2月2013

山梨日日新聞「私も言いたい10代の意見」(2/28付)

高校3年生の広瀬久実さんが山梨日日新聞「私も言いたい10代の意見(2/28付)」に掲載されました。


山梨日日新聞 2013年2月28日付

放送礼拝 情報委員会

ヨハネによる福音書10章11節~15節

私達はあたり前のように毎日学校へ通い、家に帰れば安全な居場所と守ってくれる家族がいます。

けれどもこの世の中には、常に悪い誘惑や危険な場所、または陥りやすいわながたくさんあることを知っておかなければなりません。テレビやインターネットには、もっともらしい情報や一見楽しそうな宣伝や広告など、人が簡単に信じ、のってしまいそうな誘いがあります。

悪い例としては、いわゆる出会い系サイトや、無料にみせかけてすぐに有料サイトにつながってしまうゲームなどがあります。また、最初に調べていた一つのサイトから、次々にクリックしていくと、有料で危険なサイトにつながってしまったり、必要のないウィルスに感染してしまうおそれもあります。

しかしネットを有効に活用すれば、図書館のイベントやボランティア活動、バザーやフェスティバルのお知らせ、また病気の時の専門医の情報など、身近で役に立つ情報を得ることもできます。これらはどれも「情報」というくくりで表現されます。

私達は英和でキリスト教を学んでいます。それは物事の本質を見る心を持つことだと思います。中学・高校で学んでいる今も、またこれから英和を卒業し、もし親元を離れることになっても、私達はイエス様の教えを基礎にして、本当に大切なことは何かを、いつも自分に問いかけるようにしていきたいと思います。

「良い羊飼いは、羊のために命を捨てる。しかし自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」とあります。良い羊飼いとはイエスキリストです。雇い人も同じように羊の世話をするかもしれませんが全く違うのです。これは、私達をとりまく良い情報と悪い情報と似ているかもしれません。

まだまだ未熟な私達が、これから多くの人や物事に出会う時、戸惑ったり悩んだりすることがたくさんあるでしょう。そんな時、聖書の今日の言葉を思い出し、真実を見極めて判断できるように準備すること。そして謙虚な気持ちで神に祈ることを忘れてはならないと思います。

JICA国際協力中学生・高校生エッセイコンテスト「地球ひろば所長賞」受賞

独立行政法人国際協力機構(JICA)主催 国際協力中学生・高校生エッセイコンテスト2012中学生の部において、中学2年の藤村綾乃さんが「地球ひろば 所長賞」を受賞しました。おめでとうございます。

このコンテストは、次の世代を担う全国の中学生・高校生を対象に、開発途上国の現状や開発途上国と日本との関係について理解を深め、国際社会の中で日本、そして自分たち一人ひとりがどのように行動すべきかを考えることを目的として毎年実施されています。今年度は「これからの日本、これからの世界―私たちができること―」というテーマのもと、中学生の部には44,459点の応募がありました。

藤村さんは、夏休みを中心に取り組んだ自由研究で「幸せの国 ブータン」を調べました。本やテレビなどで調べていくうちに、本当にブータンのことを知っている人から話を直接聞きたいと思い、ブータンで青年海外協力隊員として働いていた方にインタビューをしました。現在も多くのJICA協力隊員がブータンにいて様々課題に取り組んでいることを知り、自分もJICA協力隊員のように優しい気持ちで多くの人を笑顔にしたいという気持ちをエッセイにまとめました。

受賞エッセイ「つなげよう平和の輪」

山梨日日新聞 2013年3月9日付

小学生英語体験講座のお知らせ

小学生対象英語体験講座のお知らせ

4月新年度から利用できる「英語のカレンダー」を作りましょう!

英語の月の名前や曜日を覚えながらカレンダーを作りを楽しみましょう!

そのほかにも、楽しい英語のゲームやビンゴゲームも用意しています。

みんなで申し込もう!

