「しかし、私は主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。」 ハバクク書3章18節
「しかし、私は主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。」
ハバクク書3章18節
「よく走るなぁ。元気だなぁ。」子供たちを見ていていつも思います。なにもここで走らなくてもいいんじゃないかと思うようなところでも走っています。たぶん、自分でも気が付かないうちに走っている。それは子供の内にあるいのちのなせる業なのだとある人は言っています。嬉しい時、心せくとき子どもは走る。それは大いなる自然の力のあらわれなのでしょう。
園にいて、子供たちの走る姿と同じくらい感動的なのが「踊る」姿です。元気な声で楽しそうに踊る子供たちを見ているとうれしくなります。踊るのも走るのと同じくらい命の大事な部分にかかわっているのだろうと思います。運動会ではそんな子供たちのはずむ姿が見られるに違いありません。
聖書を伝えた人々も踊ることを大切にしたといわれます。礼拝はもとより、結婚の祝い等の慶事ではとりわけ歌と踊りが大事にされたそうです。その他、戦勝の祝いや兵士の凱旋、穀物の刈り入れやブドウの収穫等の場ではタンバリンの拍子に合わせて女性を中心にみんなが輪を描くようにして踊ったといわれます。飛び跳ね、躍り上がって喜びを表現する踊りは豊かな祝福をもたらして下さる神様への信仰と結びついています。
今月の保育主題の聖書の言葉(聖句)は「しかし、私は主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る」です。「主」とは神様のこと、特に神様の唯一のお名前をさしています。主題の一文だけを見ると収穫の喜びに満ちた、いかにも楽しそうな光景が思い浮かびますが実はそうではありません。この言葉の直前には次の一句が記されているのです。
いちじくの木に花は咲かず、ぶどうの枝は実をつけず、オリーブは
収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから絶たれ、
牛舎には牛がいなくなる。
先に聖書を伝えた人々は豊かな収穫の喜びを表現するために踊ったと記しましたが、この箇所で「喜び…踊る」といっている人の現実は、豊かな実りとは真逆のまったく収穫の望めない大変な状況にあったことがわかります。しかしそのような失望と逆境のただなかにあればこそ、その人は「しかし、私は主によって…わが救いの神のゆえに」、このお方を信じて「喜び…踊る」と記します。未来のためにその人は踊るというのです。
この一句を記したのは紀元前6世紀のハバククという人物です。彼は国内には激しい権力抗争があり、外からは大国による厳しい圧迫干渉がある中で、人々の思いは消沈し、道徳的退廃さえ著しいその中で、正しい者がおとしめられ、悪しき者が栄える理不尽な現実が素朴な信仰を持つ者をあざ笑うそのただ中にあって、それでも私は神様を信じる。信仰によって生きることにこそ希望と喜びがあると語り伝えて生き抜きました。
今日にも通じる彼のメッセージを心に刻み、「しかし、私は」と言って立てる勇気を育む神への信仰の大切さを思います。その後の歴史が語るのは、ハバククの祖国を苦しめた大国は滅び去り、彼の言葉は残ったということです。私達を戸惑わせ、意気阻喪させる厳しい現実にあればこそ、希望の源である神様にしっかり心を寄せたく思います。
園長 大木 正人