教師,礼拝のひとコマ

4月2018

放送礼拝 伊藤先生

聖   書:マタイによる福音書5章43~44節(p. 8)          
 
新学期が始まってから10日たちましたが、新しい環境はどうですか?中1、高1の生徒の皆さんは、新しい校舎、新しい先生。新しいクラスメートに出会い、色々なことを試行錯誤しながら落ち着かない生活を送っているのではありませんか?期待や不安でいっぱいのことと思います。私も中学1年生の時、クラスの中で誰も知っている人がいなかったので友達ができるかなとドキドキしたことを覚えています。
さて今日はマーティン=ルーサー=キング牧師のお話をします。1968年4月4日にキング牧師がなくなって50年がたつというニュースを聞いたからです。キング牧師は黒人奴隷制度が廃止されて約70年後に生まれました。アメリカの黒人であるキング牧師は23歳で牧師になり13年間、非暴力で黒人の権利を勝ち取る運動を指導し、ノーベル平和賞を受賞し、39歳で暗殺され亡くなりました。“I HAVE A DREAM”のスピーチは世界中で有名になりました。「私には夢がある。それは、いつの日か、かつての奴隷の息子と、奴隷所有者の息子が、兄弟として同じテーブルにつくことだ。」といった内容です。
そのキング牧師が銃で撃たれて亡くなってから50年たった今、人々はもう一度この運動の意味を問い直そうとしています。キング牧師はこの活動を単なる社会運動ではなくイエス様の言葉に従って運動をしたので、黒人も白人もお互いに人間の尊厳を学ぶものとなりました。
キング牧師はイエス様の言葉を自分の生き方を変える道しるべにしていきました。私たちには悪い癖や欠点があります。自分と異なる考え方、身体の形、皮膚の色,生活習慣で他人と自分を比較し時には差別したりさげすんで優越感を持ったり、また逆に劣等感を持ったりします。
現在アメリカでは、白人至上主義と呼ばれるグループが再び勢力を増してきていて、反対派のグループの人たちとの衝突のなか亡くなった人が出た時に、トランプ大統領が喧嘩両成敗という立場に立ったために人種差別の傾向が強まってしまいました。また、ヒスパニック(ラテンアメリカ)の人たちに対する国外退去を表明していて、少し前のオバマ前大統領の融和的平和的なムードが一変してきています。
こういった人間の持つ考え方は2000年前のイエス様の時代も同じでした。権力を持つ人、奴隷として仕える人、女性・子ども・人種の差別、職業的な差別、病気の人への差別や偏見、神様がご覧になったら、何と思われるでしょうか。なんて人間は悲しい考え方をするのでしょうか。また、個人的な利益からまたは国のレベルでの損得から憎しみや戦争が生まれ、現在でもどこかで戦争の火種がくすぶっています。
さて、黒人達は奴隷制が廃止された後、白人とあらゆる所で隔離されました。具体的に言うとバスや学校や図書館、トイレ、レストラン、住む場所等で白人と区別され忌み嫌われていたのです。そしてキング牧師たちが行った公民権運動は、白人からの激しい抵抗を受けました。逮捕されたり、暴行され殺されたり、指導者たちの家が爆破されたりしました。その中でも、権利を要求してバスのボイコットをしたり、行進したり、座り込み運動をしたりしました。子ども達も小学生から高校生までが行進をしましたが、警察は警察犬と高圧ホースによる放水で攻撃したりしました。テレビで全世界に報道され、私も見た記憶があります。
そのようにして、10数年間も闘って自由で平等な生活や選挙の権利を勝ち取っていくわけです。どれほどの苦しみ、犠牲があり、血が流れたかということを思う時、最近の風潮を無視することはできません。歴史は繰り返されるなどといとも簡単に言うことはできません。
憎悪と敵対心がむき出しになり、暴力的な形で爆発した時代のさなかで、キング牧師はこう言っています。「私は、非暴力がこの国の正義を求める闘いで、もっとも有効な武器であると信じています。」
また、「人間の気高さを信じるならば、私たちは他人を抑圧したり搾取したり殺したりできないのです。」キング牧師にとっては、イエス様が教えられた愛が人間が抱える問題に対する究極の答えだったのです。

