生徒,礼拝のひとコマ

11月2013

放送礼拝 聖歌隊 

フィリピの信徒への手紙 4章4節~6節 聖歌隊

 

皆さんにとって音楽とはどんな存在ですか。つらいとき、苦しいとき、普段何気なく聞いていた音楽に励まされたことはありませんか。音楽は古くから人々の生活に寄り添い続けてきました。礼拝や儀式にも用いられ、踊りなども交えながら、生活を構成する一つの重要な要素として存在してきたのです。そんな、人々の暮らしに彩りを添える音楽は、時として聴く人の心を震わせるほどの力を持ちます。演奏者の息遣い、表情と共に、音楽に込められた強い想いが、「感動」という形で聴いている人々に染み渡っていくのです。

私は、聖歌隊として活動していく中で、合唱という手段で音楽に携わってきました。歌は、自分自身の体そのものが楽器となるため、聴いている人々に伝えたい想いを最も表現しやすい音楽の一つです。しかしその反面、その時の自分の緊張や不安といった自信のなさが、そのまま声に表れてしまう怖さもあります。舞台上で常に最高のパフォーマンスをするためにも、そんな不安を振り切り、自分が本当に求めている音楽を素直に神様に打ち明けることが大切なのではないでしょうか。

皆さんも、街の教会で行われる礼拝に参加したことがあると思います。礼拝参加者の方々が歌う賛美歌は、例え同じ曲であっても学校で私達が歌う賛美歌とは少し違うように聞こえませんか?それは、神様への賛美の想いの大きさの違いが歌にも表れているということではないのでしょうか。ただひたむきに神様を見つめて歌うということが、私達にもできているでしょうか。先日の修養会での高浪先生のお言葉の中にもありましたが、自分の歌声に自信が持てなくても、「下手だから」と尻込みすることなく神様への賛美の気持ちを持って歌えば、神様もそれに答えてくださると思います。そうして、私は何度も音楽を通じて自分の心と向き合い、その度に自分を見つめ直してきました。

私は幼い頃から、自分を素直に表現することが苦手でした。胸を張って「得意だ」と言えるものが一つもなく、また得意なものを作ろう、磨こうという強い意志も持てない意志の弱い人間でした。しかし一つだけ、どうしても好きなものがありました。それが「音楽」でした。どんな形でもいいから音楽に触れていたい、そんな思いで聖歌隊への入部を決意したのです。しかし、当然のように自分の声を使って想いを表現するという事は、意志の弱い私にとって簡単なことではありません。合唱は、自分にとって最も向いていない音楽なのではないか、そう考えたことも少なくはありませんでした。

しかしそんな私を変えてくれた合唱があります。平成21年度NHK全国学校音楽コンクール全国大会での、福島県立安積黎明高校の演奏です。何の気無しにウェブサイトで初めてその演奏を聴いたとき、私は生まれて初めて心から「歌いたい」という衝動に駆られました。音楽に「喜び」を感じ、演奏を聴いているだけで一人一人が朗らかに歌い上げている様子が目の裏に浮かび、「本当に歌が楽しいんだ」という想いが画面越しでも伝わってきました。私はその瞬間から、合唱の虜になっていました。私もこんな合唱がしたい、想いを歌にのせて、歌う喜びを友達と分かち合いたいと思うようになりました。そうして気づけば、合唱は私にとってなくてはならない存在となっていました。

私は決して綺麗な声で歌えるわけではありませんし、大きな声で引っ張っていくことが出来るわけでもありません。ただ、合唱への想いの強さだけは自信をもっています。舞台に立ち、大好きな合唱をしながら音楽を味わっている間だけは、自分の心に素直になることができます。そして仲間の存在を感じながら共に呼吸を合わせて歌える喜びは、何物にも代えられません。

どんなに技量があったとしても、合唱は一人だけではできません。信頼できる仲間や顧問の先生方がいるからこそ、安心して自分という存在を音楽に溶け込ませることが出来るのだと思います。音楽に真剣に向き合い、そして全力で楽しむことのできる仲間達と共に、音楽の流れの中に身を委ねている瞬間が、私にとって一番大切な時間です。

