放送礼拝 若尾先生

イザヤ書 11章1~5節

2018年の学校生活がスタートしました。この冬休み皆さんはどのように過ごしましたか?
高校3年生は受験生として、中学1年生は英和生として初めての冬休み、それぞれの場所で、いろいろな思いで過ごされたのではないでしょうか。
私自身は振り返ってみると山梨県から外に出ることなく、この2週間を過ごしました。けれども、山梨県外や日本中、いえ世界中の情報が、リアルタイムに届き、世界の至る所の景色を眺めることができました。また、甲府市内で起こった出来事のように日本中や世界の事件や事故を知ることもできました。改めて世界中の情報に囲まれて生活していることを実感した日々でもありました。
 このようにインターネットやSNSで繋がっていると、世界中のいろいろな出来事を瞬時に、またいつでも知ることができます。ですが私は、便利ではあるけども、なんだか落ちつかない気持ちにもなりました。そんな時、ある新聞記事に眼が止まりました。

 それはある美術館の取り組みに関する記事でした。美術館と言えば、作品保護のために館内撮影禁止、が一般的ですが、ある美術館が撮影OK、そしてSNSへの投稿を推奨し、一人でも多くの人に「いいね」を押してもらい作品のすばらしさを広めてもらおうという取り組みを始めたことに関連するモノでした。
 記事は次のように続きます。かつて美術作品の鑑賞は、「頭がつかれる」ほど見つめ、自分の人格の一部にすべく集中し時間を費やした。見たという体験を自分の中に取り込み自分のモノにするのには時間がかかる、その時間をかけることができずSNSに投稿し「いいね」をもらうことに満足していたら、作品と向き合って得た感動を自分の中に取り込むことはできず、作品から得た感動も消えてしまうのではないだろうか、という内容でした。
 皆さんは、どう思いますか?
私は、最初SNSに絵画の写真を投稿することは、芸術が身近になり気軽に楽しめ、この冬休みの私のように遠方で行くことができない人にも楽しめるなぁ、と思いました。けれども、「頭がつかれるほどみつめる」という言葉にはっとさせられました。
 私が最近触れてきた情報は、あまりにも多く、次々と入ってきてきたから、情報におぼれ落ち着かない気持ちになったのかもしれません。実物に触れ、じっくりと時間をかけて、目の前にあるモノと向き合い、頭がつかれるほど考えることはありませんでした。そのように受け止めることができないくらい、多くの情報の中に私たちはさらされています。

今日の聖書のみ言葉は「若枝が生えて実を結び」とあるように、預言者イザヤが希望を語っているケ所です。なぜこのような希望の言葉を記したのか、理由は11章より前に書かれています。
このとき、イスラエル王国はアッシリア帝国という強大な国に滅ぼされようとしていました。それはアッシリアが攻めてくると、王たちは様々な目の前の情報に振り回され、しっかりと決断を下すことができなかったからです。また王たちは神様よりも自分の知恵や力に頼っていたので、その力が行き詰って滅びてしまったのです。
先にお話ししたように、私たちの生活は便利になり、情報にあふれています。人間は科学技術の進歩により、自分たちを過信して、なんでも支配できるように錯覚します。そのせいで時に人を傷つけたり、奪ってしまったりしていないでしょうか。
そうではなく神様が「よい」とされる生き方を求めることが大切なのです。
イザヤ書では、王たちの失敗から、神様が求める生き方が生まれてきます。イザヤの語る「若枝に宿る実」とされる人は、それまでの王たちの姿とは異なるものでした。2節にあるように、その人の上には「主を知り、畏れ敬う霊」があります。また4節にあるように「弱い人のために正当な裁きを行い、貧しい人を公平に弁護する」という生き方です。このイザヤが予言した言葉を聞いてある人物が浮かんできませんか。そう、イエス様ですね。
イエス様の姿を見るとき、私たちはいろいろな情報に振り回されて、大切なことを見失っていないか、が問われています。

新しい年、必要以上に情報に振り回されないようにしたいものです。そして、芸術作品に限らず、時には、物事にじっくりと向き合い、感動し、心を豊かにすることに時間をかけてください。そして何より、神様のみ心にかなった生活ができているか、自分に問いかけながら、これからの1年を過ごしていきましょう。