放送礼拝 中原先生

マタイによる福音書第1章23節

私たちの人生において、「喜び」と呼べるものは大小様々、たくさんあります。自分の欲しいものが手に入ること、友人ができること、信頼されるということ、愛されていると感じる時、また、人生の計画が自分の願った通りに進むこと、、、しかし、喜びの数と同じだけ、いや、ともすればそれ以上に悲しみや苦しみを経験するのではないでしょうか。子供には子供なりの、若者には若者なりの、そして大人になれば大人なりの、悩み、苦しみ、悲しみというものがあるものです。そう考えると、私たちの日常は、一喜一憂の日々です。浮き沈みの連続です。

浮き沈みは、生涯、付きまとうのかもしれません。しかし、もし、全ての苦しみ、悩み、悲しみよりも大きな、そして確かな喜びが存在するならば、私たちは、しっかりとした足取りで、生きていくことができるのではないだろうかと、私は思うのです。依然として苦しみや悲しみはあったとしても、心に宿る確かな喜びを武器に、それらと戦っていける、と私は思うのです。そしてそんな喜びを獲得したいと、心から思います。

ちょうど今日から数えて、50日後がクリスマスです。少し気が早いと思われるかもしれませんが、私の尊敬しています、あるカトリック神父は、お正月を迎えた途端に、「今年ももうすぐクリスマスだな」というのが口癖だったようです。それくらいクリスマスというのは待ち遠しいものです。私もクリスマスが楽しみで仕方ありません。喜ばしい出来事だからです。

クリスマスは、なぜそんなにも喜ばしいのでしょうか。そのことを今朝お読みした御言葉から少しでも深く読み取りたいと思います。今日は時間の関係上、全てを読むことはできませんが、第1章から第2章を注意深く読んでいると、気がつくことがあります。それは、イエスさまの父ヨセフと、母マリアが一言も言葉を発していないということです。クリスマスの出来事の中で、明らかに彼らは重要な登場人物ですから、本当はその言葉があって良いはずです。事実、他の福音書にはしっかりとヨセフとマリアの言葉が書かれていますから、この違いは注目すべき点です。では誰の言葉が記されているのかというと、天使たちが告げる神の言葉なのです。私はある年に、このことに気がつきまして非常に驚きました。興味深いことはまだまだあります。このクリスマスの物語の中には、命令形の言葉がいくつも出てくるということです。第1章だけを見ましても、20節の「迎え入れなさい」、21節の「名付けなさい」、そして24節では「命じた通り」と、これらが命令であったことを念押しするかのように記されます。第2章にはさらにありますが、それは後でご自分で探してみてください。今、2つの特徴を見つけましたが、どちらも、筆者が意図していることだと思います。

命令形に関していえば、もう一つあります。これはルカによる福音書の第1章28節です。マリアがイエスさまを身ごもったことに、天使が祝福の言葉を告げるくだりがあります。「おめでとう、恵まれた方」と天使は言うのですが、このおめでとう」と訳されている言葉です。私が持っている、ある英語の聖書では、動詞一語で”Rejoice!”となっていました。「喜びなさい!」という命令形です。非常に興味深い言い方です。私たちは「喜べ!」と命令したり、反対に「喜べ」と命じられることはほとんどないように思います。ではなぜ、「喜びなさい」と命じられているのでしょうか。それは、私たち人間は、多くの場合、このクリスマスの喜びを受け取り損ねているからだと思います。だから、神の御使いは、「喜びなさい!嬉しい出来事なんだから!」と、命じなければならなかったのでしょう。そして、この私たちが受け取り損ねる喜びこそ、悲しみや苦しみや悩みに打ち勝つための武器です。