本番直前に全員で行うお祈りへ込める想いも、日々強くなってきていることを実感しています。舞台に立てる喜びを噛みしめつつ、裏で私達を支えて応援してくださる方々への感謝を忘れずに、これからも歌い続けていきたいです。そして、少しでも多くの方々と喜びを共有できるような演奏ができるように、努力し続けたいと思います。

YWCAひまわり部 放送礼拝

エフェソの信徒への手紙5章8節

 

私は今年8月に横浜で行われた、関東地区YWCAの合同合宿に参加しました。7つのキリスト教主義の学校が集まり、子どもの人権をテーマに学び、考えを深めました。

最も印象的だったのは澤田美喜さんについての学びです。美喜さんはアメリカ兵と日本人女性の間に生まれ、戦後日本に遺された約2,000人の子どもたちを救済しました。美喜さんは三菱財閥創始者の孫で、私財を投げ打って、子どもたちの居場所となる、エリザベス・サンダース・ホームを創設・経営をしました。子どもたちはエリザベス・サンダース・ホームの前にある長いトンネルが印象的だったと言います。このトンネルに入る前には、激しい差別や酷い侮辱を受け、トンネルを抜けた先は、まるで楽園のようだったと口を揃えて言います。

私は美喜さんの強い意志と最後まで貫き通す実行力に感銘を受けました。それと同時に、何故同じ血が流れていないだけでそんなにも差別を受けなければならないのかと思いました。神様は私たちを皆平等に扱ってくださいます。また、神様は「あなたのままでいいんだよ。」と私たちを世に送り出してくださいました。差別をし、自分だけ、あるいは自分たちだけ優位に立とうとしているのは人間です。違いがあったら、その違いを認めることが大切なのだと思います。その違いがその人への神様からのギフト―すなわち賜物なのかもしれません。その賜物を自覚し、それを世のため、他人のために発揮することが光の子となれるのではないでしょうか。人は弱さのゆえに強くなることができます。その弱さを自覚しつつ、これから更に愛を持って人に接していきたいと思います。

 

お祈りします。神様、今日も美しい朝をありがとうございます。今週の木曜日には修養会があります。皆にとって、自分と向き合い、あなたと向き合い、実りの多い時間としてください。この小さき祈りを主イエスキリストの御名によって御前にお捧げします。アーメン。

放送礼拝 スポーツデー実行委員会

フィリピの信徒への手紙3章13~14節

 

この箇所は競技する人の姿を用いてその走り方を自分にあてはめて、今、どのように走っているのかを明らかにしています。

皆さんはテレビや生で駅伝やマラソンなどの選手がどのような姿で走っているかを目にする機会があるでしょう。走っている選手達を見ていると後ろを振り向いている人は少ないでしょう。そして後ろを気にしていればなかなか前へ進むことができません。

私たちが後ろのことが気になるというのは、過去を振り返るということです。昔はこうだったとか、昔の方が良かったなど過去に対して目を向けてしまいがちです。皆さんには良かった過去や思い出したくない過去がたくさんあるでしょう。思い出したくない過去ではどうしてこんなことをしてしまったのかと自分を責めてしまいます。

私もたくさんの後悔をしてきました。もっとこうすれば周りのみんなにうまく伝えることができたのではないのかとか、進路のことで悩んでいる時ももっとしっかり勉強しておけば将来への道が大きく開けたのではないかと思ったこともあります。しかし、イエス・キリストがこれらの罪をゆるして下さっていると思うとそのことを忘れてはいけないと思いました。そしてその過去にはピリオドが打たれているから、過去には縛られず前のものに全身を傾けなければいけないと思いました。

ゴールのない競技はありません。私たちが今、歩んでいる道には、必ずたどり着く目標があります。だから、あせらずひたすら歩み続ければゴールにたどり着けると信じ、残りの高校生生活1年半を過ごしていきたいと思いました。

