チャペルアワー

 

チャペルアワー

毎週火・水・木曜日に実施します。

チャペルアワーは、建学以来大切に守られてきた時間であり、教職員、学生、近隣教会の牧師など、毎回違った担当者からのメッセージを聴きます。心を静め、耳を傾け、自分と向き合う大切なひとときとなるでしょう。
学生・教職員だけでなく、メイプルカレッジを受講している方など、どなたでもご自由に参加いただけます。

 

時間:10時40分~11時00分
場所:グリンバンクホール(110教室)

 

 

 

 

「尊敬をもち、相手を優れたものと思って人助けをする」  2020年7月10日(金)

山梨英和大学 准教授 佐柳 信男

 

「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れたものと思いなさい」 (ローマの信徒への手紙12章10節)

 

 

私の担当するチャペルメッセージの聖書箇所に、今年のチャペルの年間標語にもなっている聖句を選びました。私は国際援助のプロジェクトに携わりながら貧困の削減を目指した研究をしていますが、研究活動をするにあたり、いつもこの箇所を念頭に置いています。

 

実はこの聖書箇所を年間標語として提案したのは私です。この聖句についての想いについて書きたいと思います。

 

国際援助は発展途上国の貧困を解消することが大きな目的ですが、実は、効果的でない援助も多く行われています。その典型例のひとつは、「貧しい人たちには施しが必要であり、金持ちの先進国には施す義務がある」という姿勢でお金や物資をとにかくバラまくやり方です。

 

私が関わっている国の中でもマダガスカルという国は特に貧しく、国民の8割近くが1日2米ドル未満で生活する「絶対的貧困」の状態ですので、世界中から「施し」がたくさん届いています。しかし、そのせいで彼らは自分で努力して貧困から立ち上がるのではなく、援助に依存するようになってしまっています。実際、私も現場に行って調査をすると、外国人ということで開口一番に「あなたは何を与えてくれるのですか?」と露骨に聞かれることも少なくありません。

 

でも、彼らの立場で考えると、数ヶ月先に稼ぎが増えるかどうかわからない研修に見返りなしで参加するよりは、施してくれる人が多い環境なので、いま確実にもらえるものをもらっておいた方が適応的で合理的です。依存してしまっている彼らを責めることはできません。

 

もちろん、目の前に溺れている人に泳ぎから教えている余裕はないので、飢えて命の危険に晒されている人たちに対しては緊急的な「施し」は必要です。しかし、差し迫った危機がない人たちに「施し」を与えることは、「どうせ彼らは自力ではできないので私たちが支えてあげなければいけないという、実は彼らを優れた者として見ておらず、尊敬をもって接していない意識の裏返しなのです。

 

援助において本当に大切なのは、彼らの持っている能力を認めて、それを引き出して彼らが自身の力で貧困を脱出するお手伝いをすることだと私は強く思います。

 

最近、学生が優れていて尊敬しなければならない存在であることをたびたび再認識させられることがあります。遠隔授業は準備する資料が多く、充分に推敲する余裕がないままに配信せざるを得ないこともあるのですが、ミスがあるといつも受講生が指摘してくれてとても助けられています。経験年数が長い分、心理学の知識の量は私の方が多いかも知れませんが、ミスを指摘できるということは、それを批評する能力には差がないことを示しているといえるでしょう。受講生の皆さんには支えていただいて本当に感謝しています。

 

 

「よく見て、聞いているか、石の叫びを」  2020年7月6日(月)

山梨英和大学 宗教主任 洪伊杓

 

兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れたものと思いなさい」 (ローマの信徒への手紙12章10節) イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。 (ルカによる福音書19章40〜42節)

 

イエスが子ろばに乗ってエルサレムに入ると、大勢の民衆が棕櫚の枝を上げ「ホサナ」(ヘブライ語の「救ってください」)と叫びながら歓迎しました。しかし、ファリサイ派の人々は、ナザレ出身の田舎者の姿に嫉妬しました。彼らの耳には「主の名によって来られる方、(…)天には平和、いと高きところには栄光」(38節)と叫ぶ人々の声が疎ましく感じました。彼らはこのように考えたのかもしれません。「イエスという人に何の力があって、群衆たちは救いを求め叫んでいるのか。その声を聞き、当たり前のように受け取るイエスという者もおかしい。本当に自分が救い主にでもなったつもりか。」だからファリサイ派の人々はイエスに群衆を厳しく罰してほしいと求めました。「先生、お弟子たちを叱ってください。」(39節) それに対して、イエスはこのように答えます。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」これは、イエスが旧約聖書で預言者ハバククが「まことに石は石垣から叫び 梁は建物からそれに答えている。災いだ、流血によって都を築き 不正によって町を建てる者よ。」(ハバクク2章11-12節)と語ったことを思い浮かべ語った言葉であったのかもしれません。

 

前回のメッセージに続けて「マスク」についてお話しましょう。神が口を一つ、目と耳を二つずつ与えて下さった理由は何でしょうか。「静観」と「傾聴」が求められているのではないでしょうか。自らの欲を吐き出すよりは、「救ってください」(ホサナ)と叫ぶ隣人の姿を見て、彼らの声に耳を傾けてほしいとお考えなのではないでしょうか。

 

ファリサイ派の人々は自らの「口」だけを使っていましたが、イエスは民衆の苦しい姿を見、その叫びに耳を傾けました。そして、ファリサイ派の人々がイエスを試した時には「石の叫び」を取り上げ、応酬しました。人間が勝手に使い、捨て、つまらないものとして無視してしまう自然の最も小さいものの叫びにまで目と耳を傾けました。仏教で「観音」という言葉があります。音を見るというのは矛盾する表現のように考えられますが、イエスは「石」を見ながらもそこから発せられる「叫び」をご覧になったのです。まさに「観音」を行なったということです。

 

イエスは都をみて泣き始めます。そして「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。」(42節)と、私たち人間の愚かさを歎かれました。ここで「泣く」という動詞に使われたギリシャ語「エクラウセン」(ἔκλαυσεν)は「大声で涙を流し嘆く」という意味です。疾病による苦しみ、経済的な困難に追い込まれた人々、そして私たち人間の愚かさのために呻いている自然のすべてのもののために、イエスとともに泣きながらよく見て、よく聞く人でありたいと思います。イエスが愛し、活動した涙の地「ガラリヤ」は、今日、どこにあるのでしょうか。そこからの叫び声に静観し、傾聴する「目と耳」になることを願います。

 

 

「心の倉に良い言葉を」  2020年7月3日(金)

日本基督教団甲府教会 牧師 齋藤 真行  

 

「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる」 (マタイによる福音書12章35節)

 

私は大学受験に二度失敗し、大学に行く目的をまったく見失った時期があります。当時、あらゆる勉強は自分にとって死ぬほど退屈なものでしたが、やりたいことがあるわけでもないので仕方なくしていました。生きている意味もわからず、可能ならばすぐにでもこの世から消えてしまいたいと考えていました。

 

そんな虚無の淵を歩んだ苦しみの日々が、重要な「原体験」になりました。味わった苦しみが「問いかけ」となって心を満たし始めました。「なぜ生きるのか」、「友とは、愛とは、命とは」・・・などと考え始めました。

 

そのころから、図書館や書店に頻繁に行くようになりました。友もなく、恋人もなく、まったく孤独な日々でしたが、不思議と楽しくなってきました。真理や知識を「探求する喜び」が目覚めました。図書館や書店が、最も刺激的な自分の居場所になりました。

 

そんな探求のなかで、聖書に出会い、教会に通うようになりました。聖書のなかのごく短い言葉に、自分の歩んできた過去の経験の意味を示される経験をしました。いつの間にか、人生が静かに、そして大きく変わっていきました。

 

振り返ってみると、それまで私の「心の倉」には、「悪い言葉」があふれるばかりに入っていました。人から馬鹿にされ、あざけられ、傷つけられた言葉や、自分が人を軽蔑し、否定してきた言葉が満ちていました。しかし毎日の苦しみを通して、よりよい言葉を求めてさまよい、心が先人たちの良い言葉に養われるようになりました。結果、考えや語る言葉も変えられ、行動も変えられていきました。

 

「善い人」になるか、「悪い人」になるかを分けるのは、日々聞き、語っている「言葉」によります。受け入れている言葉が価値観を生み、価値観が考えや行動を生み、習慣やライフスタイルを生みます。

 

もし「最善の言葉」というものがあるとするなら、それを聞き、語り続けることが、「最善の人生」を作ります。私にとってそれは、「聖書の言葉」でした。良い言葉に出会い、心の倉が満たされることは、よりよく生きるための最も大切な財産となります。

 

山梨英和大学で皆様が「良い言葉」を心の倉に納め、今後の素晴らしい人生の基礎を築かれますよう、心よりお祈りしています。

 

 

「よくみているのか」  2020年6月29日(月)

山梨英和大学 宗教主任 洪伊杓

 

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の 目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイによる福音書7章3〜5節)

 

脳の「紡錘状回」(Fusiform Gyrus)という部分は、人間の顔を判断するところだそうです。ここで人の目と口を見て、顔なのか事物なのかを判断します。ところが、西洋人と東洋人の間には、この感覚に大きな差が存在します。西洋人は主に口を見て、東洋人は主に目を見て人の顔、そしてその人の感情を判断するというのです。

 

日本の代表的なキャラクターであるハローキティは、アジア諸国では大変な人気を得ています。しかし、欧米ではあまり人気がありません。東洋人は相手の目を見ながらコミュニケーションするため口のないハローキティを見ても可愛さを感じますが、口を見ながら相手の感情を読む西洋人にとってハローキティは違和感を与え、愛情も生じません。口のみで目がないキャラクターを私たち東洋人が見たらどのように反応するかを考えると理解しやすいかと思います。インターネット時代に一般化している「イモティコン」(emoticon)も、西洋人は目には変化がなく口の変化のみで、笑っている顔「:)」と怒っている顔 「:(」を表現します。一方、アジアでは口ではなく目を中心に、「^.^」、「T.T」などで感情を表現します。

