教師,礼拝のひとコマ

5月2018

放送礼拝 御園生先生

「愛されることと愛すること」 2018.5.30(水)放送
                  聖書:マタイによる福音書22章39節(p.44)
                  讃美歌:520番

皆さんは「100万回生きた猫」という絵本を知っていますか?
出版されて40年たちますが、今まで、英語、フランス語、ロシア語、中国語などに翻訳され、電子書籍にもなり、またミュージカルで何度も上演されるなど、それこそ様々な形で生き続けている本です。
現在、山梨県立美術館で「愛されて40年『100万回生きた猫』佐野洋子の世界展」という特別展示会が6月17日まで行われています。興味のある人はぜひ行ってみてください。

作者の佐野洋子さんは、7歳の時中国の大連で終戦を迎え、その後山梨の伯父様のところに引き揚げ、一家で身を寄せ、3年ほど山梨で過ごしていたそうです。このまだ幼い時に大きな環境の変化がありしかも9歳から10歳にかけて大好きだったお兄さんと、幼い二人の弟を亡くしています。この時お母様が半狂乱となり、まだ小学生の洋子さんを優しく受け止めてくれるはずのお母様との間に溝が生まれました。洋子さんは、大きな悲しみとショックの中で、「生きること、死ぬこと」について深く考えざるを得なかったのではないでしょうか?

「猫には9つの命がある」と言われますが、聞いたことはありますか? おおもとはエジプトの猫の姿をした神様、そして中世ヨーロッパで猫が魔女の使い魔とされたことでなんとなくちょっと神秘的というか不思議な力を持っていると思われたのでしょうか。そして、1561年のイギリスのウィリアム・ボールドウィンの小説には『魔女はその猫の体を9回使うことを許されるのだ。』という一節から「猫には9つの命がある」と言われるようになったと言います。

さて、この「100万回生きた猫」はこのように始まります。

『100万年も しなない ねこが いました。
  100万回も しんで、100万回も 生きたのです。
  りっぱな トラ猫でした。
  100万人の 人が、そのねこを かわいがり、
100万人の 人が、そのねこが 死んだとき なきました。
  ねこは、1回も なきませんでした。』

この後のお話のあらすじは、このようなものです。
この猫は、ある時は王様の猫だったり、船乗りの猫だったり、サーカスの猫だったりします。それぞれの飼い主は、とてもかわいがり、その猫が死んだときは大泣きをしました。しかし、、どんなに愛されて、どんなにかわいがられてもその飼い主を好きにはなりませんでした。猫は自分以外が嫌いだったのです。その上、猫は 死ぬのなんか平気だったのです。
そのうち、猫は誰の猫でもない『野良猫』になります。立派なとら猫だったので、立派な野良猫になり、たくさんの雌猫がお嫁さんになりたがりました。でも、猫は「おれは、100万回も 死んだんだぜ。 いまさら おっかしくて!」と言いました。猫は自分が大好きだったのです。そんなまわりの猫の中に、1匹だけこのとら猫を見向きもしない白い猫がいました。この白猫に「俺は、100万回も死んだんだぜ!」と自慢しましたが、白猫は「そう。」と言ったきりでした。トラ猫は、少し腹を立て、毎日白猫のところへ行って、「君はまだ1回も生き終わっていないんだろう。」と言います。すると白猫は「そう。」と言ったきりでした。
そのうち、トラ猫が「そばにいてもいいかい。」というと、白猫は「ええ。」と言いました。
トラ猫は、いつまでもそばにいて、白猫は子猫をたくさん産みました。
そして、それまで自分が一番好きだったトラ猫は、白い猫とたくさんの子猫を、自分より好きなくらいになりました。やがて、白い猫がトラ猫の隣で動かなくなっていました。その時このトラ猫は、初めて泣いたのです。夜になって、朝になって、また夜になって、100万回も泣いたのです。そして猫は泣きやみ、白い猫のそばで静かに動かなくなりました。
絵本の最後は、こう結ばれています。
『ねこは もう、けっして 生きかえりませんでした。』