 
 日 時 : 3月16日(土)14:00~(受付13:45~)

 場 所 : 山梨英和中学校(グランドに駐車できます)

 対 象 : 新・小学4~6年生 女子

 持ち物 : 筆記用具、上履き

 申込み : 2/27(水)~3/13(水)  ▶申込みはコチラ ※受付は終了しました。

 

  小学生英語体験講座3/16(PDF)

中学合同礼拝 糟谷先生

詩編118編19~25節

皆さんは、この女の子を知っていますか。名前はマララ・ユサフザイさん、15歳、みなさんと同じ年頃です。パキスタンの出身ですが、今はイギリスにいます。今日はまず、この少女に何が起こったかをお話しします。

マララさんの住んでいたパキスタンはイスラム教の国ですが、自分たちの考えに合わない人を武力で排除するターリバーンという組織が地方で力を持っています。パキスタン政府はターリバーンを禁止しましたが、ターリバーンは暴力で人々を支配しようとしています。イスラム教では基本的に人は平等だと考えられています。しかし、残念ながら実際には女性の権利は充分に認められていません。ターリバーンは、女子には教育など要らないと考え、女子校を破壊したそうです。マララさんはその行為を批判する意見をイギリスのメディアに発表したため、ターリバーンに命を狙われ、去年の10月、スクールバスで帰る途中銃で撃たれました。幸い命は助かり、イギリスで治療を受けているそうです。

女子が教育を受ける権利を主張するだけで命を狙われるなんて、ひどいと思いませんか。私たちが、男子であれ女子であれ平等に教育を受けられる国に暮らせていることは、たいへん運のいいことなのです。

人が平等な権利を持つのは、当たり前のことではないのが現実です。パキスタンの隣の国はインドです。インドには、法律で禁止されてはいるものの、未だにカースト制度という身分差別があります。生まれついた階級によって、なりたい職業に就けなかったり、充分な収入が得られなかったり、権利に違いがあるのはおかしくないでしょうか。インド政府も、パキスタン政府も、いずれカーストや性別による差別がなくなるように努力をしていかざるを得ないはずです。

さて、このカースト制度が日本の学校の教室の中にも存在するかもしれない、と言ったら皆さんはどう思いますか。

もちろん日本国憲法では、すべての国民は法の下で平等だとされています。ところが、それを脅かすことが教室内で起きているとしたら、放っておけません。

それは、マララさんを攻撃したような武力の形ではなく、とても見つけにくい形で現れます。先生たちが気づかないところで、変なあだ名をつけたり、そっと目配せしてくすくす笑いをしたり、陰で悪口を言ったり、「そんなの気にしすぎだよ」と言われてしまうような微妙なやり方で、クラスの中に上下関係、教室内カースト、スクールカーストを持ちこんでいる人はいないでしょうか。

『スクールカースト』という題の本を私は最近読みました。大学院生が書いたこの本には、大学生へのインタビューをもとに、いわゆる「上」のグループにいる人、「下」のグループにいる人が、どのような気持ちで中学高校時代を過ごしてきたかがつづられています。それを読むと「上」と勝手に思っている人たちの振る舞いが、いかに下品で愚かしいか、よくわかります。「下」と思っている人たちが学校生活を楽しむ権利さえ奪われている、とも書かれています。中学生にも分かりやすい文章なので、ぜひ読んでみてください。何より不愉快だったのは、教員の中にはスクールカーストを肯定し利用している人がいる、という記述です。

山梨英和では、この本のようにあからさまなスクールカーストは見えてきません。それでも、クラスの中でなんとなく疎外感を感じている人はきっといるでしょう。しかし、山梨英和の先生がスクールカーストを肯定し利用することはありません。なぜかというと、先生たちの先生がそれを許さないからです。先生たちの先生とは、イエスさまのことです。イエスさまご自身が、ユダヤ人社会から排除され、十字架につけられました。今日の聖書の個所で、「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった」とあるのはイエスさまのことだそうです。イエスさまは自分のことを「上」のグループだなどと思ってはおらず、社会の最底辺に身を置かれました。そのイエスさまが、スクールカーストのような上下関係をよしとされるはずがありません。だから当然、私たち山梨英和で働くものはイエスさまに従い、スクールカーストを認めることはありません。