イエス様が差別や偏見の問題にどう対処なさったのかは、新約聖書の福音書を読んでいくと良く分かります。いつ読んでも目から鱗のように新しい発見があります。
今日の世界で、黒人や少数民族に対する嫌がらせ犯罪、また、私たちの身近においても、差別やいじめはますます増加する傾向にあります。こんな時、キング牧師が願ったような兄弟愛にあふれた社会を実現することの大切さを思います。私たちは、そのような学校に、また、社会を造っていくために、学んでいきたいと思います。

放送礼拝 菊田先生

2018年4月16日(月) 放送礼拝
聖書:ヨハネによる福音書 17章:1~3節
讃美歌:483番

今年は桜の季節があっという間に過ぎてしまい、5日の入学式をきれいな桜の下で迎えることが出来ないほどでした。お隣の長野県ならもう少し桜の花が楽しめるのではないかと思い、先週末お花見ドライブに出かけ、上田市にある『無言館』という美術館を訪ねました。

この美術館には、有名な画家の作品は一枚もありません。飾られているのは、太平洋戦争で亡くなった画学生、今で言う美術大学=美大で絵を勉強している途中で戦争に駆り出され、そのまま帰って来られなくなった画家の卵達の作品が飾られています。最初のうちは「学徒兵役免除」と言って、学生には動員がかからなかったものの、戦争の状況が悪化するにつれて、学生たちも戦争に行かなければならなくなってしまいました。絵を描くことが大好きで、大学でしっかり学びたいと思っていた学生たち。中には、美術大学の学費を工面するのが大変で、家にあった大きな木を切り倒して送り出してくれた家族もいたようです。無言館には学生たちの描いた絵だけでなく、使っていた絵の道具や、戦地から家族に送った手紙も残されていました。それらの遺品と絵を見比べながら、その絵に込められた思いや、戦争に行くことは、即ち生きて帰っては来られないことだとわかっていながら、どんな思いを持って絵筆を握っていたのだろうか。言葉を発しなくても、様々なことを私たちに語りかけ、考えさせてくれる、「無言館」はそんな美術館です。

ここの館長であり、作家でもある窪島誠一郎さんの『無言館にいらっしゃい』という本の中には、私たちには2種類の「いのち」があると書かれています。一つ目は漢字一文字で書く「命」。つまり私たちがこの世に誕生したときに与えられたいのちです。そして、もう一つは、私たちが生きているうちに自分の「仕事」に込めることのできる命だそうです。ここで言う「仕事」について、窪島さんは次のように書いています。

みなさんは「仕事」と聞くと、会社に勤めてお給料をもらったり、何かを安く仕入れてお客に売ったりする商売を連想するでしょうが、人間の「仕事」はそれだけではないのです。病気になった家族を介護したり、落ち込んでいる友達を励ましたり、庭に咲いている花を大事に育てることだって立派な「仕事」です。あるいは自分の経験を日記に書いて記録したり、健康のために毎日ジョギングしたり、学校に通って勉強したりすることだって「仕事」の一つであるとも言えるのです。人間はそういう数々の「仕事」の中に生きている自分の「命」を込めることができると言いたいのです。戦争で死んだ画学生たちが残した絵は、ある意味で、その一点一点が画学生たちのいのちがのりうつった「仕事」であったといえないでしょうか。

この本を読み終えて、窪島さんご自身が、与えられた「命」に二度と同じ苦しみを味わう人を出してはならないという強い思いを込めて、「無言館」を作ったということが伝わってきました。無言館に飾られていた、戦争の前に「命」を絶たれてしまった画学生たちの「もう一つのいのち」は今もこうして、ここを訪れる人たちに語りかけ、訴えることで生き続けています。与えられた「命」は、その中に思いを込めて生きていくことでこれから先も続いていくものだと思います。

聖書に書かれている永遠の命とは、ここで語られている「もう一つのいのち」のことだと思います。そして私たちは与えられた「命」を生かすために、神様から様々な「仕事」を頂き、そのために「もう一つのいのち」に思いを込めていくのだと思います。