このお話を読み終わると、泣いたことのなかったとら猫は、白猫が死んだことで100万回も泣いて泣いて、泣き止んだときには死んでしまいます。そして、もう生き返らなかったのに、これを読み終わった私達は「あ~良かった。」という気分になります。これは、なぜでしょうか? きっと、とら猫が、「愛することを知った」というのがわかり、安心するからでしょう。
作者の佐野洋子さんは、その晩年「人間は、何のために生きているかって言ったら、やはり他人を愛するために生きているし、多分、この世界を愛するために生きているんだと思うのね。」と語っています。

さて、このとら猫が死んだとき、とら猫をかわいがっていた飼い主は悲しくて泣いたのに、とら猫は 死ぬのなんか平気だったのでしたね。そればかりか、「おれは、100万回も死んだんだぜ。」と得意になっていました。ではなぜ「100万回も生きたんだぜ。」と言わなかったのでしょうか? それは、自分が生きていた世界に、何の未練も無かったからでしょう。なぜ、未練がないかというと、大切に思い、愛するものがなかったからですね。愛したものを残して死ぬのは、どんなに辛いことなのかは、想像がつくと思います。「死んでも死にきれない」とよく言いますが、そんな気持ちだと思います。しかし、「愛するもの」が何もなければ、「死ぬのは平気」だし、今を精一杯「生きている」という実感もないことになります。「生きている」という実感がない、その意義を感じることのできない毎日は、本当に空しいものです。

今日の聖書の『隣人を自分のように愛しなさい。』という聖句は、入学式の日からたびたび耳にしている聖句です。神様から無条件で愛されているのですから、その自分と同じように、周りの人を愛しなさいということですね。けれど、神様の深く広い愛に比べ、私たちにはそれを実行することが簡単ではありません。 どんなに愛されても自分以外は嫌いだったトラ猫のように、周りの人を愛せないことが珍しくありません。あるいは、その自分さえも愛せないことさえあります。そして、そんな時、周りの世界も愛せなくなります。世界には矛盾も多く、またせっかく愛していた対象を奪われることすらあります。そんな時「こんな世界はどうでもいい!」「こんな世界にいたくない!」と思うかもしれません。
このとら猫のように!

でも、自分も愛せないことのあるこの私でさえ、神様は何も聞かずに愛してくださっています。いつも両手を差し伸べていてくださいます。 隣人を愛することが難しいと感じたときは、まず手を伸ばして、神様の愛に包まれてみましょう。そして、素直にその愛に応えるとき、自分の世界が変わり始めます。そして、自分以外のこの世界を愛することができる自分が見えてきます。自分が生かされていることに気づくと、周りの人も同じように神様から生かされていることにも気づきます。自分は、大切にされている存在で、周りの人も同じように大切にされている存在なのだから、周りの人を大切にしようと思うことができます。そうすれば、豊かな毎日を過ごす第一歩を踏み出したことになるでしょう。そして、神様から頂いた命をしっかり生きるー真実に清く生きるーことができるはずです。

お祈りします。
御在天の父なる神様、今日という新しい一日を、礼拝から始められますことに感謝致します。神様が、どんなときも私を愛して下さっていることを感謝致します。それをわかっているはずなのに、同じように神様が愛している周りの人を愛せないことがあります。しかし、それでも神様は私を愛して下さり、このようにしなさいと教えて下さっています。その声に素直になる事ができますようお導き下さい。今日一日、神様の御心にかなう一日を送れますように。 この小さき祈りを、尊き主イエスキリストのお名前を通して御前に御捧げ致します。
                                    アーメン

放送礼拝 久木元先生

聖書の箇所:マタイによる福音書25章34~40節
そこで、王は右側にいる人たちに言う。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」
すると、正しい人たちが王に答える。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」
そこで、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