でも、本当にスクールカーストをうち壊すためには、皆さんの力が必要です。もちろん、「自分たちは他の人たちより上だ」などと心の中でも思うのは愚かなことです。しかし何より、「下」だと思っている人がその考えから抜け出すことが大きな力になります。どこに「上」とか「下」をあらわす客観的な根拠があるでしょうか。そんなものさしは、フィクション、想像の産物です。たとえ誰かからばかにされたと思っても、イエスさまは私たちを絶対にばかにしたりしない。だから、「自分は下だから」などと、髪の毛一本ほども思ってはいけません。神さまが大切に思って下さる私たちが、他の人たちより劣るはずがありません。ばかにされて悔しい気持ち、恥ずかしい気持ちを、十字架のイエスさまは背負ってくださいます。だから、私たちは自信をもって顔をあげていましょう。

どうかあのマララさんのように、勇気を出してスクールカーストを否定して下さい。

第2回「おやじの会」開催のお知らせ (3月16日(土)17:30~ ベルクラシック)

 

お父様の名前、お子様の学年、クラス、お名前を明記の上
3月 5日(火)までに お申し込みください。

申込はコチラ

第25回 国際交流・国際理解のための小中学生による作文コンクール 最優秀賞受賞

第25回 国際交流・国際理解のための小中学生による作文コンクール (公益財団法人 小佐野記念財団主催)中学生の部で、中学2年の滝澤史さんが最優秀賞を受賞しました。滝澤さんは小佐野記念財団の設立25周年記念式典で表彰されました。海外研修とトロフィーを副賞としていただきました。おめでとうございます。

滝澤さんは、夏休み中にイギリスに短期留学した経験を作文にまとめました。イギリスで会った様々な国籍の友人の中でも、特にロシア人の友人から多くのことを学びました。”Now we are friends.”と言い合える友人を得て、今後は、ロシアと日本の間にある問題を解決し、友好関係を深めて理解し合えるような「大人」になりたいという夢を語りました。

山梨日日新聞 2013年2月3日付 掲載されました。

第20回ふれあい医療作文コンクールYBS賞受賞

第20回ふれあい医療作文コンクールYBS賞受賞

「ここにある奇跡」河野未菜希さん(高校2年)おめでとうございます!

2月9日山梨県立図書館で表彰式があり、賞状と盾をいただきました。医療体験を通して感じた家族との絆、かけがえのない医師との出会いと感謝を綴った作文が評価され、喜びの受賞となりました。今後の活躍も期待しています。おめでとうございます。

喜びの受賞 高2河野未菜希さん

  山梨日日新聞 2013年2月7日

聖歌隊の活躍が「頑張る中学生」に掲載されました

中学聖歌隊の活躍が「頑張る中学生」(山梨日日新聞2013.2.13付)に掲載されました。

定期演奏会にむけて、練習も頑張ります!

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第25回定期演奏会

日 時 : 2013年3月20日(水)14:00開演

場 所 : コラニー文化ホール大ホール

入場料 : 300円

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山梨日日新聞 2013年2月13日付

 

放送礼拝 野澤先生

放送礼拝 マタイによる福音書26章36節~46節

おはようございます。寒い日が続きますが確実に春は近づいてきていますね。来月の終わりには、教会ではイースター礼拝が予定されています。春分の後の最初の満月の日の次の日曜日、大変ややこしいですが、教会ではこの日をイエス様が復活された日、イースターとしてお祝いします。今年は3月31日に当たります。このイースターまでの46日間を、教会ではレント、または受難節とよんでいます。イースターから逆算すると今年は、2月13日からが受難節となりますので、今日はその受難節の期間に入っていることになりますね。受難節とは、イエス様が十字架の上で亡くなられるまでの恐れと苦悩の期間のことです。