 

先週から「マスク」についてお話していますが、西洋では仮装舞踏会という文化があり、そこで目と鼻を被って、口は露出するマスクが流行しました。自らの魅力をアピールし、相手の感情を把握するため西洋人は目よりも口に集中します。このような習性も影響したのか、最近の新型ウイルス拡散の中で西洋人は口と鼻を被るマスクの着用を嫌がる人々が多かったようです。それが欧米における感染拡大の一つの原因になったという説すらあります。「社会的距離」による孤立感、経済的な困難などからくるストレスは、結局誰かに対する責任転嫁と敵対心、怒りとして表出されます。実際に欧米では有色人種への差別と暴力が増しており心配です。そのような現象を対岸の火事として、それを非難する声もアジアで聞こえてきます。

 

しかし、今日読んだみ言葉において、イエス・キリストは「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」(1-2節)と言われます。私たちの姿はこのままで良いのでしょうか。「武漢肺炎」という言葉を使い、特定国家や地域の人々への偏見を助長する声がいまだにあります。そして、有名な日系テニス選手に対してある漫才コンビが「漂白剤が必要」と言い問題になったこともありました。無意識に私たちの中に流れている偏見と無知を否定できるでしょうか。

 

夏になるほどマスクの着用はより大変なことになります。顔を覚えづらく、相手の目しか見ることができません。しかし考えてみると、今私たちの社会は皆がハローキティのようになっている「ハローキティ社会」ではないでしょうか。私たちは可愛いキティのように周りの人々を見ることができるのではないでしょうか。心を込めて「ハロー」と挨拶し、声をかけていますか。今こそ、相手の目の「おが屑」ではなく、むしろ染みがついた涙の跡を見つけ、慰めることができるようにと願います。マスク着用によって「目」と「目」をじっくり見つめながら過ごしているこの「ハローキティ社会」が私たちに与えた一つの課題です。

 

写真)口のみの変化で感情を表現する欧米のイモティコン(左)と口がない「ハローキティ」キャラクター(右)

 

「イモティコン」は感情(Emotion)とアイコン(icon)の合成語であるが、日本では「顔文字」と呼んでいます。 ハローキティを生み出した「サンリオ」の社長辻信太郎氏(92)は山梨英和幼稚園出身であり、「山(サン)梨(リ)の王(オ)」となることを目指して社名をつけたと言われます。

・写真出処:

https://biz.chosun.com/site/data/html_dir/2012/04/16/2012041602506.html

 

・参考資料:

北海道大学の社会心理学者である結城雅樹教授の研究論文(英文PDF)および関連記事。

https://lynx.let.hokudai.ac.jp/~myuki/paper/Face%20paper%20JESP%20in%20press.pdf

https://toyokeizai.net/articles/-/99715?page=2

https://www.appps.jp/300225/

 

 

「苦しみを通して成長する」  2020年6月26日(金)

山梨英和大学 専任講師 ダニー ブラウン

 

キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。・・・むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。(ペトロの手紙一 4章1~3/13節)

 

クリスチャンがないがしろにされたり、追い詰められ殺されたりした時代に、この聖句は使徒ペトロによって書かれました。生きとし生けるものは艱難辛苦に耐え、最後の目標として、悩みを克服して喜びを手にしたいと思うものです。でも神は私たちに、それ以外の目標を用意しております。

 

せんだって読んだ新聞記事のことです。1930年代の大恐慌を生き延びた人々の心理を調査した報告記事でした。記事のタイトルは内容を要約しています。「大恐慌の逆説:生き残り成功した子供」この調査は、大恐慌を経験した子供たちを彼らが六十代になるまで追跡したものです。この調査によると、大恐慌の時に最貧だった子供は、比較的恵まれた子供よりも、のちに社会的に成功したというのです。経済的に苦しかった子供は、人一倍勉強し、家庭での新たな役割を自覚し、アルバイトも率先してやったからです。その結果、恵まれた家庭の子供以上に、彼らは学年を重ねても一層教育を受けようと思い、就職後も出世がはやかったとのこと。

 

神を信じていないとしても、艱難は品性を生み、出世、名誉、金銭という報いをもたらします。でも、定年後や死ぬときには、こういった褒美は取り去られます。

 

イエスへの信仰があると、艱難の意味はさらに深みを帯びます。つらい目にあい、苦痛と恐れの中にあるとき、私たちは罪への誘惑に引っ張られずに、神および人を愛することを学ぶのです。祈るようにもなり、神を信頼して大船に乗った心持になります。この世の何物も失わないし、私たちに向けられた神の愛も失うことはない、と私たちは納得するのです。

 

ペトロは言いました。「それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです」(13章)。地上を離れ天国に行ったときに、神の栄光を私たちは目の当たりにしますが、ペトロの聖句はその時のことを言っています。イエスを信じさえすれば、天国でありあまるほどのご褒美が私たちを待っているのです。神を信じるならば、この世で感じる大いなるやすらぎにプラスして、失うことのない悠久のご褒美も、当てにしていいのです。だからこそ、艱難や喜びが一層意味あるものとなるのです。(翻訳者:川口 清泰)

 

Growing Through Suffering

Danny Brown

 

Therefore, since Christ suffered in his body, arm yourselves also with the same attitude, because he who has suffered in his body is done with sin. As a result, he does not live the rest of his earthly life for evil human desires, but rather for the will of God. For you have spent enough time in the past doing what pagans choose to do–living in debauchery, lust, drunkenness, orgies, carousing and detestable idolatry. . . . But rejoice that you participate in the sufferings of Christ, so that you may be overjoyed when his glory is revealed. (1 Peter 4:1-3 / 13)

 

      This scripture was written by the apostle Peter at a time when Christians were often rejected and sometimes hunted and killed. We all go through sufferings, and our goal is to get rid of the suffering and find joy. But God has other goals that we cannot see.

 

      I recently read a newspaper article that reported a psychological study of people who lived through the Great Depression in the 1930’s. The article title sums up the message: “The Great Depression paradox: children survived, then thrived.” The research studied the lives of children of the depression, from their childhood and continuing into their 60’s. The study found that children who were the poorest during the depression, later became more successful than children who had better circumstances. The reason is that children that suffered economically worked harder, took on new family roles, and worked part-time jobs as children. As a result, they later pursued more education and were quicker to be promoted in their jobs than children who suffered less.

 

      Even without faith in God, suffering can build character and bring rewards like job success, fame, or money. But those rewards will be taken away when we retire or later when we die.

 

      With faith in Jesus our sufferings can even take deeper meaning. When we go through hard times, in the midst of pain and fear, we learn to stay away from temptations of sin while also loving God and others. We learn to pray, to trust God to take care of us. We learn that anything in this world can be taken away, but no one can take away God’s love for us.

 

        Peter wrote, “So that you may be overjoyed when his glory is revealed.” Peter was speaking about dying and going to heaven where we will see God’s glory. If we believe in Jesus, we will receive a great reward in heaven. With faith in God, we can gain deep peace in this life plus look forward to eternal rewards in heaven that can never be lost. This brings greater meaning to our sufferings and our joys.

 

 

「よく聞いているのか」  2020年6月22日(月)

山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓

 

それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」(マタイによる福音書15章10〜11節)

 

ウイルス感染から自らを、そして他人を守るためマスクの着用が当たり前の日常になっています。「マスク」(mask)という言葉はどこから由来したのでしょうか。諸説ありますが、ヨーロッパの原始語である「マスカロ」(maskaro)がその後ラテン語の「マスカ」(masca)になったことと関係があるようです。この言葉は、元々猟をする時に顔に黒い色を塗って変装したことに由来し、その後公演の時に俳優が役を効果的に表現するために被る仮面を意味するようになりました。「道化者」を意味するアラビア語の「マスカラ」(maskharah)もその由来の一つと言われます。つまり顔を隠して、役を演じるために作られたのが「マスク」の始まりです。したがって、現在の私たちの日常は「仮面被り」の生活とも言えるかもしれません。

 

しかし、現在私たちが使っているマスクは顔全体ではなく、鼻と口を覆い、紐を両方の耳にかけます。目と耳を開いて、鼻と口を閉じられている今のマスクは、私たちに「沈黙」を求めているようにも感じます。これまでの私たちの日常を振り返ると、口から要らない話ばかりしていたのかもしれません。沈黙とは、しゃべりたくなる私たちの本能的な習性を抑制する訓練であるため、キリスト教においても「観想祈祷」(Contemplation Prayer)という沈黙の伝統があり、仏教においても黙言修行が行われて来ました。沈黙とは自らの経験や考えを最善とする欲望に陥った自分に「マスク」を被せる勇気でもあります。マスクは話したい時にもう一度悩み、慎重に考え、相手を配慮する練習を行うための一つの道具でもあります。

 

保健医療のみならず経済的にも不安定になっているこの時期、利己主義、嫉妬、嘲弄や非難、分裂、陰謀、怒り、暴言が私たちの口から無分別に表出され、「憎悪」というウイルスがより社会に蔓延するのではないかと心配です。ある小説家は「人々の話が多すぎて、言葉は疲れ果て、倒れてしまった」と嘆きました。旧約聖書に語られるバベルの塔以後、ばらばらになった言葉の混乱がこの時代はよりひどくなっているのではないでしょうか。新型ウイルスがもたらした現在の苦しみが私たちに問いかけています。あなたは他者の話を聞いているか。あなたはしゃべりすぎではないのか。

 