残念なことに、おとといの土曜日にアメリカが英国、フランスと共同で化学兵器使用が疑われるシリアを攻撃したと言う報道がありました。平和の反対語である戦争がまさに起こっている国があることに驚きを感じます。私たちは与えられた「命」をしっかり生かし、正しい知識を身につけ、判断し、自分の意見を持って「もう一つのいのち」を生きていきましょう。

お祈り

天にいらっしゃる私たちのお父様、今朝も新しい朝を有難うございます。あなたの御言葉から一日をはじめられますことを感謝いたします。私たちがあなたによって与えられたものを十分に生かして、一日一日を積み重ねていくことが出来ますように。また私たちの周囲で支えてくださる多くの方々に感謝して一日を終えられますように。様々な不安を抱えている友達がおりましたら、あなたが強め励ましてください。遠くの地では争いの中にある国もあります。より良い解決の道が見つかりますように。

願いばかりの祈りを尊き主イエス・キリストのお名前を通して御前にお捧げします。

放送礼拝 長田先生

ホセア書 6章3節  

 みなさんは、「春愁」という言葉を知っていますか?
春の愁い、と書きます。春、なんとなく気分が落ち込む状態、うつうつとして過ごす状態です。夏の愁いとか、冬の愁いという言葉はありません。「春愁秋思」といって、春に心悩ませ秋に深く考えるという言葉はあります。
春といえば、新しいことが始まる希望にあふれた季節というイメージです。たくさんの人達が4月から新しくスタートを切りました。今年度新しく英和中高に進学した新入生のみなさん、進級した2・3年生のみなさん、誰もが期待と不安を持って4月を迎えたことでしょう。
 けれども、春はものうい季節でもあるのです。他の季節にはない「春愁」という言葉が物語っているように、昔から、暖かい日差しと明るく咲き誇る花々を前にして人はなんだか心がふさがるような思いを持っていました。
 奈良時代、万葉集の中にも春の愁いを詠んだ歌があります。
大伴家持の「うらうらに 照れる春日に 雲雀あがり 心悲しも ひとりし思へば 」 という歌です。「春にうらうらと照る光とヒバリのさえずり、心躍る季節なのに私は一人でもの悲しい思いにひたっている」という意味です。
こんな昔から、万物が目覚める季節に「心悲し」と感じていた人がいたのです。

 春は、変化することを周囲に期待もされるし、自分も新しく変わろうとする時期です。新しい学校、教室、友達。新しい環境の中で、新しい自分になりたいと思い、いつも以上にがんばってしまいます。その重圧に耐えきれない思いが春愁=春のものうい思いなのかもしれません。
新年度が始まり1週間が経とうとしています。みんな心身ともに疲れがたまってきていることでしょう。その疲れが体の不調として現れたり、周囲の人に当たってしまったり、いろいろな形となって出てくる時期です。
休息をじゅうぶんにとって、上手にストレスと付き合いながらこの時期を乗り切ってほしいと思います。
 けれども、「春の愁い」とはいえ、この季節は恵みの季節でもあります。明るい陽射し、生き物の成長を促す雨。この春の光や雨のように、神様の恵みがみなさんに降り注いでいるのです。
今日の聖書の箇所に
「主は曙(あけぼの)の光のように必ず現れ 降り注ぐ雨のように
大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。」
とあるように、神様はみなさんのそばにいてくださっていろいろな形で励まし見守ってくださっています。
 また、「我々は主を知ろう、主を知ることを追い求めよう」とあります。
  みなさんは、この山梨英和で神様と出会いました。その出会いを大切にして、日々の聖書の言葉に耳を傾け、もっともっと神様のことを知っていってください。

放送礼拝 若尾先生

旧約聖書 イザヤ書43章4節 

新しい学年がスタートしました。今の皆さんの気持ちは「期待」と「不安」どちらが大きいですか?新しい教室での数日が過ぎ、不安が小さくなった人もいると思いますが、逆に大きくなった人もいるのではないではないでしょうか?新しい環境、新しい仲間との生活をスタートさせる時、なぜ不安を感じるのでしょうか?

