生徒,礼拝のひとコマ

11月2016

中学合同礼拝 中学3年生

マタイによる福音書25章23節

皆さんは、19人の障害者が殺害されたあの事件を、覚えていますか?記憶に新しい、この残酷な事件の犯人はこのように述べています。「重度の障害者は生きていてもしかたがない。」「事件を起こしたのは不幸を減らすため。」 このような差別的な考えを、優生思想といいます。「優良」の「優」に「生きる」で優生思想。日本にも、「不良な子の出生を防ぐ」という法律がありました。この思想はもちろん間違っています。

しかし、私たちの心の奥底には確かにこの考えが残っているのです。障害者だからという差別にとどまらず、日本には様々な差別が存在します。生まれた地域によって差別する部落差別や、ヘイトスピーチなどによる、在日韓国人への差別。たくさんあります。それは今も昔も、残念ながら変わりません。しかし、この差別に臆することなく、自分の意思によって動いた人々もいます。

私たち中学3年生は、浅川巧とポール・ラッシュについて何度も事前学習を重ねて、リトリートをむかえました。この2人は時代の波に流されることなく、自分の目で見ることを大切にしたクリスチャンです。浅川巧は、韓国の山と民芸を愛し、韓国人を愛し、韓国人から愛された人でした。 韓国への風当たりが強くなった時、巧だけは韓国をまっすぐに見つめ、その姿を愛しました。

ポール・ラッシュは、今の清里の基盤をつくり、戦後の清里に希望を与えました。ポール・ラッシュ記念館を訪れた際、彼の寝室に入らせていただきました。そのベッドのそばには千羽鶴が、窓からは富士山が美しく見えました。彼もまた、戦勝国として威張ることもなく、日本の清里という土地に、まっすぐに向き合ってくれました。

私たちは歴史、それも戦争の前後の時代には暗いイメージを持っているのではないでしょうか。しかしこの2人のように、負だけでなく、一緒に生きようとしてくれた人たちがいました。後悔だけでない感情が確かにあったのです。それを生み出したのは、自分の意見を持つ勇気やまっすぐに見る正義、何よりも、誰かを大切に思う隣人愛だったのではないでしょうか。人生の中にたくさんある選択も、神様が導いてくださいます。

今日の聖書の箇所は、私たち中学3年生の学年聖句です。「少しのもの」とは、「自分の持つ賜物」のことです。少しと書かれていますが、実際にはたくさんあると思います。それは強く生き抜く力かもしれません。あるいは優しさや励ます力、自分の意思を信じる力かもしれません。それらを生かすとはどういうことなのか、神様に問いかけてみましょう。神様は必ず答えてくださいます。そしてその答えは、私たちが平和をつくりだす人になるためのカギとなるでしょう。

最後にこの言葉で終わりにさせてもらいます。 “DO YOUR BEST, AND IT MUST BE FIRST CLASS IN GOD.” 「神様の名において最善を尽くし、一流でありなさい。」

お祈り
神様、今日も礼拝を皆と共に捧げられたことに感謝します。今日はリトリートで学んだことについてお話しさせていただきました。私たち一人一人が自分の賜物に気づき、それを生かすことができますように。こうしてお話しさせていただけたことに感謝します。この祈りを尊き主、イエス・ キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。

点火式奨励

クリスマスツリー点火式

皆さんはクリスマスと聞いて何を思い浮かべますか? サンタクロースやクリスマスツリー、プレゼントでしょうか。英和生である私たちの中にはイエス様のお誕生を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。

 私は毎年クリスマスの時期になると英和幼稚園でのページェントで憧れの天使の役を演じたことを思い浮かべます。ページェントはイエス様のお誕生のお話です。 天使がマリアにイエス様を身ごもったことを伝えます。マリアとヨセフは住民登録のためにベツレヘムへ向かっていました。マリアは月が満ち、二人は宿屋を探しますがどこも部屋がいっぱいで断られてしまいます。宿屋が馬小屋なら空いているということで二人は馬小屋に泊まり、イエス様はそこでお生まれになりました。天使は羊飼いと三人の博士にイエス様のお誕生を知らせ、それぞれダヴィデの星を目あてにベツレヘムへ向かいます。ベツレヘムへ着いた羊飼いと三人の博士そしてマリアとヨセフ、馬小屋にいた動物たち、みんなでイエス様の誕生をお祝いします。