今日のみ言葉(10〜11節)には、イエスを試そうとしたファリサイ派の人々に対してイエスによる訓戒が記されています。弟子ペトロが「そのたとえを説明してください」(15節)と言うと、イエスは「あなたがたも、まだ悟らないのか。」(16節)と叱られ、もう一度次のように強調します。「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」(19〜20節)

 

イエスは、より具体的に私たちの口から出るものがどれほど汚染されているかを指摘します。私たちは、鼻と口にウイルスが入るのではないかと懸念し、いつも手を洗い消毒します。しかし、むしろ私たちの口から出る汚れた言葉がより深刻な問題ではないかと考える時間が必要です。今、この瞬間にも黙々と、隣人の声に耳を傾け、仕える人々がいます。このような人こそこの時代の汚れている「言葉」を浄化している存在ではないでしょうか。私たちもその道を共に歩んで行きたいと思います。それが難しいように感じたら、沈黙して一言心の中で祈ってみるのも良いでしょう。

 

 

「アカダマ、と名づけてみた」  2020年6月19日(金)

日本基督教団八ヶ岳伝道所 牧師 山本護

 

「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。
人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった」 (創世記2章19節)

 

 

「コナラ」だと思っていた伝道所入口の木に奇妙な実がついている。コナラではないのかね。数冊の図鑑やインターネットで調べても判明しません。若葉の季節に種子を内包し通常の実とは考えにくいし、突然変異か、何かの病巣なのでしょうか。謎めいた出来事は問いであり、判らないという困惑をしばらく楽しみました。

 

これが何なのか未だ不明なため、とりあえず「アカダマ」と名づけ、樹種を「アカダマの木」としておきましょう。思い起こせば子供の頃、自家命名の生物がたくさんいました。くさい匂いを出す「ヘッピリ芋虫」とか、暗い池にいたイボのある「ドク蛙」とか。

 

「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった(創世記2章19節)」。

 

現代でも、原始生活をする民の命名はおそろしく複雑多岐にわたっているそうです。要するに雄雌や幼老の形態違いが別種の生物区分になるため、ネーミングが全部異なる。そのことから類推するに、「初めの人」の被造物命名は随分苦労したであろう、と思います。私などは生涯の内、十か多くて二十くらいを命名するに過ぎず、この春は奇妙な物体を「アカダマ」と名づけて喜んでいるくらいですから呑気なものです。

 

男は女と共に、神に背いて「善悪を知る木の果実」を食べました(創世記3章6節)。するとどうなったか。男は「アダム」という名を得(3章8節)、その「アダムは女をエバ(命)と名付けた(3章20節)」。彼らはもはや被造物の基なる「土(アダマ)」由来の「人(アダム)」(2章19節)とは別分類になり、また男とか女とかの違いでもなく、唯一の存在「エバ」と唯一の「アダム」という存在になりました。これが神に背いて自らを負う(3章23節)「自由」なのかもしれません。

 

一人ひとりに名前があっても、群衆になると烏合の衆で、いちいち唯一の存在などと言っていられません。「俺一人いなくなっても変わらない」組織や仕事場。口では人権とか個性
とか麗しいですが、どんな世間でも規格内の差異が求められます。

 

「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す(ヨハネによる福音書10章3節)」。私たちは羊飼いキリストの「声を聞き分け(10章3節)、ついて行く(10章4節)」。名を呼ばれ、奥底の存在が呼び出されて自己が見出される。キリストはすべての羊を唯一無二の存在とする。ということは、群に適合する羊に躾けるのではなく、羊たちの調和と不調和による未知なる群が形成されるのです。

 

初夏に現われた奇妙な物体を「アカダマ」と名づけてみただけで、いろいろな連想が巡りました。これも命名に関する主なる神の促しなのでしょうか。

 

 

「多様性が活かされるコミュニティー」  2020年6月15日(月)

山梨英和大学 宗教主任補佐 大久保絹

 

ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。
倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。(コヘレトの言葉4章9〜10節)

 

京都御所近くの路地を入ると白い煙突と赤い瓦屋根の建物が見えてきます。かつて宣教師の住居だったこの場所は、1998年より「バザールカフェ」として、その歩みを始めました。カフェでふるまわれるアジア・エスニック料理は、就労の機会を得ることが難しい在日外国人によって作られています。美しい庭は、薬物依存回復者の支援団体であるダルクに連なる人たちによって整えられています。また庭内にはタイの山岳少数民族カレン族の織物などを販売する「カレン・ハウス」もあります。このように、働く場、回復する場、支え合う場でもあるのがバザールカフェです。そして、その場に集う学生、地域の人たち、外国人、セクシュアリティの課題を持つ人、HIVやそのほかの疾患を持つ人たちが、ありのままの姿で受け入れられ、尊重される場を目指し、今も歩みを続けています。 

 

旧約聖書『コヘレトの言葉』は、「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」という言葉で始まる(1章2節)、人生と社会についての無常と虚無が強調される知恵文学の一つです。コヘレトが自身の人生を振り返り、すべてのものは虚しいと語り、それを「空」と表しました。しかし、今日引いた箇所では「ひとりよりもふたりが良い」と記され、仲間があること、共に労苦し、助け合える仲間がいることの良さを認めています。人生や社会に虚しさを感じ、人との関係にも煩わしさがあるとしても、助け合い、慰め合い、認め合う関係の創出が、神の御心であること、ゆえに神の知恵により頼み、神を畏れる生き方が大切なのではないか、そうコヘレトは問いかけています。

 

バザールカフェに集うことによって救われ、そこに連なる仲間によって助け起こされた体験は、人知を超えた神の導きと愛の業に他なりません。このように私たちの歩みも神の愛の内にあります。だからこそ安心して、神から与えられた「生」を生き抜き、他者の存在を尊び、受け入れ、共に生きる者として喜びたいものです。山梨英和大学での出会いとキャンパスライフとが「空」の体験に終始することなく、多様性に寛容であることで、ますます豊かなものになるよう願っています。

 

写真) バザールカフェ入口(旧宣教師館「クラーパードイン」)
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ建築(1932年/昭和7年)

写真) 居場所としてのバザールカフェ

 

 

真理と自由」  2020年6月12日(金)

山梨英和学院 法人本部 事務局長 古屋秀樹 

 

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネによる福音書8章31~32節) 

 

新年度が始まり2か月半が経過しました。大学事務棟で働いている私にとって4回目となるこの季節は、これまでとは随分違ってしまいました。昨年までは学生の皆さんの活き活きとした姿と声がキャンパス内に満ちていて、特に大学生活のスタートに期待と不安が入り混じった様子の新入生の初々しい姿を嬉しく眺めていました。

 

しかし、今年は様変わりしてしまいました。新型コロナウイルス感染症による止むを得ない大学のクローズ宣言によって、皆さんは登校が許されずPCやスマホによるオンライン授業での学びを強いられています。残念ながら皆さんの姿を見ることができません。

 

感染予防は、今、最も優先すべきことであるので止むを得ないとは言え、登校できないことでの学生の皆さんの物足りなさ、残念さ、また不安は想像できるものです。特に新入生は、期待していたクラスメイト、サークル活動での先輩や友人、そして先生方との直接の出会いと語らいが、今は殆どお預け状態であり、いつになったら実現できるかわからない状況に、もしかして、自分は本当に大学生になったのだろうかと疑ってしまっているのかもしれません。

 

5月15日のチャペルメッセージで杉村篤志先生が、コロナ禍で私達が本当に失ったもの、それはこれまで享受してきた「自由」であったことを言い当てて、更に「自由」の価値、意味についても書かれていました。その通りだと思わされましたが、確かに私達、とりわけ大学生の皆さんは「自由」を失った思いは強いのだろうと思います。個人差はあるものの人生の中で最も「自由」を享受できる時は、大学生時代だと言われており、私自身の経験でもそのとおりなので、失望感、喪失感は大きいことでしょう。

 

では、今回、皆さんが失ってしまった「自由」とは、どんな「自由」なのでしょうか?
端的に言えば「行動の自由」ということになるでしょう。自由に人と会えない、自由に集まれない、自由に〇〇へ行けない、自由に〇〇が出来ない等の「行動の自由」の制限・喪失だと言えるでしょう。

 

さて、聖書では「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」と言っています。「真理」と「自由」の関係を、「真理」を知る事が「自由」を得る事になると言っていますが、これは一体どういうことなのでしょうか。この「自由」は少なくとも「行動の自由」だけでないことは明らかです。では、どんな「自由」なのでしょうか。

 

聖書の解釈とは離れますが私はこのように考えます。大学での「学び」の特徴は、高校までと異なり「真理」を探求することにあると言ってもよいでしょう。リベラルアーツの大学である山梨英和大学は特にその特徴が強いと言えます。だとすると、その学び、「真理」を求める学びは、「自由」を得ることに繋がるのだということです。大学での深い学びは、これまでの知識、経験に留まらず、古今東西の叡知に接して広い世界を認識すること、自分自身の偏見や狭い思考の束縛から解放されること、そのような「自由」を得る可能性があるということなのだと思うのです。それは、「行動の自由」だけでない「自由」の意味、価値を見つけ出すことでもあります。「行動の自由」を制限された今、皆さんが大学生としての学びによって、別の「自由」にも目を向けてくれることを期待したいと思います。

 

さて、この聖書箇所では、イエスの言葉に留まること、弟子になることが「真理」を知る事であり、「真理」を知ることが「自由」を得ることだと言っています。これだけでは、何のことか良くわからないでしょう。しかし、幸いなことに、キリスト教学校である山梨英和大学では、この「真理」を知る事が可能です。学生の皆さんには、是非とも、この「真理」と、そこから得られる「自由」についても関心を寄せて欲しいと願います。

 

最後に、皆さんがこの美しいキャンパスにおいて、これまでのように遠慮なく集って学ぶ日が一日も早く訪れることを祈っています。

 

 

「癒しと回復としての騒音」  2020年6月8日(月)

山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓

 

