「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」 エフェソの信徒への手紙2章14節a
今月は花の日の礼拝と訪問があります。これは女学校時代の1892年にミス・プレストン(在任1889-1907)と生徒の「病気の方やご老人をお花をもってお訪ねし、聖書を読み、いたわってさしあげましょう」との思いで始まりました。
私は毎年花の日が近づくと思い出す文章があります。花の日と直接の関係はないのですが、その精神の今日における意味を語っていると思うからです。今回はそれをご紹介して今月の保育聖句に係る文責を果たしたいと願います。筆者は晩年カトリックの洗礼を受けて亡くなった評論家の加藤周一、題は「小さな花」。初出は1979年です。
どんな花が世界中でいちばん美しいだろうか。春の洛陽に咲く牡丹に非ず、宗匠が茶室に飾る一輪に非ず、ティロルの山の斜面をおおう秋草に非ず、オートゥ・プロヴァンスの野に匂うラヴァンドに非ず。
1960年代の後半に、アメリカのヴェトナム征伐に抗議してワシントンへ集まった「ヒッピーズ」が武装した兵隊の一列と対峙して、地面に座り込んだとき、その中の一人の若い女が、片手を伸ばし、目のまえの無表情な兵士に向かって差し出した一輪の小さな花ほど美しい花は、地上のどこにもなかったろう。その花は、サン・テックスの星の王子が愛した小さな薔薇である。またソロモンの栄華の極みにも匹敵したという野の花である。
一方には史上空前の武力があり、他方には無力な一人の女があった。一方にはアメリカ帝国の組織と合理的な計算があり、他方には無名の個人とその感情の自発性があった。権力対市民。自動小銃対小さな花。一方が他方を踏みにじるほど容易なことはない。
しかし人は小さな花を愛することはできるが、帝国を愛することはできない。花を踏みにじる権力は、愛することの可能性そのものを破壊するのである。そうして維持された富と力、法と秩序は、個人に何をもたらすだろうか。いくらかの物質的快楽と感覚的刺激の不断の追求と決して満たされない心のなかの空洞にすぎないだろう。いかなる知的操作も、合理的計算も、一度失われた愛する能力を、恢復することはできない。
権力の側に立つか、小さな花の側に立つか、この世の中には撰ばなければならない時がある。たしかに花の命は短いが、地上のいかなる帝国もまた、いつかは亡びる。天狼星の高みから人間の歴史の流れを見渡せば、野の百合の命も、ソロモンの王国の運命も、同じように現れては消えてゆく泡沫だろう。伝えられるところによれば、アメリカの俳優ピーター・フォーク氏は、日本国の天皇から招待されたときに、その晩には先約があるといって、断ったそうである。私は先約の相手に、友人か恋人か、一人のアメリカ市民を想像する。もしその想像が正しければ、彼は一国の権力機構の象徴よりも、彼の小さな花を択んだのである。
私は私の選択が、巨大な権力の側にではなく、小さな花の側にあることを、望む。望みは常に実現されるとは、限らぬだろうが、武装し、威嚇し、瞞着し、買収し、みずからを合理化するのに巧みな権力に対して、ただ人間の愛する能力を証言するためにのみ差し出された無名の花の命を、私は常に、かぎりなく美しく感じるのである。 (『小さな花』かもがわ出版)
山梨英和の「花の日」は、日本が日清・日露戦争を経て帝国主義へと突き進む時代に抗するかのように示された、小さな花にいたわりと平和への願いを込めてのものであったと私は理解します。その根源にイエス・キリストがおられる。そのお力に支えられて私達は日々を歩みます。
園長 大木正人