このようにしてイエス様はお生まれになりました。それは、私たちすべての人間の罪をゆるすためでした。イエス様は私たちのために命を捨ててくださるためにクリスマスにお生まれになりました。

 クリスマスはイエス様のお誕生の日です。クリスマスの4週間前からはアドヴェントというイエス様のお誕生を迎える期間が始まります。今年は、11月27日からアドヴェントが始まります。皆さんで、心穏やかにクリスマス、イエス様のお誕生を迎えましょう。

放送礼拝 聖歌隊

ローマの信徒への手紙5章3~4節

なぜ私には、こんなに苦しい事ばかりが起こるのだろう。頑張り続けることに意味はあるのかと、思ったことはありませんか。

どうして聖歌隊を続けているのか、と私が問われるとその答えは単純に楽しいから、というのが一年前でした。私は聖歌隊の隊長をさせていただいています。隊長に任命されたとき、私はとても張り切りました。聖歌隊をこんな風にしようという理想の形がありました。その実現のためにも、とにかく私が頑張ろうと決心していました。しかし、実際は理想ほど上手かないこともたくさんありました。

その中でも最大の苦悩は、今年の夏の終わり頃に訪れました。この期間はおよそ一週間ほどでしたが、私が英和で学校生活を送るなかで、もっとも辛い一週間と言っても過言ではありません。その苦悩は、今まで表面化しなかった問題を、改めて考え直さなければならないというものでした。部員同士はなんとなくぎすぎすしていて、私は部活のことを考えると何も手につかないくらいに悩んでいました。思いつく限りのことはしたつもりでしたが、状況は一向に改善しませんでした。

毎日辛すぎて部活に行きたくありませんでしたが、投げ出すのは卑怯だという思いから部活に参加し続けました。ここで私が感じたのが、一番最初の質問でした。どんなに頑張っても上手くいかないのに、頑張ることに意味はあるのか。私は、神様が私のことを見てくれていないと感じ、聖書の話を聞くことも苦痛に感じました。また、私は先輩たちにこの部活を任された身なのに、責任を果たせていないのではないかという申し訳なさにもかられました。全て他人のせいにしたいような気持ちと、結局隊長である私が責任を負うべきであるという現実の間で、葛藤が続いていました。

しかし、そんな時、仲間たちが私を、間違っていたのだと気付かせてくれました。今まで言えなかったことを互いに言い合い、様々なことに気がつきました。そして、その機会を作ってくれたのは部員達でした。私の間違いは周りを見ていなかったということです。私は隊長に任命されてから、自分が頑張れば上手くいくと思っていました。周りを頼らずにいました。また、個人の感じ方を考えていなかったのも私の間違いです。私が胸を張って頑張っていると言えることは、見方を変えれば決してそうとも言えないということです。逆に、仲間達なりの頑張りに気が付かなかったことも私の間違いだと思いました。

私は仲間たちが気付かせてくれた日以来、仲間を頼るようになりました。私はもとからなんでも自分でやりたい性格で、感情的になりやすいので、私の頑張りが空回っていることは恐らく未だに多くあると思います。しかし、私が部員全員を信じているということは確かです。

そして、今月の3日6日に臨んだ芸術文化祭では、充実した練習を経て、ステージに立つことができました。部員は頼り甲斐を増していて、互いにフォローしあいながら、満足のいく演奏ができました。私は、部員全員が全力を出し切れたということ、その仲間達と音楽が作れるということを、本当に嬉しく感じていました。あの時の苦難が、神様の計画によるものだったのかもしれないと思いました。

私には、これからもたくさんの苦悩があると思います。しかし、苦難はそれ以上の大切なものを生み出してくれると信じています。聖歌隊で言えば、仲間たちと作る音楽や、先輩方や後輩、同学年の仲間、先生方やお客さん達との出会いなどです。ここに、今、私が聖歌隊を続けている理由があります。大切な仲間達と、大切なものを得るためにこれからも頑張り続けたいと思います。