今、お話ししました命令形の言葉はみな、ヨセフに告げられた神様の言葉です。その御言葉にどんどん事を進められる神の姿が浮き彫りになっています。神ご自身が、クリスマスの出来事の中心におられるのです。マリア、ヨセフを始めとする登場人物たちは、どんどん事を進められる神様のなさることに、巻き込まれて行くだけです。しかも神様がどんどんことを進めて行かれるのは、ご自分に何か利益があるからではありません。ひとえに私たちのために働かれるのです。私たちのため、とは、一体どういうことでしょうか。それはしっかり22節で答えられています。インマヌエル、「神我らと共に」、このことを実現するため、そのために神ご自身が、ご自分の方から私たちの元に来てくださった、それがクリスマスです。これを自分のための出来事として信じ、受け入れるのか、それとも知識や教養として頭の片隅に入れておくのか。神が私たちと共にいて下さるために、まるで無我夢中で、どんどん事を進めてくださっているのに、どうして私たちが無関心でいられるでしょうか。

星に導かれるまま、非常に強い関心を抱いてやってきたのが、第2章2節に登場する占星術の学者達です。学者ですから、彼らが見た星に関する知識も教養も豊かだったに違いありません。しかし、もしも彼らがそのまま自分の国に止まっていたならば、知識は知識のままで終わり、主イエスにお会いすることはなかったはずです。でも彼らは、星に導かれるまま、クリスマスの真相を確かめるために、神様が起こした出来事を見るために旅に出ました。そうやって自分たちも、その神の出来事の中に入り込んで行ったのです。入り込んで行った時「学者たちはその星を見てこの上もなく喜んだ」とマタイによる福音書第1章10節はしるします。「この上もなく喜んだ」というこの言葉は、原文を直訳すると「大いなる喜びを喜んだ」という言い方がしてあるそうです。「大きな喜びを喜んだ」、おかしな言い方ですけれども、そうとしか表現することのできない大きな喜びがここにあるのです。そしてこの喜びは、2000年前に生きていた人々にのみ許された喜びではないのです。皆さん一人一人に、神さまが、「喜びなさい!私があなたと共にいる、それがクリスマスに実現したのだ!私もそのことが嬉しい!喜びなさい!」と、まず神ご自身が大きな喜びの中に立って、呼びかけてくださっているのです。本当に畏れ多い、感謝なことです。そういう心のうちからふつふつと湧き上がってくる喜びを、私は一昨年よりも、昨年、昨年よりも今年と、少しづつ深く理解し始めています。本当に嬉しいことです。

この世界は、冒頭で申しましたように、人に言えないような悩みがあり、あるいはまた独りぼっちで苦しんでいるのだと思うようなこともある世界です。自分のうちにある暗闇に、心閉ざす思いに暮れることも多々あります。人生の岐路に立って不安を覚えている人もいるでしょうし、これから先もそういうことは続いて行くでしょう。そういう私たちのところにイエス・キリストが来てくださり、「インマヌエル・(私はあなたがたと共にいる)」と一人ひとりに約束してくださっているのです。そしてこのことを、神ご自身が誰よりも喜んでいてくださるのです。暗闇の中にいる私たちのもとに来くることを、ご自分で選ばれた神の御姿をイエス・キリストに見る時、私たちはもはや、暗くなることはなく、喜びのうちに力を得て、確かな思いに生きることができます。この喜びをみなさんにぜひ知って頂きたい。この喜びを知りたい、得たい、味わいたい、クリスマスって私にとって何なのだろう、教えてくださいと、祈り始めるとき、神様はきっと分からせてくださいます。それは神様の願いなのですから。今年のクリスマスが、皆さんにとってそんな「大いなる喜び」を味わい知る歩みの始まりとなりますよう願って止みません。それでは一緒にお祈りいたしましょう。

神様、私たちは、あなたが与えて下さろうとする、本当に大きくて確かな喜びを受け取り損ねます。おろかな私ども許してください。自分たちがいかに大きな喜びを受け損なっているかに気づき、へりくだってあなたに祈り始めることができますように。そしてどうか私どもにあなたが与えてくださった大いなる喜びを、去年よりも今年、今年よりも来年、と深く知り続ける歩みをさせてください。このお祈りを主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン。