校長メッセージ ~後期移行式の礼拝より~

   Principal’s Message

エフェソ4:1
「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたの
ですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。」
箴言16:9
「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」

 

 

 今日は、前期から後期へ変わる「移行式」ということで、一年の中でのまた一つの節目を迎えました。そこで、今朝は、2つの聖句を挙げましたが、最初にエフェソ書のみことばにある「神さまからの招きにふさわしい歩み」という観点から、私たちの山梨英和での歩みを考えてみたいと思います。
 ここでいう神さまの「招き」とは何でしょうか?それは、キリストによる罪の赦しへの招きです。別の言い方をすれば、神さまとの和解、神さまとの正しい関係への招きです。私たちは、生まれながらの状態では霊的に死んでいますから、キリストの十字架を通して生かされなければなりません。これがキリストによる救いです。そして、キリストの救いへの招きは、すべての人に向けられています。
 みなさんの中では、この学校に来てはじめて神さまのことば、聖書と出会ったという人が大多数ではないでしょうか。ですから、山梨英和に招かれたことで、神さまの招きを受けたと言ってもよいでしょう。この招きは、私たち一人ひとりに向けられているものでもありますが、同時に、ちょうどエフェソの教会がそうであったように、この山梨英和という学校が、共同体として、受けているとも言えます。つまり、この学校に集う群れとして私たちが、神さまの招きにふさわしい歩みを求められているのです。
 では、私たちはどのような歩みをすべきなのでしょうか?聖書は開きませんが、ヨハネの黙示録の2章と3章を要約して取り上げたいと思います。そこには、主が7つの教会に宛てた手紙が出ています。7つの教会とは、紀元1世紀当時、今のアナトリア、「小アジア」とも呼ばれる地域にあった主要な教会です。これらの7通の手紙には、それぞれの教会に対する賞賛と叱責が記されていますが、スミルナとフィラデルフィアを除くすべての教会が主キリストから叱責を受けています。そこから教訓を得るために、そのうちの3つだけ挙げます。
• エフェソの教会への手紙:「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。」
• サルディスの教会への手紙:「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。」
• ラオディキアの教会への手紙:「あなたは、なまぬるく、熱くも冷たくもなくない。」また、「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」
 これらの叱責のことばは、読む度に、自分に向けられたことばとして心に迫ってくるものがあります。「神さまの招きにふさわしい歩み」の第一歩は、主キリストからのこれらのことばを自分への問いかけと受け止め、真摯に向き合い、自らを振り返ることではないでしょうか。

• 私たちは、ウィントミュート先生やグリンバンク先生たち、宣教師の先生方が証しされたキリストの愛から離れていないでしょうか。はじめの愛に立ち返る必要はないでしょうか。
• 私たちの学校生活はどうでしょうか。ちゃんと目をさまして、自分が今、どのような状態にあり、どういう姿勢で取り組んでいるのか、自覚できているでしょうか。なんとなく日々を過ごしていないでしょうか。熱くも冷たくもないような、なまぬるい中途半端な取り組み方、生活になっていないでしょうか。
• 山梨英和には135年の歴史があります。それは大きな財産です。一方で、その伝統に慣れてきってしまったり、逆に縛られたりしていないでしょうか。

 今日、新しい一歩を踏み出すにあたって、神さまは私たちに、神さまとの関係を今一度振り返り、ご自身との正しい関係を保ちなさいと、おおせられます。そのように招いておられると、私は確信しています。なぜなら、神さまは私たちを祝福なさろうとしておられるからです。私たちは、山梨英和が目指していく新しい教育への第一歩を踏み出そうとしています。小さな一歩かもしれませんが、大切な一歩です。
 みなさんも知っているように、今月から教室の机の配置は、4人組の形が基本型となります。これから先生方が段階的に新しい授業の仕方を工夫し、取り入れて行きますが、そうは言っても、急にこれまでと全然違う授業の仕方になるわけではありませんし、「グループ学習」だけになるというわけではありません。大切なことは、新しい形態の教室に身を置くことで、自らの、またこの学校としての学びのあり方を振り返り、全校あげて新しい道を切り開いて行くことです。そのために、8/27の全校集会でもお伝えしたことですが、次の3つのことを心に留めて授業に臨んでほしいと思います。
• 自分の考えをことばにして伝えよう
• 相手の考えをよく理解しよう
• お互いに考えや質問を出し合って学び合おう
 今後、私たち教職員は、この取り組みを継続的に評価・検討し、みなさんにとって日々の学びが、より有意義で、楽しくなるような授業にしていきたいと思っています。みなさんもいっしょに考えてください。わたしは、生徒主体の学びを教育目標のひとつと考えています。ですから、みなさんの声にも耳を傾けます。前にも言ったように、校長室のドアが開いている時は、いつでもWelcomeです。先ほどあげた神さまからの問いかけを考えつつ、教職員と生徒のみなさんがいっしょになって、山梨英和の学びの形を磨き上げていきましょう。
 最後に、今日のもう一つの聖書箇所、箴言16:9を見ておきましょう。新共同訳では、「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」と訳されていますが、他の訳では、
• 口語訳「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である」
• 新改訳「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」
• ESV “The heart of man plans his way, but the Lord establishes his steps.”
と、あるように、この二つの文の間に「しかし」や「but」という接続詞が挿入されています。ここから、人の心の計画と神の絶対的主権が対立的に述べられていることが分かります。つまり、私たちが心に持つ計画は、神さまの主権的導きがなければ、私たちの思い込みに過ぎないということです。ですから、私たちは、志を立てたり、計画をもつときに、神さまが主権をもって導かれることを前提としなければなりません。今日から始める新しい試みも、自分にとってやりやすいとか、やりにくいといった主観的な判断ではなく、この原則に則って、吟味していく必要があります。
 今年度の後期を始めるにあたり、神さまからの「招き」に応答して生きることを改めて心に刻みましょう。そこから、神さまが主権をもって啓示してくださる望み、ビジョン、計画へと導かれるように、創造主であり救い主である神さまを慕い求め、みことばと真剣に向き合って行こうではありませんか。