミホさんから何年にもわたって交流を続け、死後に息子さんから両親(島尾敏雄とミホ夫婦)のことをきれいごとでなく書いて欲しいと言われたそうです。この本で梯さんは相手に寄りそい、決して無理強いせず、相手の語る言葉を真摯に受けとめていました。
私はこの姿勢に惹かれ、続いて梯さんの『昭和20年夏』シリーズを読んだのです。
『昭和20年夏 女たちの戦争』『昭和20年夏 子ども達が見た戦争』『昭和20年夏 僕は兵士だった』という三部作です。『ゲゲゲの鬼太郎』の作者・水木しげるさんや昨年亡くなった俳人の金子兜太さん、『魔女の宅急便』の作者・角野栄子さん、国連で活躍されていた緒方貞子さん、女優の中村メイコさんなどから昭和20年の夏を中心に戦争経験を聞き書きしたものです。難しい言葉で書かれていませんし、感情的に語られてもいません。けれども、時を経て語られる言葉がこちらの胸に迫ってくるのです。図書室に入れてもらいましたので、ぜひ読んでください。
名もない一兵士が、子どもが、少女が、それぞれの思いを抱いて昭和20年を過ごしているのですが、悲惨な話しばかりではなく、思わず笑ってしまうようなエピソードもあります。さまざまな境遇の人達が生きた昭和20年、戦争が日常生活だった日々が身近に感じられるはずです。
 その中で、私が手にとってみたいと思った一冊が「女達の戦争」の中で語られていた写真集「ひろしま」です。この本も図書室に入れてもらいました。写真を撮影したのは石内都さんという女性カメラマン。広島で被爆死した人達がその日身につけていたものを撮影したものです。
 かわいい花がらのスカートが表紙でした。戦争中女性はもんぺで地味な服を着ていたと思っていましたが、この日着ていた服の中には、チェックのワンピースもあり、戦時中であってもせいいっぱいおしゃれしていたことがわかります。
けれども、思い思いに色鮮やかな服を着て出かけて行った8月6日の朝、その生涯は一発の原子爆弾によって断ち切られたのです。
 国語で平和教材を扱ったとき、思わず目を背けたくなるような資料に出会うことがありますし、実際目をそらしてしまう生徒の人もいます。見てはいけないもの、見たくないもの、と思ってしまうのでしょう。けれども、この写真集を手にしたとき、これは語り伝えなければいけないものだと思いました。そして、先ほどの聖書の箇所「わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちが見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。」を思い出しました。
 この服を着ていた人達は亡くなりました。けれども、この写真は永遠の命をもって伝えられるべきものなのです。そして、これを手にした私は、より多くの人達に伝えていかなければいけないと感じたのです。ぜひ、図書室に入れていただいたこの本達を手にとってください。
今日、放送礼拝という時を与えていただき、この命の言葉を伝えることができて感謝です。

図書室にはあなたを待っているたくさんの本が有り、たくさんの出会いがあります。この秋、たくさんの本を手にとってください。命の言葉に触れ、そのメッセージを受けとめてください。 読書が豊かな時を与えてくれることでしょう。

放送礼拝 糟谷先生

讃美歌:453 何ひとつ持たないで
聖 書:エフェソの信徒への手紙 6章 10-17節

 試験の1日目、眠気と戦いながら顔を洗い、支度をして登校した方も多いのではないでしょうか。
 しばらく前に、顔を洗う洗顔フォームが切れてしまったので、買いに行きました。ドラッグストアの棚の前で、白いボトルと青いボトルを手に取って迷った結果、何となく青い方を選びました。
 青い方を選んだのには、もしかすると、TVコマーシャルの影響があるかもしれません。
 白い方のコマーシャルは、人気の女優さんが朝の明るい光の中、キラキラした笑顔で、ふわっふわのマシュマロ泡を紹介するさわやかな映像です。青い方のコマーシャルは、これも人気の女優さんが、夜、仕事から帰った自分の部屋で、ひとり呟きながら、その日にあった嫌なこと大変なことを洗い流すように顔を洗う映像です。どちらも魅力的で良くできたCMだと思いますが、青い方のシリーズの方が現実的で共感できます。くたくたに疲れた一日の終わりに顔を洗って素の自分に戻る時、汚れだけでなく、その日の疲れや失敗を洗い落としているんだな、生きるってことはだれでも大変なんだな、とあらためて思うからです。
 顔を洗って落とすものは汚れや疲れや失敗だけではありません。大人だけでなく、中高生のみなさんだって、一歩自分の部屋から出れば、家族には家族にみせる顔、友だちには友達にみせる顔、外を歩く時は外を歩く時の顔があるのではないでしょうか。また、そうありたい自分であるための服や、話し方や、ふるまいを身につけて過ごすこともあるでしょう。むき出しの自分で生きていられる人の方が少ないと思います。身につけなければ生きられない社会的な「私」は、着続けるにはとても重いものです。青いボトルの製品を作った会社は、夜顔を洗うとき人は身につけた重いものをいったん脱いで素の自分になるのだ、ということもコマーシャルで表現したかったのではないでしょうか。
 神さまの前に立つ時、私たちは顔を洗った後のような無防備な姿で向き合わなければなりません。神さまは、見栄えのいい服ではなくその中にいる弱くて情けない本当の私をご覧になります。それは、私にとっては怖いことです。
 創世記で、人がヘビにそそのかされて知恵の実を食べた後、自分が裸であるのに気づき、ありあわせの葉っぱで身を隠す場面があります。あの人たちの気持ちはよくわかります。ありのままの情けない自分を神さまに見られると思ったら、そうするしかなかったのでしょう。神さまはそれを見てどうされたでしょうか。そんなみっともない葉っぱを着ても無駄だ、とはぎ取られたでしょうか。その反対です。神さまは、あたたかくて丈夫な毛皮で服を作り、人に着せてくださいました。楽園を出て、この世という現実の中で生きるには、裸では生きられないことをわかっておられたからです。
 さて、今日という一日の中へ私たちを送り出す時も、神さまは毛皮の衣を枕元に用意してくださっています。今日の聖書では「神の武具」と書かれているものです。私たちの一日は戦いの一日です。それは、だれかとの戦いではなく、自分の中にある悪との戦いです。戦いに勝つために必要な帯、胸当て、履物、盾、兜、剣というアイテムは、目の前にある聖書の中に用意されています。私たちが毎朝聖書を開くのは、悪との戦いに負けないよう、神の武具を装着するためでもあるのです。
 神さまは、私たちをありのままの姿で受け入れ、身につけるべき神の武具を用意してくださっています。それを身につけて、自分の中の悪とよく戦い、ぼこぼこにやられながらも、一日の終わりに顔を洗って、ありのままの自分で神さまに向き合い、なぐさめられたいと私は思います。