 一ヶ月ほど前に、テレビで「ペコロスの母に会いに行く」という映画を見ました。この映画は、岡野雄一さんという方の描いたエッセイ漫画を映画化したものです。原作の漫画は、学校の図書館にも入っているので、ひょっとしたら見たことがあるという人もいるかもしれませんね。この作品は、作者である岡野さんと、認知症を患って施設に入っている岡野さんの母親との交流を描いた漫画です。「ペコロス」というのは、岡野さんのペンネームで、「小さな玉ねぎ」という意味です。岡野さんがなぜそのようなペンネームをつけたかというと、岡野さんの体型と、つるつるに禿(は)げた頭が、ペコロスのように見えるからだそうです。
 映画のあらすじは次の通りです。62歳の漫画家ゆういちの母みつえ(89歳)は、父さとるが亡くなった後、振り込め詐欺にひっかかりそうになったり、死んだ夫のために酒を買いに行こうとしたり、汚れた下着を大量に貯めたりなど、認知症の症状を見せはじめます。ケアマネージャーの勧めで、ゆういちはみつえをグループホームに入居させます。それでも、みつえの認知症は進み、面会に来たゆういちが分からず、禿げ髪を見てようやく息子を思い出す始末です。また、夫が亡くなったことを忘れ、見えない夫と話したり、原爆で亡くなった幼い妹の幻を見て、妹をあやしたり、少女に戻って無邪気な様子を見せるようになります。ゆういちは、そんな母を優しく見守りながら、昔のことをいろいろと思い出します。ある日、みつえは、ゆういちに、亡くなった夫さとるや幼なじみのちえこ、妹のたかよが会いに来たと語ります。「死んだ父ちゃんに会えるのなら、ボケるのも悪いことばかりじゃないね」とゆういちは思うようになります。
 私はこの映画を見て、深く感動したと同時に、何か苦いものを噛(か)んでしまったような複雑な思いにとらわれました。というのも、実は、私の実家の父親も、認知症を患っているからなのです。たまに実家に帰って父親に会うと、ペコロスの映画と同じように、父親は私が誰なのか、まったく分かっていません。また、息子に会わせても、父は孫を認識できていないのです。私は実家に帰って父に会うたびに、悲しいような、やりきれないような、もやもやした思いを抱かずにはいられないのです。だから、映画の中で、当初は認知症の母親につらく当たりながらも、だんだん心を許して、最終的には優しい気持ちで母に接する岡野さんの姿が、とても羨(うらや)ましく思えたのです。
 それと同時に、認知症の患者に対して、いや、認知症の患者だけでなく、自分が理解できないものに対して、お前はつらく当たったり、無視したりしていないかという問いを突き付けられたような気がしました。お前は、小さい者や弱くされた者に対して、偏見を持ち、排除しようとしていないだろうかという問いです。私はこのような問いに対して、はっきり「Yes」と答えることができません。そして、そのような問いを私に投げかける存在に対して、私は忸怩(じくじ)たる思いを抱かずにはいられません。
 では、そのような問いを私に投げかける存在は誰かというと、それはイエス・キリストに他なりません。イエスは、常に、小さい者、弱くされた者の立場に立って行動していました。それは、子どもであったり、女性であったり、病人であったり、罪びとであったり、異民族であったりしました。イエスは、同時代の人が偏見を抱き、差別を行い、排除していた人たちを決して見捨てず、常に彼らの側に立っていたのです。それだけではありません。今日の聖書の箇所の40節を見てください。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」とは、実は、イエス・キリストのことなのです。つまり、イエスは、小さい者、弱くされた者の姿で私たちの前に現れるのです。イエスは、弱い者・小さくされた者の姿を取って、私たちに差別や偏見の心がないかどうか、問いを投げかけているのです。
 5月27日は山梨英和の129回目の創立記念日で、28日に私たちは花の日を守ります。私たちは病院や介護施設を訪問させていただきますが、そこには、小さくされ、弱くされた者の姿を取ったイエス・キリストが私たちを待っていてくださるということを心にとめていたいですね。

