放送礼拝 黒田先生

10月29日(月) 放送礼拝 詩編81編11節
<お話>
 皆さんは、「祈り」は聞かれると信じていますか、思っていますか?キリスト教では「祈り」を大切にします。実際キリスト教学校に通う皆さんも日頃、朝の礼拝、昼食の前、帰りの礼拝で祈る機会、また友人の祈りに心を合わせる機会が多くあると思います。ジョージ・ミュラーという人物は、キリスト者の中でも「祈りの人」として良く知られています。ミュラーは、19世紀にイングランド南西部のブリストルという町で、ただ「祈る」ことを通して、孤児院を設立・経営した人物です。当時イギリスは産業革命を経て世界一の座に君臨し、繁栄をしていました。しかし一方で、貧富の差は拡大し、労働者階級は貧困に苦しんで、親や頼る人のいない多くの孤児が生み出されました。その孤児たちは「救貧院」という国の施設に収容され、そこでは最低限の食事しか与えられず、設備は不潔・不衛生であり、さらには子どもであっても、勉強はさせてもらえず肉体労働を強制されました。ミュラーはそのような状況に心を痛め、貧しいスラム街に暮らす孤児たちを養い、またキリスト教教育を施す働きに生涯を捧げました。

 ミュラーの孤児院では、経済的に厳しい状況が幾度となく訪れましたが、ミュラーたちが祈った時に、必要なものは全て満たされました。例えば、ある時100人近くの孤児たちが朝食として食べるものが何もありませんでした。しかし、何もない状況で食前の感謝の祈りを捧げた時に、元々他の人に注文されていたけれどもキャンセルになったパンと牛乳が孤児院に届き、皆が食事にありつくことが出来ました。また、ある時には孤児院の孤児の数が増え、近所から騒音への苦情が寄せられ、孤児院を引っ越す必要が出て来ました。経済的には不可能な状況でしたが、祈り続けた時に、多くの献金が寄せられ、無料で設計や工事を請け負ってくれる建築家が現われました。さらには格安で土地を譲ってくれる地主が現れて、多くの孤児を養える広い土地を得て、大きな孤児院を建てることが出来ました。ここで驚くべきことは、ミュラーが経済的不足を外部の人々に対して、口外することは一度もなかったということです。それは、人間の力によるのではなく、ただ神のみが養ってくださる、養うことが出来るということを彼が証明するためでした。口外せずとも、実際に不思議な方法で一番良い時に一番良いものが孤児院に与え続けられました。

 この事柄は、わずか200年前に起った出来事です。これはミュラーが信仰深い人だったからなし得たことでしょうか。そういう面はあるかもしれません。しかし、それ以上に大切なことは「彼が自分の弱さを認めて、神の力に頼った」ということです。今日読んだ詩編81編11節の「口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう」という御言葉は、ミュラーが孤児院の働きを始めるべきか否かを悩んでいた時に、決心を与えられた御言葉です。彼はただこの御言葉を信じて、孤児院を始め、神に必要を求めて、その祈りは聞かれ続けました。

 当然、私たちが祈る祈りが、自分の思っているような形では聞かれないことはあります。祈っていたけれども望んでいる道が閉ざされることがあります。聞かれたとしても、聞かれるまでにとてつもない時間がかかることがあります。そのことは私たちにやりきれない悲しみや怒りを時にもたらすことだと思います。これまでの私自身もそうですし、ミュラー自身にもそういうことは多くありました。そのようなことに対して、私は他人に、「残念だったな。次に向かって頑張れよ」とか「我慢して、頑張れよ」などと軽々しく言うことは出来ません。それは、私が他人の思いを100%心の底から理解することは出来ないからです。けれども、神だけは私たちの全てを知って下さっています。人となってこの世に来て下さった神は私たちのこの世での痛みや悲しみも経験してくださっています。そして、聖書はエレミヤ29:11にあるように、神の計画は私たちに「平安」と「将来」と「希望」を与えるためのものだと約束しています。ですから、私たちは、自分の弱さを認めつつも、大胆に口を広く大きく開けて、祈りによって私たちの必要を神に求めてみませんか?私たちの願いを神に知ってもらいませんか?神の限界を勝手に決めてしまわずに、祈りは聞かれると信頼してみませんか?そのような主体的な祈りによってこそ、私たちは祈りの力や大切さを、身を持って知ることが出来るのではないでしょうか。