放送礼拝 山田先生

2018.9.10放送礼拝
マルコによる福音書 2章1~5節
「ためらわず信じなさい」

今年の夏の暑さは本当に記録的な猛暑でしたね。ある病院では、冷房が故障したまま放置されて、お年寄りが何名も亡くなったという痛ましい事件もニュースで耳にしました。
今年の夏のニュースや天気予報では、「ためらわずに冷房を使ってください!」と繰り返し訴える言葉が耳に残りました。「ためらわず」という言葉は、私にとってなぜか印象に残る言葉でした。今年の流行語大賞にノミネートされるかも、などとそんなことまで考えるほどでした。
考えてみると、私たちはエアコンを入れるとき、普段はどこかにためらう思いがあるのかもしれません。地球環境によくないかもしれない?!電気の無駄遣いになるのでは?!何よりも電気代が高くなってしまう!このような心配をしながらエアコンのスイッチを入れているのではないでしょうか。学校生活でも、冷房を使うルールがあり、いつでも「ためらわず」にスイッチを入れることはできません。
ためらうという言葉は、もともとは高ぶった気持ちを元の状態に戻すという意味からできた言葉です。中学生も高校の古典で勉強すると思います。先ほどの冷房の話でいうと、「もうだめだ、暑くてたまらない!冷房を入れたい!」という高ぶった気持ちを、「そうはいってももう少し我慢できるかもしれないぞ、一度よく考えてからスイッチを入れた方がいいかな?」と考え直してみる心の動きが、ためらうということなのです。現代語では、よい状況でも使えるし、よくない意味でも使うことのできる表現となりました。
皆さんの生活の中でも、ためらうことはけっこう多くあるのではないでしょうか?たとえば、お年寄りに席を譲りたいけれど、ことわられたらどうしようとためらう。お菓子は食べたいけれど、ダイエット中だから食べるのをためらう。悩み事を相談したいけれど、相手に迷惑がかかるかなとためらう。風邪っぽくて、お医者さんに看てもらうように言われたが、市販の薬飲めば大丈夫 ?それとも寝てれば治るかな?と病院に行くのをためらう。だれでも 経験が ありますね 。
では、今日の聖書の4人の男たちはどうでしょうか?中風の病人を寝床に乗せて、人の家の屋根に上り、屋根をバリバリはがして穴をあけて、イエス様のところに病人をつり降ろしました。この行動には、まったく「ためらい」は感じられません。ただ病気の人を治してもらいたい、イエス様ならば必ず治してくださる!と信じる気持ちのままに行動しています。高ぶった気もちのままに「ためらわず」に突き進んでいると言えるでしょう!
私たちにこのような感情の高ぶりはあるでしょうか?ためらわずに信じることはできますか?
私たちは毎日、神様のみ言葉に耳を傾けます。イエス様の救いのみ言葉は心を震わせます。その高ぶりをそのまま受け取る時が、礼拝の時間なのだと私は思います。夏休みが明けて、学校にも毎日の礼拝の時間が戻ってきました。今年の夏、私の流行語大賞は「ためらわず」でした。新学期を迎えても、毎日ためらわずに讃美し、ためらわずにみ言葉に聞き、先生や友達の話に耳を傾けて、新学期の礼拝を大切に守っていきましょう!
 
お祈り
 神様、今日も礼拝の時をありがとうございます。私たちは毎日、あなたからの愛のみ言葉をいただいています。どうか毎日の礼拝を大切に守り、後期も、安全に豊かな日々となりますように導いてください。尊き主イエス・キリストのみ名によりお祈りします。
アーメン