お祈り
神様、今日も新しい朝を与えられてここに集い、放送を通してですが、愛する姉妹たちと一緒に礼拝を捧げる機会に恵まれたことを感謝いたします。私たちは、小さな者・弱くされた者に対して、差別や偏見の心を持ってしまいがちです。しかし、私たちは、小さな者・弱い者としてこの世に生を受け、そして、恐らくは弱い存在としていずれ天に召されます。私たちが今現在、強い者の立場にいるとしても、それは単なる偶然であって、弱い者・小さな者に寄り添わなければならないと思う気持ちを忘れないようにさせてください。私たちは来週、花の日を迎えますが、どうぞ謙虚な気持ちでこの日の訪問ができますように、私たちをお導きください。また、今週から、前期Ⅰテストが始まります。中1の生徒にとっては、初めての定期試験です。不安や緊張を覚える生徒も多くいると思いますが、あなたが常に彼らの傍にいて、お見守りください。今日の一日の歩みが、あなたの御心に添ったものでありますように。このささやかな祈りを主イエスキリストの御名によって御前におささげいたします。アーメン。

中学・高校合同礼拝 加藤先生

2018年 5月17日、18日 礼拝原稿

聖書 コリント信徒への手紙13章 13節

 NHKで高校野球名場面という番組がありました。特に印象深い試合は、大リーグに行き、今は中日でプレイしている松坂大輔さんが在籍していた横浜高校対PL学園の試合で、延長17回という球史に残る名勝負でした。
当時、試合の行方を固唾をのんで見守っていたことが思い出されました。
横浜高校もPL学園もプロ野球選手を多く輩出した名門高校ですが、驚いたことに現在、PL学園は野球部が休部、事実上は廃部という事態になっているそうです。野球ファンとしては信じられず衝撃が走りました。

 このように一時期の繁栄が終わる例は身近にもありました。山梨でも105年間操業を続けていた老舗のスーパーが倒産した詳細について、15日の山梨日日新聞に掲載されました。また、遠く歴史を振り返ると、「すべての道はローマに通ず」と栄華を誇ったローマ帝国の滅亡や日本でも「平家にあらずんば人にあらず」と豪語した平家一族が、壇ノ浦で滅亡したことは平家物語に記されていて、皆さんも古典で勉強したことと思います。

 国家や企業、私たち人間も今はどんなに繁栄していても、それが続く保証はありません。このようなことを考えると、何のために生きるのかむなしくなりますね。私たちは、いつかはなくなるむなしいのもでなく、いつまでも永遠に残るものと共に生きることはできないのでしょうか。

 今朝読んだ聖書の箇所がその答えです。聖書は力強く語っています。「愛」こそはいつまでも永遠に残ります。それではその「愛」とは具体的に何をすればよいのでしょうか。13章4節~8節に記されています。一緒に読んでみましょう。
  
お金や名誉も大切ですが、まずは第一に愛を追い求め、愛をもって生きなければなりません。ノーベル平和賞を受賞されたマザーテレサは、講演の席で聴衆から、世界平和のために自分が何をしたら良いかと質問された際に「世界平和のためにできることですか?家に帰って家族を愛してあげてあげて下さい。」と答えたそうです。また、次のような言葉も残しています。「私達は大きいことはできません。小さなことを大きな愛をもって行うだけです。」聖書にも「あたなの隣人を愛しなさい」という言葉があります。

 皆さんの周りを見て下さい。困っている友達はいますか?悩んでいる兄弟や姉妹はいますか?私たちはそのような人に手をさしのべているでしょうか。
自分のことだけでなく他者に目をむけて下さい。そして小さな事を大きな愛をもって行うことができる人として、何ができるのか考えましょう。

お祈りします。
 愛する天の神様。あなたの御名を賛美します。今朝も礼拝から一日を始められることに感謝します。パウロはコリントの信徒への手紙で「わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と書き、愛の大切さを述べました。 私達も愛をもって人と接し生きることができるよう神様が導いて下さい。また、今週の日曜はペンテコステです。聖霊が下り教会が誕生した日です。多くの人が教会に足を運ぶことができますように。
 5月ですが真夏のような気候が続いています。来週からは定期試験がスタートします。神様が健康を守って下さり、日頃の勉強の成果が発揮できるよう支えて下さい。このお祈りをイエス様の御名を通してお祈りします。アーメン