「主はこう言われる。この場所に、すなわちお前たちが、ここは廃虚で人も住まず、獣もいないと言っているこのユダの町々とエルサレムの広場に、再び声が聞こえるようになる。そこは荒れ果てて、今は人も、住民も、獣もいない。しかし、やがて喜び祝う声、花婿と花嫁の声、感謝の供え物を主の神殿に携えて来る者が、『万軍の主をほめたたえよ。主は恵み深く、その慈しみはとこしえに』と歌う声が聞こえるようになる。それはわたしが、この国の繁栄を初めのときのように回復するからである。」
(エレミヤ書 33章 10~11節)

 

山梨英和大学に来て三か月目です。静けさの中で、キャンパスには軽やかに飛ぶツバメの声しか聞こえません。山奥の寺や修道院に来ているような静寂さはいつの間にか当たり前のような日常になっています。新緑あふれる素晴らしい自然の中で、学生たちが話し合い、笑い、歌う声が聞こていないキャンパスは、まるで砂漠や荒野のように感じられます。学ぶ場に学ぶ人々がいないと、その場所は生命力を失ってしまったかのように感じられるからです。

 

ゼデキヤ王が治めた時代のユダ王国は、神との約束を忘れ堕落した結果、神の怒りを買いました。バビロンの軍隊がエルサレムを包囲し、ユダ王国の破滅を預言したエレミヤは牢獄に監禁されてしまいました。(エレミヤ書32章1~2節)それでも預言者エレミヤは、罪深いユダの地は荒れ果て、町には人々が見えなくなり、獣さえ生きていけない不毛の地になるだろうと語りました。(エレミヤ書33章10節)しかし、神は彼らを完全に見捨てる事をなさいませんでした。エレミヤ書33章6節で「見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す」とおっしゃる神は、回復の約束をも与えてくださいました。さらに10節には、「ユダの町々とエルサレムの広場に、再び声が聞こえるようになる」と記されています。そこは荒れ果て、人も獣もいなくなったが、「やがて喜び祝う声、花婿と花嫁の声、感謝の供え物を主の神殿に携えて来る者が、『万軍の主をほめたたえよ(…)』と歌う声が聞こえるようになる」(11節)と預言しました。

 

長引く新型ウイルスの事態によって、活力と力動性を失っているこの世界です。疲れ果て、皆が黙っています。時にはうるさいと思っていた日常の騒音が、むしろ恵みであったことをその「声」を失って初めて気づかされます。

 

4月には小さかった幼いツバメは、いつの間にか大きく成長してキャンパスを元気に飛び交って、巣立っていきます。さえずる声も軽快です。もしかすると、彼らの声は過ぎ去ってしまう「騒音」に過ぎなかったかもしれません。しかし、今年の大変な静けさの中でその「騒音」は賑やかな恵みの声、力強い回復への音として再発見されます。次は、山梨英和大学のキャンパスで学び、交わる中で大きく成長する学生のみなさんの声を楽しみにしたいと思います。「それはわたしが、この国の繁栄を初めのときのように回復するからである。」(11節)という神の約束どおりに。

 

 

「憐れみの神様」  2020年6月5日(金)

山梨英和中学校・高等学校 宗教主任 宍戸尚子

 

「ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか。
 イスラエルよ お前を引き渡すことができようか。
 アドマのようにお前を見捨て ツェボイムのようにすることができようか。
 わたしは激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる。」 (ホセア書11章8節)

 

紀元前4世紀の哲学者エピクロスは、心穏やかで静かな状態や心の平安を求め、“社会から隠れて生きよ”と説きました。世界史や倫理の授業などで知っている人もいると思います。エピクロスを中心とするこの派の人たちは、ある庭園で共同生活をして、社会の出来事や他人の心の動きに興味関心を持ちませんでした。この人たちは神様もそうだと考えました。たくさんの神がいると考えてその存在を信じてはいたのですが、その神々は自分の楽しみにばかり夢中で、人間や人間世界の出来事には全く興味がないと思っていたのです。神はいるけれど、人間に興味がない。近づいたり語りかけたり、思いやったり、いつくしみの心を持ったりはしないということです。

 

旧約聖書のホセア書には、「お前を見捨てることができようか。」「お前を引き渡すことができようか。」「わたしは激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる」と語られます。聖書の神様はエピクロス派の人たちの神様と随分違います。「エフライム」とか「イスラエル」は旧約聖書の民のことですが、私たち人間を表しています。そして「アドマ」や「ツェボイム」はその昔、悪のゆえに滅びてしまった町の名前です。“私はあなたを見捨てることなどできない。滅びるままにただ見ていることはできない。” 聖書の神様は、私たちのために「激しく心を動かされ」、さらには「憐れみに胸を焼かれる」そういうお方だというのです。そして罪ある私たちのために大切な独り子を十字架におかけになって、ご自身の痛みはさておいて、私たちをゆるし、愛する決断をされるお方です。

 

聖書の神様は私たちに対して、興味がありすぎる、おせっかいなほどのお方です。私たちは自分の心の穏やかさを求めて、他人のことには興味を持たずに生きようとします。でもそんな私たちのために「激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれ」て、何とか私たちを救おうと願っている神様がおられることを、忘れないでいたいと思います。そして私たちも毎日心を動かされながら、隣人と共に生きていきたいと願います。

 

写真) 山梨英和中学校・高等学校 グリンバンクチャペル

 

 

「神への謙遜」と「神からの知識」  2020年6月1日(月)

山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓

 

「財産は金持ちの砦、自分の彫像のそびえる城壁。破滅に先立つのは心の驕り。名誉に先立つのは謙遜。聞き従う前に口答えをする者 無知と恥は彼のため。人の霊は病にも耐える力があるが 沈みこんだ霊を誰が支えることができよう。聡明な心は知識を獲得する。知恵ある耳は知識を追求する。」(箴言18章11〜15節、新共同訳)

 

新型コロナウィルスの事態は前代未聞の文明史的転換の意味を持っています。もちろん過去にもウイルスや細菌などによる疫病はありました。最近のMARSのみならず、歴史的にも14世紀ヨーロッパの人口3分の1を奪ったペスト、インカ帝国の人口の90%が亡くなったヨーロッパ発の伝染病、20世紀初頭に5000万人の命を犠牲にしたスペイン風邪があります。にもかかわらず、新型コロナが前例のない現象であるという理由は、ウイルス自体ではなく、それに直面した後の人類の態度が異なるということです。

 

カミュが小説『ペスト』(1947)で描いた疫病(黒死病)は、合理性に欠けた「不条理」を指摘すると同時に、絶対的な限界を感じる人間の無気力を表す言葉でもありました。恐ろしい伝染病を経験した人間は教会に集まり神に祈りました。小説『ペスト』のパヌルー神父も、疫病は神による裁きであるから悔い改めよと力説しました。しかし教会に集った人々は次々と病気に罹り、多くの人が犠牲となりました。神への謙遜はありましたが、神からの知恵に対しては見過ごしてしまったようです。

 

昨日は聖霊降臨日(ペンテコステ)の主日でした。600年前、ペストが襲った際には礼拝堂に人々を集めたカトリック教会は、現在ミサを中止し、各地のプロテスタント教会も動画による遠隔礼拝や短縮した礼拝で主日を守っています。私たち山梨英和大学のチャペルもこのようなウェブ上でのメッセージ配信とキリスト教教育週間の動画配信を試みました。これは確かに今までには経験したことのない前代未聞の文明史的な転換です。このような経験を通して、私たちは礼拝堂や教室で人々と対面する日常がいかに大切であるかに気づかされます。それでも、ウェブ上でも顔を合わせ、つながっていることを再確認できます。これこそ今の世代に与えられた聖霊による「絆」ではないでしょうか。

 

今日の箇所によると、欲望に従って来た私たちは、謙遜を失い、神から与えられた自然を勝手に破壊し、そこからの富を蓄積しながら自らを守ってくれる城壁だと錯覚し、高慢になりました。(11〜12節)しかし今、代表的な大国や大都市はどのようになっているでしょうか。ある人は、マスクを日常的につけることに対して、これは不満や批判、悪口が多い人間の口を塞ぐために神がお考えになった結果だと言いました。口を慎み、隣人の言葉に耳を傾け、何よりも神の声に耳を傾けることが求められるのではないかと言うのです。本日のみ言葉にも「事をよく聞かないで答える者は、愚かであって恥をこうむる」(13節、口語訳)とあるように。14節には「人の霊は病にも耐える力があるが、沈みこんだ霊を誰が支えることができよう」と問うています。「支えるお方」はまさに「絆」を結ばせてくださる聖霊なる神ではないでしょうか。

 

現在、私たちは最先端の情報網を用いながら大変な患難を何とか乗り越えるためみんな努力を惜しみません。「さとき者の心は知識を得、知恵ある者の耳は知識を求める」(15節、口語訳)と記されているように、聖霊なる神とともに神に与えられた知識や技術によって互いがつながっていることを確認するのです。このような時こそ「神への謙遜」と「神からの知識」を共に求める私たち山梨英和大学でありますようにと願います。いつかこの危機を克服した後、チャペルと教室で再会を果たした時、この恵みに一層感謝し、その一瞬を大切にしたいと思います。

 

 

「身近な幸福の光」  2020年5月22日(金)

山梨英和大学 専任講師 大井奈美

 

主よ、あなたは 御業を喜び祝わせてくださいます。わたしは御手の業を喜び歌います。(詩編92編5節)

 

【写真1】

 

【写真2】

 

コロナウイルスをめぐる試練に直面するなかで、身近な幸福に目を向けてみたいと思います。

 

山梨に住み始めたとき、明確な「春」をはじめて体験したように感じました。桜、花桃、こぶし、沈丁花、ライラック、藤、花水木、つつじなど、花々が途切れなく一気に咲いて、まるで命が復活するような活力を感じさせてくれます。沈丁花のフルーティな匂い、ライラックの清潔な香りなど、心まで吸い込まれるような香りにもよく出会います。

