生徒,礼拝のひとコマ

3月2018

放送礼拝 中学宗教委員会

詩編5編9節

私たちは生きていく中で、何が正しいのか、間違いなのかわからなくなることが多々あります。それを自分だけで解決できることもあれば、できない時もあると思います。瞬時に判断しなければならない時に周囲の人に聞いている時間はありません。何が正しいことか、どうやったら全部自分だけでわかるようになるのでしょう。誰かいつもそばにいて導いてくれるような人が必要かもしれません。

私は先日用事があり、祖母の家にタクシーを使って行きました。祖母の家への道は悪い道ばかりなので母が運転したがらなかったためです。その時に、行きのタクシーの運転手さんは道が悪いのにも関わらず、かなりの勢いで荒っぽく運転しました。乗っていた私は荒っぽい運転が好きではないのでひやひやしながら乗っていました。祖母の家で用事を終えた後の、帰りのタクシーの運転手さんは行きとは違う方でした。そして、運転はまるで対照的でした。悪い道相応の運転、注意深く運転してくれて行きのようにひやひやすることもなく、家に着くことができました。

その出来事を通して、私は、運転の仕方で後ろに乗っている人の気持ちがこんなに変わるものなのか、と初めて感じました。タクシーの運転手さんの出来事と何が正しいのかの判断する話は直接結びつきませんが、導いてくれる存在、それを表しているのはとても共通したところがあると思います。導いてくれる存在が、行きの荒っぽい運転運転手さんのような存在か、帰りの運転手さんのような注意深く運転してくれるような存在か、です。二人は対照的です。どちらを選びますか。もしかしたら、どちらも選ばない選択かもしれません。その場合、タクシーの運転手さんの出来事に例えると徒歩で行くことになります。自分の足だけで道を全て歩かなければならないのです。

私だったら、帰りの運転手さんのような注意深く運転してくれるように導いてくれる存在を選びます。 聖書をみてください。「あなたの義によって私を導いてください」(新改訳)とあります。注意深く導いてくれる存在を選んだら、その人たちは皆、主に導かれるということです。しかし、最初に話したように何が正しいのか、自分だけでは分からなくて誰かに聞いてみたいけれどそれが可能な状況ではない時に、神様に聞いてみても何も教えてくれずに、迷ってしまうことがあるかもしれません。神様が導いてくれているはずなのに、教えてくれないなんて神様ってただの意地悪じゃん、と思うかもしれません。しかし、視点を変えてみると、神様が何も教えてくれないわけではなくて、私たちが神様の導きが聞こえるところにいないだけ、ということなのかもしれません。神様の言葉が綴られた聖書があるように、神様は私達を導きたいと思っています。

もしも私たちが神様の導きを求めて、神様の言葉に耳を傾けたなら、神様は正しい判断で私たちを導いてくれると思います。

神様、新しい朝をありがとうございます。放送を通して皆とともに礼拝を守れることに感謝します。私たちが正しく導いてくれる存在を選び、その方の導きが聞こえる場所にいることができますように。今日から三日間後期三のテストが始まりますが、それまでに勉強した成果が現れますように、あなたが導いてください。このお祈りを尊き主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン

放送礼拝 中学生徒会

中学生徒会
マタイによる福音書6章1節~2節

先日、私の父がある小説のお話をしてくれました。こんなお話です。懐中時計が箪笥の向こう側へ落ちて一人でチクタクと動いておりました。ネズミが見つけて笑いました。「馬鹿だなあ。誰も見る者はいないのに、何だって動いているんだえ。」「人の見ない時でも動いているから、いつ見られても役に立つのさ」と懐中時計は答えました。「人の見ない時だけか、又は人が見ている時だけに働いているものはどちらも泥棒だよ。」ネズミは恥ずかしくなってコソコソと逃げて行きました。

これは、夢野久作さんの『懐中時計』という小説です。箪笥に入れられ、人が使っていなくてもずっと動いている懐中時計に対し、ネズミは「誰も見ていないのに、何一人で頑張ってるの?」と嘲笑います。誰かが見ているところで頑張れば他人から評価をもらえるのに、誰も見ていないところで頑張っても評価はもらえないから、意味が無いじゃないか。

ネズミはそう言いました。しかし懐中時計は「人が見ていない時でも動いているから、いつでも役に立てるんだ。」そして「人が見ていない時だけか、人が見ている時だけ働くのは泥棒だ」と言いました。時計は、人が見ていない時もチクタクと動いていなければ、時間がずれてしまいます。また、人が見ている時だけ動いていても、同じように時間がずれてしまいます。そのような時計は使い物にはなりません。この小説では「人が見ていても、見ていなくても、人のために良いことや努力をしなさい」ということを伝えたかったのではないのか、と私は思いました。

このお話の中の懐中時計は、私が生徒会長として活動するうえで、手本とするべき姿だと思います。私が生徒会長に立候補したのは、生徒の笑顔をつくりたいと思ったからです。生徒の笑顔をつくり、過ごしやすい学校をつくることも、私たち生徒会役員の大事な仕事だと思っています。そのために中学生徒会では、これまでの伝統を守りつつ、新しいことにチャレンジした取り組みを行ってきました。しかし、これまで通りでいることも、新しい何かにチャレンジすることも、とても難しく努力のいることだと思います。今日の『懐中時計』のお話のように、人が見ていても、見ていなくても、生徒会長として努力していきたいと思います。

神様、今日も新しい朝をありがとうございます。放送を通してですが、皆と共に礼拝を守れたことに感謝いたします。今日お話しした懐中時計のように私たちが、人が見ていても見ていなくても、人に尽くすことのできる人になれますようお導きください。また、定期試験が近づいていますので、皆の健康をお守りください。このお祈りを尊き主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。 アーメン。