不安の原因の一つに「自分がどうみられるか」「他人の目」が気になるということがあります。1年生の皆さんは入学式後、集合写真を撮りましたね。しばらくするとその写真を見ることができると思いますが、集合写真や自分の映った写真を見るとき「自分はどこにいるのか?」「どう映っているのか?」多くの人は自分を探します。そうやって「自分の目や人の目に映っている自分」を気にしているのです。そのことをどのくらい意識するかは個人差がありますが、大かれ少なかれ、私たちは「人の目」を意識しています。
日本では特に「世間」という言葉もあるとおり「世間体」を気にします。他者への配慮はもちろん必要ですが、ともすると「人の目」を気にしすぎてしまうことがあります。その結果「自分の目」で自分を見たときに「どうしてこんな自分なのだろう?」と自分に自信が持てなくなってしまい、自分を好きになれない日本人が多いといわれます。

このことはある調査結果にも現れています。「自分自身に満足していますか?」と問いかけられたとき皆さんは何と答えますか?この調査は「自分自身に満足している」という問いに「そう思う」「どちらかといえばそう思う」と肯定的に答えた人の割合を国別に比較したものです。調査の結果はこうです。一番高いアメリカは86,0% イギリス、ドイツ、フランスは80%超え、スウェーデンが74、4%お隣の韓国は71,5%という中、日本はどのくらいだったと思いますか?結果は45,8%でした。
この結果からは日本人が「もっともっと・・・」という向上心が強い現れともいえますが、やはり自分に自信が持てない人が多いともいえます。

改めて考えてみると「自分の目や他人の目」といった「人の目」は時に私たちを不安にさせます。まさに新学期が始まって間もない私たちです。
けれども、今日聞いたみ言葉のように「他人の目」に、また「自分の目」にどう映ろうとも「神様の目」には「あなたには大きな価値があり、貴い」とあります。山梨英和で日々生活する私たちには「神様の目」が常に注がれていることを覚えてすごしましょう。私達のことを貴い、価値がある、とはっきり言ってくれる方がいるということを知った時、「人の目」からみれば「何一つ誇ることがない」と思う時でも、「自信をもって生きる」ことができます。
「自分自身に価値があること、大きな賜物をもっていること」を見失ってはいけません。私たちは神様の目に価値があり愛されている存在です。神様のメッセージを心に留めておいてください。そして、これからの生活の中で色々な悩みに直面した時「こんなとき神様だったらなんて仰るか」とか「神様の目にはどう映っているのか」考えながら、毎日を過ごしましょう。そして山梨英和で生活するすべての人が神様のまなざしに支えられているからこそ、友達・仲間に対しても優しい気持ちで接し、「神様の目」の前に安心して過ごせる学校として、新しい1年をスタートさせましょう。

