生徒,礼拝のひとコマ

2月2016

放送礼拝 バドミントン部

みなさんは「三本の矢」という話を知っていますか。この話は戦国大名の毛利元就が三人の子供たちに「矢一本なら一人の力で折ることができるが、三本となった時はなかなか折れない。このように三人が力を合わせなければいけない。」と息子たちに教えた有名な話です。

私はこの「三本の矢」の話のような体験を新人戦でしました。先輩方が引退し、11月半ば頃、新チームでの大きな大会に緊張と不安を抱きながら臨みました。一回戦では、緊張のあまり体が動かず、納得のいくプレーが出来ませんでしたが、仲間の励ましや、声援を聞いて諦めそうになっていた気持ちを押し切り、強気でプレーすることが出来ました。1戦目で良いスタートが切れたので最初に抱いていた不安が少し軽くなりました。しかし二回戦目の相手は強豪校でした。その試合は私の中で後悔しか残らなかった試合となりました。試合に出る前から、負けてしまうとばかり思い込んで、実際コートに立ってもその思いに負けてしまい、自分のプレーが出来ずに終わってしまいました。部長としてチームを引っ張らなくてはいけない立場でしたが、諦めの気持ちでコートに立ってしまいました。応援してくれている人、今まで支えてきてくれた人々の気持ちを無駄にしてしまい、情けなさが溢れました。バドミントンは、バスケやサッカーのように団体競技ではなく、個人競技だと思っていました。しかし、実際はコートに一人で立っているわけではありません。先輩や後輩、指導してくれた先生の気持ちをもってコートに立つべきでした。私には、喜び悲しみを分かち合える仲間たちがいます。声をかけてくれたことで、一人で立ち向かっているのではなく、支えてくれる仲間と一緒に戦っているのだと改めて感じました。同じ苦労を知っている人だからこそわかることがあり、その困難に一人で立ち向かって感じる苦しみを二人、三人で立ち向かって受ける苦しみだと全く重さが違います。ライバルでもあり仲間でもあるから、支え合う関係性は自然と強くなっていくと思います。

「ひとりよりもふたりがいい。友に労苦すればその報いはよい。倒れれば、一人が友を助け起こす」今日読んだこの聖書の箇所は、部活だけでなく学校生活の中でも言えることだと思います。例えば、勉強や掃除も一人でするよりも、一緒にやってくれる友達がいるからやる気になれます。私は、誰かが困っている時、悩みを抱えている時、その人の肩を取り助け起こすことができる人になりたいです。まずは隣人である誰かが倒れてしまった時に助け起こしてあげることで、そこからどんどんその輪が広がって誰にでも対して助け起こすことができるようになると思います。これから迎える最後の大会、総体では新人戦で感じたような悔いを残さず、選手として代表として臨みたいです。残り数えられるほど少ない日々ですが、戦っているのは自分だけではなく、周りも同じということを胸に、日々の感謝を忘れずに生活したいです。

お祈りします。

神様、今朝も放送を通して礼拝を守ることに感謝します。私たちに互いに助け合う友だち、隣人をお与えくださってありがとうございます。皆がこの関係という宝を大切にし、苦しいこと楽しいことを分け合いながら、さらに喜びを豊かにできますように。この祈りを尊き主、イエスキリストのみ名によって御前にお捧げいたします。アーメン

放送礼拝 情報委員会

情報委員会

 新約聖書ヨハネによる福音書20章24~29節 

 皆さんは、目に見えないものを信じることができますか? ひとまとめに目に見えないものと言っても様々なものがあります。神様もその対象の1つでしょう。神様の他にも幽霊にサンタクロース、妖精など小さな頃は目に見えないものを今以上に信じていた人は多いのではないでしょうか。しかし、人は大人に近づくにつれて、目に見えないものや現実にはあり得ないことを信じなくなる人が増えていきます。 

 皆さんの多くの人がスマートフォンなどでLINEやTwitterなどの通信アプリを利用していると思います。自分の投稿にいいねやスタンプが押されることは誰しも嬉しく感じると思います。また、そういった通信アプリには直接会話するよりも気軽で簡単にものを伝えられるという利点もありますし、友達の輪を大きな規模に広げることもできます。

 しかし、そういった利点の中にある欠点を皆さんは考えたことがありますか? 会ったことのない友達がいる人もいる人もいるかもしれません。また、確証のないチェーンメールやツイートを回したことがある人も中にはいるかと思います。

 では、なぜ人はそういったネット上の目に見えない情報は簡単に信じられるのに、現実世界の目に見えない存在は信じられないのでしょう。私はネットを信じることを出来る人が神様を信じられないことはないと思います。違った例で言ってみれば趣味に熱中したりネットに依存してしまうくらいの集中力のある人が、学校生活をはじめとする普段の生活に集中出来ないわけがないと思うのです。

 神様は努力したのを見ているはずです。例え、目に見えなくとも皆さんがしている良いことはいつかきっと報われるはずです。皆さんの周りにはネットの中以上に素晴らしいことがあるはずです。最初は半信半疑でも、少し顔を上げて周りに目を向けて見ませんか? きっと神様の存在に友達や先生、もしかしたら神様自身が気づかせてくれるかもしれません。

放送礼拝 中学生徒会

ペトロの手紙一 4章10節~11節 中学生徒会

 

「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵の善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが世々限りなく神にありますように、アーメン」

みなさんは自分の賜物が何だと思いますか。私は神様が私たちに与えて下さったそれぞれの個性だと思います。私たちは顔も違えば正確も違い、背の高さも考え方も違います。そして私たちは誰しも、「あの人のようになりたい」と思い、自分は誰かより劣っていると感じていると思います。しかし、私は誰も劣っている人などいないと思います。背が小さかったり、なりたい人のようになれなくてもそれはそれぞれの個性であり、神様が与えて下さった賜物だと思います。

また私たちは性格も考え方も違います。だからケンカや争いごとになってしまうのだと思います。性格や考え方が違って気が合わなくて相手のことを悪く言ってしまうことは決して良いことではないと思います。性格や考え方が違って気が合わなくて相手のことを悪く言ってしまうことは決して良いことではないと思います。それは神様の与えてくださった賜物を悪く言っているのと同じだと思います。だからこそ相手のことを悪く言ってはいけないのだと思いました。たとえ相手に嫌なところがあっても自分の怒りを相手にぶつけてはいけません。相手を大切に想うことが大事なことだと思います。それは隣人を愛するということにもつながると思います。

今日の聖書の箇所にも書いてあるように、授かった賜物を生かし、社会のために、一人の人間として、周囲の人たちの賜物である個性も大切にし、日々を過ごしていきたいです。

 

お祈りをします。神様、今日も一日を礼拝から始められることに感謝いたします。私たちがこれからも神様が与えて下さった賜物を大切にし、隣人を愛しながら生活していけるようお導き下さい。また、寒い日が続きますが、皆が健康に学校に集えますようお支え下さい。

このお祈りを尊き主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。