教師,礼拝のひとコマ

放送礼拝 佐藤先生

ルカによる福音書13章6~9節

聖書のこの箇所を目にするたび、私は子供のころに住んでいた家を思い出します。
家の裏にはいちじくの木が植えられていて、毎年夏休みの終わりごろから秋にかけて実がなるため、それを取って食べていました。
しかし、たまに水やりをしたくらいで、そのいちじくの木の世話をした記憶はありません。肥料を与えなくても放っておけば実がなるものだと思っていました。
気になったので少し調べてみましたが、きちんと育てるには枝の剪定をしたり根を切ったりと手入れが必要で、しかも植えてから2~3年で実をつけると書いてありました。

今日の聖書の箇所を見てください。
ある人がいちじくの木を植えておき、実をつけ始めるころ、おそらく2~3年経ってから探しに来たのでしょう。しかし、実をつけていませんでした。
来年こそは実をつけるだろうと思い、次の年も探しに来ましたがそれでも実をつけていませんでした。それを3年繰り返しましたがそれでも実を見つけることができませんでした。
そこで園丁に「いちじくの木を切り倒せ」と命じられます。
しかし、園丁は「このままにしておいてください」とお願いします。さらには「木の周りを掘って肥やしをやってみる」とまで言っています。「それでもだめなら切り倒してください」と。

ここでのぶどう園の主人は神様のことでしょう。そしていちじくの木は私たち人間を指していると思われます。とすると園丁はイエス様を表しています。
神様は、私たち人間が悔い改めるのを長い間待っておられましたが、一向に悔い改める様子がありません。
そこでイエス様に、「もう待っていても無駄だから、人間を見捨てなさい」と命じられます。
しかしイエス様は「今まで以上に教えを説いていくので、来年まで待っていてください。そうすれば悔い改めるかもしれません」と神様にお願いします。
しかしこうも言っています。「それでもだめなら見捨ててください」と。

 神様は、創世記7章ではノアの方舟以外の地球上のすべての生物を滅ぼされています。
さらに19章ではソドムとゴモラの町も滅ばされています。
旧約聖書の頃には神様と人間の間をとりなすイエス様はいなかったため、滅ばされてしまったのだと思います。

では、今日の聖書の箇所ではどうでしょうか。
いちじくの木が実を結んだのか、結ばなかったのか、私たち人間が悔い改めたのか、悔い改めなかったのか、その結果は聖書には書かれていません。
私たち人間は見捨てられてしまったのでしょうか?
それは皆さんもよく知っている通りで、見捨てられることはありませんでした。
イエス様が十字架に架かることにより神様との間をとりなし、私たち人間を救ってくださったのです。

本来滅ばされるはずだった私たちには、こうしてチャンスが与えられています。
一度やってみてだめでも、二度三度とやってみる。それでもだめなら、あきらめずできるまで何度でもやってみる。こうして少しずつ変わっていくのです。
悔い改めるという大きな変化は難しいかもしれませんが、身近なことからあきらめないでチャレンジしてみましょう。
私たちは、イエス様のおかげで神様から見放されることはないのですから。
最後に私が部活で部員に伝える言葉を紹介します。
「練習でできないことは、本番でもできない。練習でできたからと行って、本番でできるとは限らない。だから練習が必要なのだ。」