中高合同礼拝 横手先生

テモテへの手紙二 1章5節
讃美歌543番

テモテへの手紙は使徒パウロから愛する弟子のテモテに宛てて送られました。パウロがテモテに手紙を書いたとき、パウロは「キリスト」を宣伝えたために逮捕されてローマの監獄に入れられていました。この手紙の4章では「遅すぎないうちに」(9節と21節)と書かれていることから、パウロは処刑の日が迫っていることを感じていたと思われます。テモテはパウロがはじめたエペソ教会の牧師だったと言われています。パウロはテモテを「愛する子」と呼んでいます。3節から9節を読みますと心が震えるほどの感動を覚えます。死が明日に迫っていても神に感謝し、テモテをいたわり、神がテモテを守ってくださるようにと執り成して祈るのです。先生と弟子とのこの清らかな関係は私たちの心を揺り動かします。パウロはテモテの信仰のことを「あなたが抱いている純真な信仰」といっています。それは「祖母ロイス」と母エウニケに『宿った』信仰だと書いています。テモテの父は異教徒のローマ人でしたから、テモテの信仰はおばあさんと母親を通して『宿った』のです。パウロは特別な意味を持たせて『宿った』と言っているのです。パウロはテモテの信仰がテモテが自分の力で得たものでなく、神の導きより「与えられたのだ」と書いていることは大切です。   

今、この大切な言葉から思い出されることとして、私は英和の中一の生徒だったときのことをお話します。院長であり校長であられた内藤正隆先生が「無条件の感謝」という説教をなさったクリスマス礼拝を思い出します。そのときの会場はすでに取り壊されて跡形もなくなった「県民会館」でした。その年に山梨英和の今の体育館やその横のプールが完成しました。先生はそのような大事業の中で、とても大きな病気をなさり、おまけに泥棒や火災の被害に遭われ、本当にやせ衰えたお身体でした。その3日後に亡くなられたことは私たち生徒にとっては大きな出来事でした。今も「無条件の感謝」が甦えってきます。私の身体の中にこの説教が『宿った』といっても言い過ぎではありません。なぜならその年の南甲府教会のクリスマス礼拝で私は父から受洗したからです。
『宿る』というもう一つの経験は、それから2年後ネパールで結核撲滅のために医療活動をされた岩村昇医師が山梨英和に来られ、この場所で語られた時のことです。先生はここに立たれ、この場所で左側の愛宕山を指さして「ネパールは本当に甲府に似ています、けれど医師が足りないのです」と言われました。私たち生徒は愛の奉仕に命を捧げてネパールの村々をくまなく訪ね歩いておられる先生の中にイエス・キリストを見たのでした。これを聴いた多くの同級生たちが医師をめざしました。その一人は山梨大学工学部を卒業し、自分が吃音で苦しんでいたのでさらに大阪大学医学部で研究し、言語治療の領域の研究者となり大学の教員になっていました。残念なことに胃がんを患い、道半ばで亡くなりました。しかし、隣人のために生きるということが「神を敬うことの証しだ」と信じて自分を高めて、目標に到達した彼女の姿を私たちは決して忘れることはありません。もう一人の同級生は音大を卒業して、音楽療法の草分け的存在になって、大学の教員となり、東京芸術大学でも今も講義し、知的障害者教育のための教科書をつくり、後に続く学生たちを育てている同級生もいます。このチャペルで本当に「純粋な信仰のめざめ」を経験した皆さんの先輩がおられるのです。
 