放送礼拝 糟谷先生

讃美歌21−493
聖書 ローマの信徒への手紙 12章1−2節

 いよいよ新年度の授業が始まります。新たなスタートラインに立って、ドキドキしている方も多いと思います。
 特に、中1のみなさんは、「算数」ではなく「数学」の教科書を手に、中学生になった実感を持ったのではないでしょうか。
 数学に、「直線」という概念があります。頭の中で、自分が直線を引くところをイメージしてください。どうやって引きましたか。私は、ノートに定規を横向きに当ててシャーペンで線を引きました。実は、それは本物の直線ではなく、直線のモデルでしかありません。本物の直線は太さがないので目には見えず、おまけに、ノートには収まりきれず、教室の壁も、国境も、大気圏も突き抜けて、果てしなく伸びているのです。始まりと終わりがある線は、「直線」ではなく「線分」と言います。目に見えず限りのない直線について考える数学は、実はとてもロマンティックな学問です。
 昨日の宍戸先生の礼拝で、この世界のできごとが水平、つまり2次元だとすると、イエスさまの復活のできごとは垂直、つまり3次元だ、というお話を伺いました。今日は、果てしなく伸びる直線と、初めと終わりが限られている線分に例えてお話したいと思います。
 聖書の中で神さまは、「わたしは始まりであり終わりである」と自己紹介をしています。つまり、神さまは直線のように永遠の存在です。一方、私たちは、この世界では、生まれてから天に召されるまで、限られた時間を生きる線分のような存在です。限られた空間の中で、限られた知識を与えられた存在です。時間、空間、知識、のうち、限られた時間について考えてみましょう。
 子どもの頃には時間は有り余るほどあると思っていましたが、大人になって身近な人たちの死や老いや病を経験し、線分の終わりを考えるようになりました。そうなると、時間をつぶさなければならない、という考えがなくなりました。もちろん、体を休めることは大切です。時には、何もしない時間も必要でしょう。でも、何かをするのでもなく、体を休めるのでもなく、ぼーっと考え事をするのでもなく、ぽっかり空いた時間を潰したいと思うことはほとんどなくなりました。
 退屈な時間ができてしまったとき、中高生のみなさんの中には、すぐにスマホやタブレットに手が伸びる人がいるのではないでしょうか。日曜日の朝日新聞で、俳人、俳句を作る人の中内亮玄さんが、みなさんのような少年少女にあてて、スマホを切って俳句を作ってみませんか、と勧める記事を書いていました。時間つぶしをする代わりに俳句を作ることで、限りある人生を大切に生きられる、というのです。少し長くなりますが、引用します。
 「昨日の帰り道は、どんな風が吹いていましたか。電車を待つ間の空はどんな色でしたか。バス停に生えた雑草の健気な様子や、横切った鳥の、その鳴き声は。
 君たちは、この素晴らしい世界を驚くほど何もみていない。『暇だから』と画面ばかり見ていると、青春が終わってしまいます。命が終わってしまいます。
 昨日は桜を見た?嘘だ。写真に撮って保存しただけじゃないのかい?
 そんなのは、やめにしよう。」
 いかがですか。「時間をつぶす」は英語で「kill time」と言ったりします。時間を殺しているうちに、私たちの今日の命が終わってしまう、というのは納得のできる話だと私は思いました。
 今日読んだ聖書の箇所には、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい」とあります。今日の私を神さまに捧げるには、今日一日という時間を大切に生きなければなりません。自分には力がないから、弱いから、そんなことはできない、と思うかもしれません。しかし、神さまは私たちの弱さをともにおってくださる存在です。失敗したからといって、見捨てたり笑ったりするお方ではありません。一生懸命挑戦して、それで失敗するなら、私たちのその一日を神さまは受け取ってくださるはずです。
 それに、人はみんな限られた存在で、弱さや欠点を抱えて生きているのです。神さまが私の弱さを受け入れてくださるのだから、私もだれかの弱さを受け入れるべきです。この学校では、安心して失敗して、そこから学んでいってほしいと思います。
 中内さんが俳句を進める理由は、俳句を詠むと世界に敏感になるからです。また少し引用します。
「桜の花びらが何枚なのか、どんなふうに散るのか、幹の色、形、実際に触ってみるのもいい。そのうちに春夏秋冬、花鳥風月、なまの人間に、つまり命にも敏感になることができます。」
 俳句だけでなく、私たちの学習もこうあってほしいと私は思います。私たちが何十年か身を置いているこの世界を、そして私たちの命を、五感を澄まして知るような深い学びができたらいいと思います。
 
お祈りします。

在天の主なる神さま、
今日、私たちを命に目覚めさせ、あなたの前に集めてくださり感謝します。
いよいよ新しい年度の学習が始まります。与えられた時間を精いっぱいに生きて、今日の私たちの一日が、あなたに喜ばれる捧げものとなれますように。世界を知る生きた知識を得られるように支えてください。うまく行かないときにも、失敗してしまったときにも、あなたが私たちを見捨てず、一緒におられ、励ましてくださることを信じます。私たちも互いに受け入れ、支え合えるように成長させてください。
このお祈りを、主イエスキリストのお名前を通して御前にお捧げします。アーメン。