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カテゴリ:園長通信 投稿日:2022/11/01

わたしの隣人とは誰ですか。(ルカによる福音書10章29節)2022年11月保育聖句

『 わたしの隣人とはだれですか 』

「では、わたしの隣人とはだれですか。」イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追いはぎに襲われた。おいはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になるとデナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」(ルカによる福音書10章25節~37節)

 

「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」。秋になると、正岡子規のこの俳句が頭に浮かんできます。目を閉じると、その情景が頭に浮かび、私にとってはとても秋を感じる俳句です。

さて先日柿畑に行き、柿をとろうとしたところ、それを阻むかのように、上から思い切り熟した柿が落下してきて体中、柿まみれになりました。正岡子規の俳句から感じる秋の風情どころの話しではなく、柿まみれの現実を思いさらされました。私は柿が好きですが、今回の柿との交流を通して、より一層柿を身近に感じることができました。

今月の聖句は新約聖書ルカによる福音書に書かれている「善いサマリア人」のたとえです。イエスを試そうとした律法学者が「私の隣人は誰ですか」と聞いたのに対し、イエスが答えられたものです。強盗に襲われ、けがを負った人を見て、祭司(祭儀を行う人)もレビ人(古代ユダヤ教の祭司の一族)も見て見ぬふりをして避けて通ったのに比べ、そこを通りかかったサマリア人(当時ユダヤ人から差別を受けていた民族)が駆け寄り、強盗に襲われけがを負った人を助けました。そして、「あなたはこの三人の中で、誰がおいはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」の問いに対して「その人を助けた人です。」と答えると、「行ってあなたも同じようにしなさい。」と言われました。私たちにも、三人の中の誰が隣人かはわかります。でも、サマリア人のような行いができるでしょうか?「隣人」を辞書で引くと、隣の人、近所の人、自分の身の回りの人などと出てきます。でも、聖書の中でイエスが教える「隣人」は、見ず知らずの人はもちろんのこと、会ったこともない外国の人も全ての人が含まれています。

山梨英和のこども園では、ウクライナから避難してきた二家族の子供を2人受け入れています。母国にいる家族や知人のことを考えると不安と悲しみの中、心の休まることがない日々を過ごしていることと思います。それを知ったこども園の保護者は、色々な面で多くの支援や励ましを行っています。先日はウクライナの母親が得意とするお菓子作り教室を開催しました。まずは、隣人(友)に元気になってほしいという取り組みです。

園長 石川 健

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