時に人は、悪い事をしたわけでもないのに、「なんで、こんなことが起こるんだろう。」と思うような悲しい出来事や心に重たい出来事を経験することがあります。また、自分は経験していなくても、痛ましい事故や事件・災害や戦争の話を見聞きし、深く心を痛めることもあります。今こうして私の話を聞いてくださっている皆さんの中にも、このような中にいる方がいるかもしれません。しかし、この「なんで?」という疑問に対する明確な答えは、残念ながら、聖書を読んでも書かれていないように、私は思います。それより、聖書では、苦しみは避けられないものとされています。そのような苦しみは、理不尽であるとも言えます。

しかし、これは、私たち人間だけでなく、イエス様にも同様に訪れました。今日のこの聖書箇所には、この理不尽な苦しみに対する、イエス様の苦難の様子が描かれています。イエス様は近い将来、自分が捕らえられて殺されてしまうということを予感されていました。ここで、“イエス様は神様なんだから、十字架の死に対する恐怖などなかったのではないか”と捉える人もいるかもしれません。しかし、人間としてこの世においでになった以上、肉体だけでなく、人間ならだれもが持っている喜怒哀楽という感情も当たり前にもっておられました。イエス様の苦しみはどのようなものだったのか、それをどのように捉えたのか、そして、今の私たちとそれにどんな関係があるのか、少し皆さんと考えたいと思います。

引き渡される前、イエス様は一人ではありませんでした。それまでの伝道の全ての時間を、信頼する弟子たちとともに過ごし、神様の導きを 常に感じておられました。そして、来るべき苦難・死を予期し、そのことで心を痛め、苦しんでおられました。38節にあるように、“私と共に目を覚ましていなさい”と、信頼する弟子たちがそばにいて、心を一つにし、共に祈ってくれることを心から望んでおられたのです。しかし、弟子たちはそのようなイエス様の必死な気持ちに応えることができず、眠り込んでしまいました。36節以前にあるように弟子たちがイエス様と苦しみを共にしたい、と願っていた気持ちは本物でしょう。しかし、実際、イエス様の苦しみは 当事者であるイエス様だけのものであり、眠ってしまったという点からいっても、弟子たちにはどこか他人事だったと思われます。弟子たちのもとを離れ、イエス様はひとり、お祈りにいかれます。そして、また戻られ、睡魔に負け祈ってはくれない弟子たちの様子を目にされます。これを何度も 繰り返されるのです。イエス様の恐怖と孤独はどれほどだったでしょう。それは以下の言葉からも垣間見ることができます。

“できることなら、この杯をわたしから 過ぎ去らせて ください。しかし、御心のままに”

“私が飲まない限り この杯が 過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように”

“あなた達はまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。”

でも、なぜイエス様は この状況から 逃げなかったのでしょうか。死の恐怖に打ちのめされながらも それを受け入れ、抵抗しなかったのは、なぜでしょうか。それは、神様のひとり子であるイエス様が復活されることに全ての救いがあり、それを当時の人々に、そして未来の私たちに示すためです。生涯をかけて、貧しい者 弱い者 傷ついた者 苦悩の中にある者の友として、それらの人々に 寄り添い続け、癒し続けた神様のひとり子であるイエス様が復活されることで、それらの神様の愛は消えないということを示すためだと、わたしは思います。死ぬことは怖い、でも、そうすることで、その後にある復活という天のお父様の御計画がなされるのだ、という確信がイエス様の中にあったからこそ、この試練を乗り越えたのではないでしょうか。

私たちは苦難に直面する時、多かれ少なかれ、誰かに頼りたい何とかならないかと願います。誰かのアドバイスも欲しいし、具体的な助けも受けたい。でも、本来、苦しみとは、苦しみを受ける その人にしか担えないのだと思います。そばにいる人たちが どれほど心配しても、苦しんでいるその人のことを 本当の意味で理解することは できません。でも、神様だけは、そんな私たちの苦しみを知り、その思いに寄り添って下さいます。励まして下さるのです。それを示すために、イエス様の十字架の死と、復活があるのです。苦難や試練に立ち向かうとき、または、プレッシャーの中で頑張らなくてはいけないとき、私たちは決してひとりではありません。この受難節の機会に、イエス様の十字架の死と復活を改めて考え、自分にはそういう存在がいるのだ、ということを 心に刻みましょう。お祈りします。