 

【写真1】は、2017年に笛吹市の釈迦堂遺跡近くで撮影した花桃です。山梨の明るい光は、コントラストが強くて彩度も高い、華やかな世界を感じさせてくれるようです。その光のなかでは、文字通りまぶしいほど鮮やかに色彩が輝くように感じます。

 

通勤途中には、雪で真っ白なアルプスが、遠くの青空にくっきりと映えています。道端のせせらぎには、辺りに季節の草花が咲き揃い、亀、カルガモやマガモのつがい、アオサギ、カワセミ、セキレイなどが暮らしています。その一部は愛称をつけることができるほど毎日同じ場所で餌を取っているので、一緒に生きているような感覚になります。

 

隣県の高原・長野では、春というより秋から冬に、その清澄で凛々しい雄大な美しさが際立つように思われます。長野の冷たい空気に冴えた紅葉は、山梨の優しい秋の光に映える紅葉とは異質に感じられます。あまり星もまたたかないほど澄んだ空気の長野では、広大な空からの透徹した光によって、遠くの山の裾野まで見通すことができます。長野の爽やかな色彩は解放感を、山梨の明るく温かな色彩は生きる喜びを、それぞれ与えてくれるように思われます。

 

この圧倒的に美しい山梨のなかでも、キャンパス内は、四季をつうじて、どこを見ても絵葉書にできるような美しい環境だと感じています。

 

【写真2】は4月下旬の朝8時頃にキャンパス内から撮影した風景です。朝の光は特に素晴らしく、山梨本来の強くて明るい光に、エッジがきいた感じが加わるように感じられます。そのため、離れた山の木々も目の前の若葉も同じようにくっきりと見えて、内側から発光しているかのようです。山梨では「春眠暁を覚えず」ではなく、「春はあけぼの」とばかりに、朝の美しさに「目が覚める」思いがします。

 

もちろん、夕焼けから宵、そして夜にも別の美しさがあります。キャンパスの高いメタセコイアの枝を透かして、金星が輝きます。月が満ちれば、影ができるほどの月明かりです。惑星が光の筋を伸ばして、見事な星型を空に形作っています。地上では、青信号のような青緑色がまじる、繊細で精巧にも見える夜景が、落ち着いた華やぎを心に与えてくれます。

 

このように、今身近にある自分なりの幸福に目を向けたら、試練を生きる励ましをもらえるかもしれません。

 

 

「単独行、むしろ恵みの時間」  2020年5月18日(月)

山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓

 

「この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。」(エフェソの信徒への手紙3章8〜9節)

 

昨年5月5日、北アルプスの燕岳山上で朝を迎えました。日の出と富士山が目に入りました。1年後の今、北アルプスの山荘はコロナのためすべて閉鎖され燕岳山上は寂しいことでしょう。燕岳に一緒に行った友人が加藤文太郎という人物を教えてくれました。日本の山岳人から最も尊敬されている人物。神戸造船所の労働者だった彼は、六甲山脈縦走を経験した後、北アルプス縦走にも挑み、1925年に初めて登った山が燕岳でした。以後、冬山として最初に挑戦したのが山梨の八ヶ岳連峰でした。

 

なぜ彼が尊敬されるのか、二つの理由が考えられます。加藤は欧米人が勧める登山靴を履かず、労働者の「地下足袋」を履いて山を歩きました。先端装備で武装し山を征服する高慢な姿勢ではなく、山に畏敬の意を表し謙遜に歩いた人でした。彼は3000mのアルプスを経験しながらも、若い時に自分を鍛錬してくれた神戸の高取山にも度々登りました。328mの低い山であっても彼にとってアルプスと変わらない偉大な山でした。

 

そして彼はいつも一人で山に登りました。まるで「神の前で我々は皆主体性を持つ単独者である」と述べた思想家キルケゴールのように、彼は山に対して常に独りで向き合いました。1929年の正月に八ヶ岳の赤岳山頂に立った彼は次のように自問自答を繰り返しました。「今日は元日だ、町の人々は(…)嫌になるほど正月気分を味わっていることだろう。(…)それだのに、なぜ僕は、ただ一人で呼吸が蒲団に凍るような寒さを忍び、凍った蒲鉾ばかりを食って、歌も唄う気がしないほどの淋しい生活を、自ら求めるのだろう。」怖くて不安ばかりでも、彼にとっては山が友であり、慰めであったに違いありません。孤独な山道を歩いた加藤は、結局30歳という若さで槍ヶ岳登山中に遭難し天に召されました。

 

彼の登山記録や文章は死後『単独行』(1941)という遺稿集になりました。富士山頂の観測所で働いていた新田次郎は、真冬に一人で登る加藤との出会いを小説『孤高の人』に記し、その他にも『単独行者:Alleingänger』という評伝が発表されるほど、加藤は現代の日本山岳人たちに勇気を与える精神的な柱となりました。1960-70年代に日本人がエベレストなどヒマラヤ山脈を登り始めた時も加藤の存在が大きかったことでしょう。故郷の高取山が加藤の励ましになったように。

 

コロナのため私たちは部屋で独りになる時間が増えています。辛く寂しい一人の山歩きのような日々です。こんな私たちに、投獄され孤独な時間を過ごしたパウロは今日のみ言葉を伝えています。ローマ帝国市民としての特権を捨て、キリストの福音を伝え始めて受けた試練…それでも彼が語るのは「恵み」です。それは天地を創られた「神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画」、つまり、独りの人間としてこの世にイエス・キリストが来られたということです。十字架の死を覚悟し、最も孤独な生を歩んだ人。「単独行者としての人間イエス」と向き合う時、私たちも「孤独な一人」として前に立たされます。山梨英和大学で学び、また働いている皆さんは、孤独な人間イエスと出会い、この時を「恵み」の時として過ごしていければと願います。登山家、加藤のように私たちの孤独な姿も誰かの慰めになるかもしれません。

 

 

写真-上)燕岳から眺められた槍ヶ岳、2019年5月4日 (撮影:筆者)
写真-下)燕岳から眺めた山梨方面の日の出、2019年5月5日(立っているのが筆者)

 

 

「自由を得る」ために  2020年5月15日(金)

山梨英和大学 人間文化学部 専任講師 杉村篤志

 

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」 (ガラテヤの信徒への手紙 5章13節~15節)

 

政府による緊急事態宣言が出された4月7日以降、夜更けに甲府駅北口のコンビニで買いものをする機会が増えました。お店が営業を続けてくれていることはありがたく、美味しいスナック菓子をいくつか新たに発見するなど、思いがけぬ僥倖にも恵まれています。それでもやはり、静まりかえった駅前の暗闇のなかを歩いていると、侘びしく息詰まるような心持ちになります。唯一、ほっとした気分にさせてくれるのは、よっちゃばれ広場のスロープに響く耳慣れたスケートボードの音です。

 

この春、世界中の数十億もの人々が、それまでふつうと考えられていたことが突然そうでなくなる、という経験をしています。ごくあたりまえだった様々なことが失われ、禁じられ、ときには非難の対象にまでなっています。自分や家族が生きるために働くことですら、業種によっては、許しがたい反社会的行為として咎めだてられる状況です。ほんの数か月前までは想像だにしなかったことです。

 

子供から高齢者まで、人間は概して、自分と異なる価値観や行動原理をもつ人のふるまいに眉をひそめあうことが大好きなもので、そのことを通して、「ふつうの人」と「そうでない人」のあいだの線引きを日頃から繰り返しています。非常事態ともなると、そのような傾向は先鋭化して現れます。緊急事態宣言が出されて以来、たびたび頭に浮かんだのは、もし自分が18歳のときに現在の状況に置かれていたらどういう行動をとっていただろう、ということです。磔(はりつけ)にされそうな内容なので、その答を記すことは慎みますが、イエス・キリストは赦してくださると信じます。

 

人間にとって、自由とは何を意味するのか。以前、関西在住の牧師さんと、『カラマーゾフの兄弟』でドストエフスキーが探求した神学的問いについて話をしたことがあります。「大審問官」の問題として知られる、「神のご計画」が内包する残酷さをめぐる議論です。その際、印象に残ったのが、牧師さんが口にした次のようなことばです。「神さまは人間を愛しているがために自由を与え、その自由には、愚行や罪をおかす自由までもが含まれているのだと思います」。それは「大審問官」をめぐる問いへの直接の答ではなかったのですが、人間の自由の価値について考える際、私はそのことばをしばしば思い返します。

 

現在、我々が置かれている困難な状況について、世の中では様々なことばが交わされています——自粛、自制、がまんの時、などなど。しかし、あまりにも明白すぎてつい忘れ去られがちなことのひとつは、ウィルス感染拡大とそれに伴う「自粛要請」のもと、我々が失ったのが、それまで享受してきた自由であるという事実です。コロナ禍をめぐる国内報道において「自由」の語が重みをもって用いられることは殆どないように見受けますが、この春、まちがいなく我々は多くの自由を失ったのであり、また、みずから進んで自由を手放すことを求められてもきたのです。

 

もちろん、このことは、自分自身や身近な人々の身体をまもるためにも、また公衆衛生の観点からもやむを得ないことです。しかし、それでもやはり、社会的存在としての我々がこの春に何を失ったかということは、しっかりと皆さんの意識に留めておいてもらいたいと思います。ものごとの本当の価値はえてして失われた時にはじめて分かるものですが、そのためには最低限、何が損なわれ、何が失われたかを認識している必要があるからです。

 