 

お祈りします。

神様今日も放送を通して皆と共に礼拝を守れたことに感謝します。

皆がこれから先たくさんの困難にあっても諦めずに目標に向かって突き進むことが

できるようにお見守り下さい。

この祈りを主・イエス・キリストの御名によっておささげします。アーメン。

放送礼拝 宗教委員会

コヘレトの言葉12章1節 宗教委員会

 

英和の生徒の朝は礼拝で始まります。今日も例にもれずそうです。毎日、話をする人や場所は変わっても礼拝は必ずあります。それだけ英和では礼拝、神様に祈るこの時間を大切にしているのです。

ですがもしかしたら、もはや当たり前のこととなっていて特に何も考えずに礼拝を守っている人や、面倒だと思っている人もいるのではないでしょうか。私も正直テスト当日の朝などはそわそわしてしまい時計を気にしてしまうなんていう事があります。どのお話も時間をかけて準備しているのでしっかりと向き合えば多くのことを考えさせられるものですが、毎日の習慣となっていれば自然と礼拝の時間を大切にしようという気持ちは薄れ、しかも勉強に力を入れなければならない中高生であればこっそりテスト勉強をする時間などになってしまうかもしれません。

はじめに、毎日礼拝をするくらい英和は礼拝の時間を大切にしているといいましたが、以前私はなぜ毎朝礼拝があるのか疑問に思っていました。キリスト教の学校だから、と答えを出すのは簡単ですが、中学合同や高校合同といった形で週に一度は全体での礼拝があるし、毎日じゃなくてもいいのではないかと思ったのです。そして、クリスチャンの先生や牧師の先生のお話ならともかく、英和に入るまでキリスト教に関わりのなかった生徒が礼拝を担当するのはどうなんだろう、と考えたこともありました。
ですが、今は単なる日常の一コマである礼拝のひとときは、英和を卒業すれば途端に当たり前ではなくなります。大学に入っても、毎週教会へ通うようになったとしても、毎朝神様に祈り心を落ち着ける時間はこれから先ありません。高校生活も残すところ約一年半となった今、そのことをよく考えます。友達が用意したお話を聞けるのも英和に通っている今だけなのだと思うととても貴重な時間であると気付きました。そして先生方とはまた違う、自分と同じ目線で語られる聖書の御言葉はより身近に感じられ、自分も今までよりクラス礼拝の原稿などを丁寧に仕上げるようになりました。

聖書を初めて手に取った時のことを思い出してみてください。私は幼稚園でもらった新約聖書しか知らなかったのでその分厚さに随分驚き、これからこれを読んでいくのかとわくわくしたのを覚えています。同時に、6年間の中でどれだけ読む事が出来るのかとも思いました。でも今は、その分厚い聖書の中に知っている箇所がいくつもあり、毎朝聖書をめくってきたのだとしみじみさせられます。
今、皆さんは色々な事に力を注ぎ、また立ち向かっていると思います。私も中学生の時から続けてきた茶道同好会や、新たに任された宗教委員長という役目を、戸惑う事もありながら一生懸命頑張っている最中です。そしてそれらは中高時代の思い出を素晴らしく飾ってくれるだろうと思いますが、皆さんの思い出の中にも仲間と一緒に守った礼拝の時間が入っている事を願います。
今日読んだ箇所に“青春の日々にこそ、お前の創造主に心をとめよ”とあります。神様の存在を強く感じられるのは毎朝の礼拝の時間ではないでしょうか。人格の形成期である中高時代という大切な日々に与えられたこの時間を、神様と自分の心を繋げるために使っていきましょう。

お祈りします。神様、今日は放送を通し中高の生徒みんなで礼拝を守れた事に感謝します。11月はキリスト教強調月間です。音楽礼拝や講演を聞く機会などが増えると思いますが、その中で皆がいつも以上に心を開いて神様に向き合う事が出来ます様に。
この祈りを尊き主、イエス・キリストの御名によって御前にお捧げ致します。アーメン。