 次の日曜日はペンテコステです。(聖霊降臨議日)ペンテコステのオルガン曲には上下の手鍵盤、第一鍵盤と第二鍵盤、足鍵盤とこの三つのパートを使う曲が多いのです。それは、父なる神、子なるキリスト、そして聖霊の関係を表していると言えるでしょう。今日弾きました前奏曲は「来たれ、おお、来たれ、命の聖霊よ」でした。右手は讃美歌のメロディー、それに添えられる左手はアルトパート、そして足鍵盤は低音部の支えの役割をもっています。これはオルガン曲ですがアンサンブルリリエンの皆さんはこの曲をフルート、ヴァイオリン、オルガンの足鍵盤、あるいは、チェロも加わって三パートで弾いていますね。一人で弾くオルガン曲を、合奏することで、この曲がさらに生き生きと感じられます。
新しい年度が始まりました。皆様一人一人を、神様が導かれ、「純粋な信仰の目覚め」をお与えくださいますように、そして、皆さまが測り知れない神様の御計画にあずかることができますようにお祈りいたしましよう。

祈り
私たちを思いがけない時に、信じられない愛の力で、呼び出してくださる神様。
私たちは生徒も教師も神に招かれここにいます。私たちの間に命の言葉が満ちて、「新しい目覚め」を今日も起こしてくださいますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

放送礼拝 佐藤先生

ルカによる福音書13章6~9節

聖書のこの箇所を目にするたび、私は子供のころに住んでいた家を思い出します。
家の裏にはいちじくの木が植えられていて、毎年夏休みの終わりごろから秋にかけて実がなるため、それを取って食べていました。
しかし、たまに水やりをしたくらいで、そのいちじくの木の世話をした記憶はありません。肥料を与えなくても放っておけば実がなるものだと思っていました。
気になったので少し調べてみましたが、きちんと育てるには枝の剪定をしたり根を切ったりと手入れが必要で、しかも植えてから2~3年で実をつけると書いてありました。

今日の聖書の箇所を見てください。
ある人がいちじくの木を植えておき、実をつけ始めるころ、おそらく2~3年経ってから探しに来たのでしょう。しかし、実をつけていませんでした。
来年こそは実をつけるだろうと思い、次の年も探しに来ましたがそれでも実をつけていませんでした。それを3年繰り返しましたがそれでも実を見つけることができませんでした。
そこで園丁に「いちじくの木を切り倒せ」と命じられます。
しかし、園丁は「このままにしておいてください」とお願いします。さらには「木の周りを掘って肥やしをやってみる」とまで言っています。「それでもだめなら切り倒してください」と。

ここでのぶどう園の主人は神様のことでしょう。そしていちじくの木は私たち人間を指していると思われます。とすると園丁はイエス様を表しています。
神様は、私たち人間が悔い改めるのを長い間待っておられましたが、一向に悔い改める様子がありません。
そこでイエス様に、「もう待っていても無駄だから、人間を見捨てなさい」と命じられます。
しかしイエス様は「今まで以上に教えを説いていくので、来年まで待っていてください。そうすれば悔い改めるかもしれません」と神様にお願いします。
しかしこうも言っています。「それでもだめなら見捨ててください」と。

 神様は、創世記7章ではノアの方舟以外の地球上のすべての生物を滅ぼされています。
さらに19章ではソドムとゴモラの町も滅ばされています。
旧約聖書の頃には神様と人間の間をとりなすイエス様はいなかったため、滅ばされてしまったのだと思います。

では、今日の聖書の箇所ではどうでしょうか。
いちじくの木が実を結んだのか、結ばなかったのか、私たち人間が悔い改めたのか、悔い改めなかったのか、その結果は聖書には書かれていません。
私たち人間は見捨てられてしまったのでしょうか?
それは皆さんもよく知っている通りで、見捨てられることはありませんでした。
イエス様が十字架に架かることにより神様との間をとりなし、私たち人間を救ってくださったのです。

本来滅ばされるはずだった私たちには、こうしてチャンスが与えられています。
一度やってみてだめでも、二度三度とやってみる。それでもだめなら、あきらめずできるまで何度でもやってみる。こうして少しずつ変わっていくのです。
悔い改めるという大きな変化は難しいかもしれませんが、身近なことからあきらめないでチャレンジしてみましょう。
私たちは、イエス様のおかげで神様から見放されることはないのですから。
最後に私が部活で部員に伝える言葉を紹介します。
「練習でできないことは、本番でもできない。練習でできたからと行って、本番でできるとは限らない。だから練習が必要なのだ。」