学生の皆さん、とりわけ新入生の方々には、皆で心をひとつにして自粛をがんばろうなどと、世間が是認する「ただしい答」を行儀よく繰り返すだけで満足するのではなく、この困難な状況のもとで、人間らしく生きることの意味や自由の価値について、それぞれのしかたで粘り強く考えを深めていってもらえればと思います。他人とけっして分かちあえない自分の魂の奥底にある孤立の感覚や、「皆」のうちから排除され、忘れ去られているかもしれない無数の人々の生——そういったものにも思いを至らせながら、自分自身のことばで世界を把握しようと努めてもらいたいと思います。大学とは、模範解答の先にあるものを時間をかけて探り出そうとする共同体であり、敬意とともに互いを認め合う自由な精神の交わりの場でもあります。

 

みどり豊かな山梨英和大学のキャンパスで皆さんと一緒に学ぶことできる日を心待ちにしています。

 

 

「魂を生き返らせてくださる主」 2020年5月11日(月)

山梨英和学院 理事長 小野興子

 

賛歌。ダビデの詩。
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。死の影の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。(詩編23編)

 

はじめまして!私はこの4月、山梨英和学院の理事長に就任いたしました小野興子と申します。

 

この非常事態の中、新入生・在学生・院生の皆様と親しくお目に掛かる機会を与えられず残念でなりません。しかし、私自身はこの横根キャンパスは慣れ親しんだ大切なキャンパスです。非常勤講師として大学生の皆様と語り合い、チャペルでの祈りを共に捧げたことを今思い起こします。同時に学院理事会への参加のために、今も訪れている大切な場所でもあります。

 

私は山梨英和中学校・高等学校で学びました。英和中学校に入学し、初めて聖書と出会い、初めてこの詩編23編を暗唱いたしました。今朝の御言葉は、既にご存じの方も多いと思います。やさしく、美しいダビデの詩は、私のみならず仕事に連なる多くの方々の心の支えとなるみ言葉であると感じております。

 

私は英和高校卒業後、看護学を専攻しました。英和高校での恩師の勧めによるものでした。「いのちを守るためには高い学識が必要」と説いてくださったのです。卒業後は、母校付の聖路加国際病院での臨床体験を経て山梨に戻り、看護の教員となりました。病む方、老いてご自分の生活が困難になった方の生活を整え支援していくことを学生と共に考える日々が続きました。治療して健康を取り戻していく方は良いのですが、どのような治療によっても回復できない方々の苦悩が私の心を捉えました。それ以来私の専門分野は「終末期医療・ケア」となりました。命の限界を知りつつ生きる方々(がん末期、難病等)は人間が生きることへの様々な「問い」を投げかけてきます。しかし健康な私たちの慰めの言葉はそのような方々の慰めや癒しにはならないのです。

 

今、目には見えない最小のウイルスが、世界中の人々を脅威に陥れ、命の危機をも感じます。今だからこそ、命の限界を知りつつ生きる方々の毎日が少しだけ理解できるように思います。今、私達自身もどう生きたらよいのかを問いかけられているように思います。

 

本日、与えられました聖書のみ言葉 詩編23編はパレスチナの荒野を行く旅の厳しさと神の豊かな恵みと慰めを詩っています。荒野の厳しさの中を行く旅は決して楽なものではなかったはずです。そのような旅の中でも、神は豊かな安らぎと喜びを与えてくださるのです。いのちの限界に指しかかった方々も、そのことをケアする私達に気付かせてもくださるのです。

 

詩編23編について木田献一先生(※)は、「旅行く人間の信頼の詩」と題して「生きることの至福は主の家に帰り着き、いつまでもそこに留まること」、「これは生と死を超えた信仰者の喜び」と記しておられます。(木田献一『詩編をよむ』上P101)

 

医学や看護学においては身体的痛みを緩和することは比較的容易にできるようになっていますが、生死に伴う苦痛はそれを超えた神聖な人間としての備え(信仰)が必要であると気付くのです。

 

私は今も、できる限り病める方々の傍らに寄り添って立つ日々を続けたいと願っていますが、それは信仰者としての自らを問い続けると同時に生命の危機に直面している方々からも多くを学びたいと願うからでもあります。また、英和大学の学生の皆さんからは若さをいただきながら、歩みたいとも願うものです。

 

※木田献一先生は山梨英和大学の元学長・院長であられました。

 

 

「孤立が成長を育むときになる」 2020年5月8日(金)

山梨英和大学 人間文化学部 教授 高橋寛子

 

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(コリントの信徒への手紙二 4章16節〜18節)

 

いよいよ来週から授業が始まります。

 

新型コロナウイルスの影響で、入学式やオリエンテーションも十分行えないまま、とりわけ新入生のみなさんは、不安や落ち着かない気分の中にいるのかもしれません。在学生のみなさんも(私も)、ずっと家にいて人と会えない日々が続くと、パソコン画面を通して久しぶりに見る友人やゼミ仲間の顔に安堵し、少しおしゃべりをするそれだけのことが、かけがえのない愛おしい時間にも感じられるのではないでしょうか。

 

今、世界中が危機的な状況にあり、人間の存在が脅かされています。そして、普段ひとりでいることを恐れ、常に誰かと群れようとしてしまう私たちが、あたかもずっと防空豪にいるような生活を送っています。この困難によって、私たちはひとりでいることや「孤」でいることを否応なく求められている、と言うこともできるでしょう。

 

先日、ある知人から医療人類学者アーサー・クラインマンの最新エッセイ(4月初めにアメリカの新聞に掲載されたもの)が送られてきました。彼は高齢で、すでに家族を看取って独りで生活しています。破綻する世界にあって、人はどのように創造的に生きられるのかについて深く考えさせられたのですが、とりわけ「孤立が成長を育むときになる」という言葉が響きました。

 

ついつい忙しく動き回り、他者に目を向け、外的価値基準に合わせてしまう私たちが、今「孤」であること、内的価値基準に照合しつつ生きることを迫られているようにも感じます。それは案外「自分自身をケアすること」とも繋がっているのかもしれません。

 

この困難な事態を即座に解決することは誰にもできません。しかし「答えがない、わからない」問いに向き合うことが学問の出発点であり、本学で学ぶ基盤とも言えます。底知れない不安の中にあっても、目をそらさず戸惑うこと・価値観を揺らされること・見えないものに心を注ぎつつ「孤」の時間を過ごすこと、そこに深い意味を感じつつ、みなさんのかけがえのない新学期の始まりを共に喜びたいと思います。

 

 

「命の息、復活の息」  2020年5月4日(月)

山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓

 

地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創世記2章5節~7節)

 

韓国ソウルの郊外の共同墓地に、ある日本人が葬られています。その人は山梨県北杜市出身の浅川巧です。墓碑には「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心中に生きた日本人、ここに韓国の土になる」と記されています。1910年、日本の植民地支配下に置かれた韓国はひどい収奪を経験しました。1914年に朝鮮総督府山林課林業試験場(現、大韓民国国立山林科学院)の職員として渡韓した浅川は、酷い伐木伐採で荒地と化した韓国の山地を見て誰よりも悲しみました。「朝鮮の現状を思ひ日本の前途を思ふと涙が出る。人類は迷つてゐる。何と云ふ恐ろしい迷の道だらう。」(1922年5月6日、『浅川巧 日記と書簡』68頁)との言葉からその思いがわかります。

 

森が破壊されると続けて川も土も汚染され、韓国の民衆は飢餓と伝染病に苦しみ、貴重な民芸作品もその命の息を失いかけていました。その中で浅川は、朝鮮白磁の保存と民衆の必需品である膳の芸術性を知らせるために努めました。朝鮮総督府が景福宮(朝鮮の王宮)を破壊する時には正門の光化門を守るために先頭に立ちました。何より彼は、故郷である山梨のような緑の山を韓国に残したい気持ちでいっぱいでした。日夜研究した結果、朝鮮の五葉松で露天養苗法を開発した彼は、韓国の山林緑化の基礎を築きました。命を失いかけた韓国の山、そして土から生じた民芸に「復活の息」を吹き入れたのです。そして1931年4月2日、急性肺炎で天に召され「韓国の土」となりました。

 

去る4月30日(木)、国連(UN)のグテーレス(A.Guterres)事務総長は新型コロナ収束後の「経済再生には気候変動対策が不可欠だ」と訴えました。(『日経新聞』2020年5月1日)人間の欲望による過度な生産と消費、競争と移動がもたらした全地球的な温暖化と砂漠化は、新型ウイルスの出現の原因であるという意見もあります。浅川巧は、カナダ人宣教師C.B.イビーが創立した日本メソヂスト甲府教会(現、日本基督教団甲府教会)で洗礼を受けた信仰者でもありました。のちに、この教会が中心となって山梨英和学院は設立されました。神が創造したこの世界と自然に対する敬愛に満ちた人でした。だからこそ、破壊され、受難を受けている朝鮮の山と土にも神がお与えになる命の息を吹き込ませたかったのでしょう。

 

イエス・キリストは復活した後、「息を吹きかけて」弟子たちに、「聖霊を受けなさい」と言われました。(ヨハネ20:22)ここでの「聖霊」はギリシャ語で「息」、「霊」、「風」という意味を持つプネウマ(Pneuma)です。もしかすると今のコロナ事態は、太初の神と復活したイエスが与えられた「命の息」と「聖なる霊」を喪失した状態なのかもしれません。その「息」を回復するために私たちは何をしなければならないのでしょうか。浅川巧が葬られている場の名は「忘憂里国立墓地」です。憂いを忘れる村…「神の息」を回復し、一日も早くこの試練を克服し憂いを忘れられる「復活の日」を迎えたいと祈ります。私たち山梨英和大学の共同体もその業に参加することを心から願います。

 

「命の息」を失った朝鮮の山河と民芸(白磁・膳など)に「復活の息」を吹き入れた浅川巧(1891-1931)

 

 

「希望の光」  2020年5月1日(金)

山梨英和大学 宗教主任補佐 大久保 絹

 

主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い。(哀歌3章22~23節)

