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カテゴリ:園長通信 投稿日:2022/02/01

その家に入ったら、「平和があるように」と挨拶しなさい。(マタイによる福音書10章12節)2022年2月保育聖句

『あいさつに思う』

 昨年末、ようやくコロナウイルス感染が下火になったかと少し安心したのも束の間、2022年の年明けを待っていたかのように、新たな変異ウイルスオミクロンが、ものすごい勢いで私たちに襲い掛かってきています。山梨県でも連日新規感染者数が過去最多になるなど、いつ終息するのかわからない不安な毎日を私たちは過ごしています。考えられる感染対策はきちんとやっていても、多くの子どもたちが集まり、元気よく活動するこども園は、かなり高い感染リスクを負っていることは間違いありません。これからも、小さな変化も見逃すことなく、徹底した感染対策の中、全職員一丸となって頑張っていきたいと考えています。

 さて、20年くらい前の話しになりますが、私がある中学校に赴任すると、その中学校では生徒があまりあいさつをしないということが、先生たちの中で問題になっていました。校長先生は、全校生徒に「みなさん、もっと元気良くあいさつをしましょう。」とか「学校に外からお客さんが来た時には、きちんとあいさつしましょう。」などと呼びかけをしたり、職員室の前の廊下を「あいさつゾーン」にしたりと、涙ぐましい努力をしていました。

その時、私は1年生の担任でした。私もあいさつはとても大切なものだと考えていたので、「あいさつ」をテーマに学級で話し合いをしました。あいさつについての話し合いといっても、「あいさつをしましょう。」という話し合いではなく、「あいさつは、必要か不必要か?」「なぜ、あいさつをするの?」「自分はきちんとあいさつをしているか、していないか。」「あいさつすることで、何が変わるのか?」など、いくつかの視点で生徒たちに話し合いをさせました。こんなテーマでは、すぐに結論が出て、話し合いにならないと思いきや、多くの貴重な意見が出されました。まず、あいさつが必要という生徒は「あいさつは、するのが当たり前」とか「あいさつすることで、お互いに気持ちよく生活できる。」などの意見が多く出されました。逆にあいさつは必要ないという生徒は「あいさつなんてしてもしなくても一緒」とか「あいさつをしても、相手に無視されると腹がたつからしない」などの意見が多かったと思います。あっという間に1時間が過ぎ、いくつかのポイントにまとめられました。

まず、①「あいさつは、させられるものではなく、自分からするものである。」②「あいさつは、しないよりしたほうが絶対によい。」③「学級や部活動で、あいさつをきちんとしないと1日が始まらないし、1日が終わらない。」④「あいさつは、自分の意思でするものだから、相手が返してくれないからしないというのはおかしい。」また、ある生徒の発案で「あいさつゲーム」が行われました。ルールはいたって簡単。朝、登校しクラスの友達にあった時、最初にあいさつができたら勝ち、相手に先にあいさつをされたら負け。これは、結構大盛り上がりで、「私、今日22勝1敗」とか「おれ、4勝11敗」など、みんな笑顔で話していました。担任の私は、油断している生徒の後ろからそーっと近づき「おはよう!」というと「ずるい!」と悔しがる生徒もいました。その後、あいさつは生徒の中に定着しました。そんな中、校長先生が、職員会議で「石川先生のクラスの5~6名の生徒は、あいさつがきちんとできていて素晴らしい。全校の見本である。」と言って下さいました。ここまではいいのですが、校長先生はよっぽどうれしかったのか「その生徒たちをぜひ全校集会で表彰したい。」と言い出したのです。私は、生徒たちが取り組んできたことがぶち壊しになるのでやめてほしいとお願いしました。また、あいさつにはあいさつで返してほしい。と必死にお願いしたのもむなしく、結局表彰は行われました。

 今月の聖句で「平和があるように」と挨拶しなさい。と命じたのは、イエス・キリストです。平和とは、私たちが生きていく上で必要不可欠なキーワードです。しかし、現実は平和を忘れ、いがみ合い、人をねたみ、人と争う人間の姿がそこにはあります。また、平和を願ったからと言って、すぐに平和が達成されるものでもありません。だからこそ、「平和があるように」というイエス・キリストのみ言葉は、複雑な現代社会に生きる私たちが忘れてはならない言葉だと思います。

園長 石川 健

 

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