教師,礼拝のひとコマ

放送礼拝 糟谷先生

讃美歌:453 何ひとつ持たないで
聖 書:エフェソの信徒への手紙 6章 10-17節

 試験の1日目、眠気と戦いながら顔を洗い、支度をして登校した方も多いのではないでしょうか。
 しばらく前に、顔を洗う洗顔フォームが切れてしまったので、買いに行きました。ドラッグストアの棚の前で、白いボトルと青いボトルを手に取って迷った結果、何となく青い方を選びました。
 青い方を選んだのには、もしかすると、TVコマーシャルの影響があるかもしれません。
 白い方のコマーシャルは、人気の女優さんが朝の明るい光の中、キラキラした笑顔で、ふわっふわのマシュマロ泡を紹介するさわやかな映像です。青い方のコマーシャルは、これも人気の女優さんが、夜、仕事から帰った自分の部屋で、ひとり呟きながら、その日にあった嫌なこと大変なことを洗い流すように顔を洗う映像です。どちらも魅力的で良くできたCMだと思いますが、青い方のシリーズの方が現実的で共感できます。くたくたに疲れた一日の終わりに顔を洗って素の自分に戻る時、汚れだけでなく、その日の疲れや失敗を洗い落としているんだな、生きるってことはだれでも大変なんだな、とあらためて思うからです。
 顔を洗って落とすものは汚れや疲れや失敗だけではありません。大人だけでなく、中高生のみなさんだって、一歩自分の部屋から出れば、家族には家族にみせる顔、友だちには友達にみせる顔、外を歩く時は外を歩く時の顔があるのではないでしょうか。また、そうありたい自分であるための服や、話し方や、ふるまいを身につけて過ごすこともあるでしょう。むき出しの自分で生きていられる人の方が少ないと思います。身につけなければ生きられない社会的な「私」は、着続けるにはとても重いものです。青いボトルの製品を作った会社は、夜顔を洗うとき人は身につけた重いものをいったん脱いで素の自分になるのだ、ということもコマーシャルで表現したかったのではないでしょうか。
 神さまの前に立つ時、私たちは顔を洗った後のような無防備な姿で向き合わなければなりません。神さまは、見栄えのいい服ではなくその中にいる弱くて情けない本当の私をご覧になります。それは、私にとっては怖いことです。
 創世記で、人がヘビにそそのかされて知恵の実を食べた後、自分が裸であるのに気づき、ありあわせの葉っぱで身を隠す場面があります。あの人たちの気持ちはよくわかります。ありのままの情けない自分を神さまに見られると思ったら、そうするしかなかったのでしょう。神さまはそれを見てどうされたでしょうか。そんなみっともない葉っぱを着ても無駄だ、とはぎ取られたでしょうか。その反対です。神さまは、あたたかくて丈夫な毛皮で服を作り、人に着せてくださいました。楽園を出て、この世という現実の中で生きるには、裸では生きられないことをわかっておられたからです。
 さて、今日という一日の中へ私たちを送り出す時も、神さまは毛皮の衣を枕元に用意してくださっています。今日の聖書では「神の武具」と書かれているものです。私たちの一日は戦いの一日です。それは、だれかとの戦いではなく、自分の中にある悪との戦いです。戦いに勝つために必要な帯、胸当て、履物、盾、兜、剣というアイテムは、目の前にある聖書の中に用意されています。私たちが毎朝聖書を開くのは、悪との戦いに負けないよう、神の武具を装着するためでもあるのです。
 神さまは、私たちをありのままの姿で受け入れ、身につけるべき神の武具を用意してくださっています。それを身につけて、自分の中の悪とよく戦い、ぼこぼこにやられながらも、一日の終わりに顔を洗って、ありのままの自分で神さまに向き合い、なぐさめられたいと私は思います。