 

ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、1905年24歳の時、県立商業高校の英語教師としてアメリカ・カンザス州から、滋賀県・近江八幡に来日しました。日本にキリスト教を伝えたいという強い使命感から、宗教や民族、文化の違いをこえた『近江ミッション』というグループを結成しました。また建築家、実業家としても、幅広い活動に力を注ぎ、隣人愛を実践しました。そうしたすべての活動において、ヴォーリズがもっとも大切にしたのは、いのちへのまなざしでした。それは、イエス・キリストが出会った人々に向けたまなざしと姿勢を模範とし、こどもや高齢者、その他社会的に弱さを感じている人たちへの配慮に溢れるものだったのではないでしょうか。

 

当時日本では結核が流行り、多くの人たちが苦しみと悲しみの中に置かれていました。命を脅かす病いに恐れを抱き、不安や嘆きに苛まれていたことでしょう。そのような中ヴォーリズは、結核を患っていた人たちが療養する「近江療養院」の開設を決め、治癒力が高められるような病舎の設計を手掛けました。その中に五葉館(希望館)というユニークな建物がありました。山梨英和の校章である楓の葉を思い浮かべてください。5つに分かれている楓の葉を間取りに反映させ、5つの病室が等間隔で扇状に配置され、どの部屋にも等しく新鮮な空気と光が入るように工夫が凝らされていました。心地よい空気の流れと部屋に降り注ぐ太陽の光によって、今日という日を生きる力が養われたのではないかと想像することができます。病いと向き合い、「なぜ私が」と不安に思い、「どうして私が」と嘆く只中、朝ごとに希望の光が注がれるように、そして建物を包み込むような神の愛が表されるように、五葉館の設計に祈りを込めたのかもしれません。

 

今日の聖書箇所である『哀歌』は、国家の滅亡という破局を経験した都エルサレムの住民が受けた苦しみと痛みをテーマとした詩文学です。苦難や哀しみが綴られていますが、神による救いの希望も祈られています。哀歌の詩人と同様、私たちは新型ウイルスにいいしれぬ恐れを抱き、一日の終わりには疲れを感じ、現状を嘆いています。しかし、朝ごとに、神の慈しみと憐れみが私たちを包み、神の計らいによって苦難が平安へと変えられるように祈りたいと思います。

 

山梨英和大学のキャンパスは、生きる力と希望が育まれるような建築物を日本各地に多く遺したヴォーリズの使命を受け継ぐ建築会社が設計しました。ここに集う私たちも、いのちを尊重するまなざしをもち、他者を理解し、共に生きる歩みを進めていきましょう。

 

Googleなどで下記の名称と住所を入力し、地図や航空写真をご覧ください。
■ 五葉館 〒523-0806 滋賀県近江八幡市北之庄町

 

 

「恵みとしての奉仕」  2020年4月27日(月)

山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓

 

彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。(コリントの信徒への手紙二 8章2節)

 

20世紀初頭、シュヴァイツァー、ガンジーとともに現存する世界三大セイント(聖人)と呼ばれた賀川豊彦牧師という方がいました。彼は、神戸の貧民村に入って貧しい人々を救済しました。貧民村の最も大きな問題の一つは伝染病でした。肺結核、肺炎、コレラ、腸チフス、ジフテリアのような伝染病は、その村で周期的に発生しました。賀川牧師は自らの経験を描いた小説で「ペストの時でもそうであるが、すべての伝染病の時にそうである」(『太陽を射るもの』353頁)と、伝染病は時代を超えて貧しい人々に、より致命的で、経済的な問題でもあることを強調しました。今、21世紀の新型コロナ・ウィルスも同じです。初めは保健医療の問題に絞られますが、今は経済的な苦しさも大きく懸念されています。多数の人々と毎日接触しなければならない低所得の労働者、会社の経営が苦しくなり給料が減り失職する人々、感染予防と治療においても経済的な困難のため見逃されてしまう隣人たち。

 

賀川牧師は、そんな彼らの経済的な安定を図るために、生協や労働組合運動などを展開した方です。当時、賀川牧師も肺結核などの伝染病で苦労しました。1922年にはここ山梨県吉田町の泉田精一牧師宅(現、日本基督教団富士吉田教会)に療養のため訪れ、河口湖や富士山を眺めながら講演活動をしました。その時に蒔いた種が実を結んだのでしょうか。数年前、「賀川事業団雲柱社」から山梨県南アルプス市の認定NPO法人「フードバンク山梨」が「賀川豊彦賞」の第2回受賞団体として選定されました。(『神戸新聞』2017年11月2日)この団体は、「未使用のまま廃棄される食品を経済的に恵まれない人々に、手書きの手紙を添えて届けるこまやかな支援活動など」をボランティアや食品会社、行政や学校とともに展開して来ました。また本学も支援に携わっています。経済的困難が拡がる最近、私たち山梨のこのような活動は大きな慰めになります。このような活動への関心と応援が、非常事態だからこそ私たちにより求められるのではないでしょうか。

 

今日の聖書のみ言葉は、マケドニアの諸共同体に宛てた使徒パウロの証言です。苦しみと試練、特に経済的な患難の中でも、マケドニアの信者たちは喜びを失わず、互いを助けました。パウロは4節で、彼らは「聖なる者たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたいと、しきりに私たちに願い出たのでした」と付け加えました。貧しい隣人は「聖なる者たち」であり、彼らを助けることは「恵み」であると語っています。私たち山梨英和大学に連なる者たちもキリストに従ったマケドニアの人々のように、この厳しい時期にも互いを慰め、施しながら過ごしたいと思います。

 

1909年から始まった賀川豊彦牧師の貧民救済活動は国際的な関心と応援を受けた。
(写真:米国メソジスト教会出版局)

 

 

「シャローム、あなたがたに平和があるように」  2020年4月24日(金)

山梨英和大学 宗教主任補佐 大久保 絹

 

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネによる福音書20章19~23節)

 

イエスが十字架上で死んだ後、彼の弟子たちは、家の中に閉じこもり、息をひそめて過ごしていました。イエスを失った悲しみだけがその理由ではありません。イエスを助けられなかったという後悔の気持ち、見捨ててしまったという自己嫌悪、自分たちもイエスと同じように罪に問われるのではないかという恐怖心を抱いていたからです。そういう絶望的な状況にある弟子たちのもとにイエスは顕れ、「あなたがたに平和があるように」と言われました。

 

悲しみ嘆くこと、不安に陥ること、先が見えず苛立つことは、新型ウイルスの感染拡大以前にも、私たちの日常の中にありました。しかし、感染がますます広がり、家の中に閉じこもって過ごすことが続くと、閉塞感が募り、心がざわついてしまう経験も日々多くなっています。いままで毎日のように会っていた学生のみなさん、まだ会うこともできないでいる新入生のみなさんもそうした経験をしているのではないでしょうか。そう考えていた先週、友人がある動画を教えてくれましたので、みなさんにもご紹介します。ニューヨーク市にある教会の聖歌隊のこどもたちの歌です。ラテン語で歌われているこの曲は、『Dona Nobis Pacem(われらに平和を与えたまえ)』という言葉を重ねて繰り返します。感染者が多く、命が奪われる恐怖の中に暮らす人たちの切実な祈りであり、平和への賛美です。

 

聖書において平和(ヘブライ語で「シャローム」)とは、単に戦争のない状態を意味するのではなく、共同体の中に祝福が満ちて、その共同体を構成する人ひとりひとりが、またその人たちの間に調和が満ちた状態を示します。そして調和とは、それぞれが持っている善きものを、それぞれの仕方で生かしていくものではないでしょうか。

 

果たして新型ウイルスが蔓延する以前の社会は、こうした意味で平和だったといえるのでしょうか。これほどの感染の恐怖にさらされることはありませんでしたが、争い、貧困、病い、抑圧、搾取などによって苦しいと感じている人たちは存在し、調和が保たれている世界とはいえませんでした。こうした混沌から、世界中の人たちが新しくされ、調和の中に生きることを願うとき、私たちは、偏見や差別意識の中に閉じこもるのではなく、ウイルスに打ち勝った後には、感染以前の社会でも苦しみを感じながら生きていた人たちが、ひとりでも少なくなるような世界を目指し、ともに「Dona Nobis Pacem」と歌いたいと思います。

 

キリスト教精神を礎とする山梨英和大学は、神が与えるよりよい平和が未来に約束されているということに希望を託すことができる共同体です。緊張を強いられ、不安の只中にあっても、主の平和のうちに生かされていることに心を留め、落ち着いて過ごしたいと思います。

 

Church of the Transfiguration
 The Little Church Choir 『Dona Nobis Pacem』

 

 

「偏見というウイルス」  2020年4月20日(月)

山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓

 

そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト·イエスにおいて一つだからです。(ガラテヤの信徒への手紙3章28節)

 

満開の桜に包まれた山梨英和大学のキャンパスは本当に美しいです。しかし、今年は同時に寂しさもありました。会いたかった学生の皆さんと会うことができなかったからです。今は桜も散り、新芽が吹き始めましたが、皆さんとはいつ会えるでしょうか。

 

ここで、私の心を慰めてくれる一枚の写真を紹介します。山梨に来る前に働いていた京都府宮津市にある丹後宮津教会で見つけた80年前の写真です。この写真は太平洋戦争が勃発したころに撮られたもので、人種や民族、国家間に嫌悪(ヘイト)が溢れ、互いを「ウイルス」のように扱った悲しい時代でした。当時の日本は植民地民をまさに「ウイルス」のように眺めていましたが、丹後宮津教会の牧師であった達常豊(たつ・つねとよ)先生は、朝鮮半島から日本に渡って来た人々に対して何の隔たりもなく温かく接しました。誰でも教会に来た人を心から歓迎し、こう言いました。「キリスト教においては国や人種の区別はありません。全て主にある者は兄弟姉妹ですから遠慮することはありません。」そして彼らとともに桜の木の下で交流の時を過ごしました。それを見ていたある学校の先生が「自分には到底できないことだ」と伝えると、達牧師は即座に答えました。「キリスト者であるなら、誰でも同じようにするでしょう。キリストに従う者は皆、兄弟姉妹ですから。」(達常豊『自叙伝-我が伝道の生涯』、1972年、p.44から引用)

 

コロナ・ウイルスによる非常事態によって、人々はウイルスを見ず、感染した人々をウイルスのように見始めます。韓国人は中国人を、日本人は韓国人を、欧米人はアジア人を嫌悪し、むしろ「憎悪と偏見のウイルス」がより拡散します。130年前に建てられた山梨英和学院の「英和」という言葉はどのような意味を持つのでしょうか。英米と日本、さらに西洋と東洋が互いへの偏見や誤解を乗り越え、キリストの教えによって調和することです。コロナ・ウイルスによる非常事態はいつか必ず収まります。しかし、偏見や誤解、憎悪や差別のウイルスは人類史から消えたことがありません。困難なこの時期に、私たち山梨英和大学に連なる者たちは、コロナ・ウイルスはもちろん、より深刻な私たち人間の心に潜む「ヘイト・ウイルス」を退け、克服していく道を歩んでいきましょう。山梨英和がこのような学びと実践の場になるよう願います。朝鮮の人々を温かく招いた達牧師の丹後宮津教会のように、山梨英和大学の宗教主任として新たに招かれた外国人宣教師である私がこの大変な時期に皆さんにお伝えしたいメッセージとお願いです。

 

戦時下、朝鮮半島出身のキリスト者たちと交わる丹後宮津教会観桜会(後列右から二番目が達牧師)

 

 

「真理を求める大学として」  2020年4月17日(金)

山梨英和学院 院長 朴 憲郁

 

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカによる福音書10章38節~42節)

 

新学期が始まり、新入生と在学生の皆さんにとって、学問研究を中心とする山梨英和大学でのキャンパスライフが始まりました。大きな期待を胸に膨らませていることと思います。私はこの4月から山梨英和学院全体の院長に就きましたので、新入生と同じく不慣れな日々がしばらく続きます。ところが今は、不慣れどころか、国内外で突如襲っている新型ウィルス感染の猛威を前に、皆一様に不安と怖れに包まれ、入学式の取りやめと学年暦の大幅な変更を余儀なくされています。しかしこの難局を乗り越え、時が来るのを待って、それぞれ学業の備えをしたいと思います。

 

近代国家の成立と共に「大学」は国公立であれ私立であれ、伝統的に七自由学科(一般教養)を探求する「学問の自由」を砦としてきました。この自由における探求は「真理」を求めるためです。最終的に、物ではなく人が問題となるからであり、人間が生きる質を問うからです。ところが日本でも戦後、多くの新制大学ができましたが、入学式の時に学長が「諸君は大学に真理を求めて入ってきた」と言うことが、はばかられるようになってきました。ほとんどの学生は、真理とは関係なく卒業証書と卒後の就職に有利な各種の資格を得るために入学してきたからです。しかし、ある優れた経済学者はそのことを憂慮し、「経済学も含めてそもそも学問は真理を探究しなくなってきている」と言いました。アメリカでベスト・セラーになったアラン・ブルームは『アメリカン・マインドの終焉』(1987年。フランス語、ドイツ語、日本語訳あり)で、痛烈にこう批判しました:「人文科学の正門には、さまざまな文字と言葉でこう記されている。『真理は存在しない-少なくともここには-(” There is no truth-at least here-”)、412頁』」。

 

学問探求とそれが最終的に求める「真理」との関係を別の言葉で申しますと、通常の一般学科の授業と礼拝・聖書科/キリスト教学との密接な関係であり、それが大切な問題なのです。

 

本学のチャペルアワーの礼拝は、実にここで大きな意義と位置をもちます。皆さんが忙しくなる学業の合間に一瞬の安らぎを得、自分を振り返って瞑想する機会とするのも結構ですが、それに優って、神の前で問いかけられる根本的な問いをその都度受けとめつつ、目標をもって学問を研究し、技芸を磨く勇気と知恵を得る機会としてください。

 

本日の聖書箇所で、主イエスを嬉しく迎え入れた姉妹の振舞いが描かれています。忙しくおもてなしする姉マルタと、じっと座って主イエスのお話に耳を傾けて聴く妹のマリア、この二人は対照的な生き方を示しています。ここでマルタが単純に批判されているわけではありませんが、文字通り「忙」しさに追われて<心を亡くす>、つまり生活の中心を失くすことが起こります。主はそれを見抜いてマルタを慈しみ、こうおっしゃいました。「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 この御言葉に従って、礼拝堂でのチャペルアワーを中心とするキャンパスライフを、皆さんもこれから享受してください。

 

 

「苦難(患難)から希望へ」  2020年4月13日(月)

山梨英和大学 学長 菊野一雄

 

学生の皆さん、教職員の皆さんへ

 

4月も第3週に入り、例年なら、授業やチャペルアワーなどが開始され、キャンパスは賑わいを見せているはずでした。しかし、私たちはいま、新型ウイルスの感染拡大を前にし、4月7日には「新型コロナ緊急事態宣言」や「文部科学省高等教育長の通達」などが出され、自宅待機を余儀なくされることになりました。

 

この未曽有の世界的危機の中で、山梨英和大学では、4月3日に「緊急クローズ」を宣言しましたが、私たちはこの危機を、本学の建学の精神である「敬神・愛人・自修」の中でも、特に「自修」を見つめ直す良い機会であると信じ、前向きに対応して行きましょう。

 

本来でしたら、火水木の朝に礼拝を伴った講話を聴き、賛美歌を歌うチャペルアワーが開催されるはずでしたが、今年は緊急事態宣言が解消されるまでの間は、月金にポータル(学生の皆さん)、メール(教職員の皆さん)、ホームページなどを通じて、このような形でメッセージをお送りすることになりました。

 

新約聖書「ローマの信徒への手紙」の5章3~4節に「わたしたちは知っているのです。苦難(患難)は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」と書かれています。我々はこの未曽有の「苦難(患難)」の中で、神様のご加護のもとに、「希望」に向かって、手に手を取り合って前に進んで行きましょう。

 

 

「愛と信頼の距離」  2020年4月13日(月)

山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓

 

だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネによる福音書16章32節~33節)

 

はじめまして。この4月から山梨英和大学の宗教主任として赴任しました洪伊杓(ホン・イピョ)です。

 

キリスト教の暦では、ちょうど昨日の4月12日(日)は、イエス・キリストが十字架上での死から復活を果たしたことを記念する復活日(イースター)でした。今、新型コロナウィルスのため全世界が大混乱の中、「復活」の希望はどこにあるのでしょうか。3月末にここ山梨にやってきた私は、誰もいない部屋に一人座り、孤独であったイエスさまを思い浮かべました。しかし、イエスさまは決して独りではないとおっしゃいます。父である神様が共におられるので、苦難の中でも平安を得ることができると。わたしたちは今「社会的距離(social distancing)」をとりながらウィルスから互いを守ろうとしています。高速道路で安全な車間距離(safe distancing)が互いの命を守るように。わたしたちは今、一時的に危険な高速道路を走っているのかもしれません。

 

キリスト教において、礼拝はイエスさまの受難を共にする行為です。社会的距離をとるというつらい行いは、他者をウィルスとみなすならば、分断、孤立、敵対を表します。しかし、この苦しみが他者の命を守り、生かす行為とみなした時、苦難を克服し共同体を回復する尊いイエスさまの教えを実践することになるでしょう。心の持ち方が大切な時です。

 

レバノンのクリスチャン詩人であるハリール・ジブラーンは、「親しい者と共にいる時でも距離を置け。風をあなたがたの間で躍らせろ。…共に立て。しかし、近づきすぎるな。会堂の柱は離れ離れに立ち、樫と杉は互いの影の中で育つことはない。」と謳いました。この困難な時期に、わたしたちは互いに距離を置きますが、心はつながっています。これが「愛と信頼の距離」です。コロナウィルスは一時的に体に宿りますが、互いに信じあう人々が築く社会的免疫の連帯の前では無力です。わたしたちは勇気を出して、互いの「ワクチン」となり、自身と隣人を守りましょう。「世に勝っている」イエス・キリストが共にいらっしゃいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

パイプオルガン 

山梨英和大学の学生にキリスト教音楽のすばらしさを実感してもらうため、2002年山梨英和学院後援会よりパイプオルガンが寄贈されました。

本学グリンバンクホール(110教室)には、フランスのマルク・ガルニエ社(1998年製作)のポジティフ・オルガン(移動可能な小型パイプオルガン)が設置されています。特に黒鍵は1万年前の氷河の中から掘り出されたナラ材(黒檀のような黒に変色しています)が使用されており、現在は入手、製造できない貴重な材質のものです。見た目は小さな木箱ですが、中には約200本のパイプが組み込まれています。調整や調律には多くの時間をかけ、丁寧に組み上げられたとても繊細なオルガンです。温かみがあり、それでいて透明感のある音の響きをぜひチャペルアワーの時間に感じてみて下さい。

 

《ガルニエ社製 ポジティフ・オルガンの概要》

概要

製作・組立 ガルニエ社(フランス) M.GARNIER(France)
設計・整音 M.Garnier 設置場所:グリンバンクホール
設置年 2002年

材質

本体部分 ナラ材 白鍵盤:柘植
黒鍵盤 ナラ材
装飾部分 菩提樹 金箔

仕様

仕様

Manual C-d3

1.Gedackt 8’

2.Flote 4’

3.Waldflote 2’

4.Regal 8’

Mechanical action 4stop