「主は私たちを造られた。私たちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。」
「主は私たちを造られた。私たちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。」
詩編100編3節
聖書が伝えられた地域では古くから牧羊が行われていました。古代メソポタミアの遺跡から出土した野生のヒツジとは違う小型のヒツジの骨から推すと紀元前7000~6000年にはすでに家畜とされていたようです。寒暖の差が激しく、水の乏しい乾燥地域に生きる人々にとってヒツジは脂肪と毛を得るうえで欠かせない動物でした。
ヒツジは聴力にすぐれ、視野も広くて300度位は首を回さなくても見える反面、奥行きは余り知覚できないので、ちょっとした影や窪みにひるんでしまって先に進めなくなることもしばしばだそうです。その他、暗い所よりも明るい所を好んで移動する性質があるとか、群れたがる習性が強いので群れから引き離されるとそれがとても強いストレスになるともいわれます。群れたヒツジは先導者に従う傾向が強いのだが、この場合の先導者は必ずしも人とは限らず、しばしば最初に動いたヒツジであったりする。これが原因で「迷走」したり「迷子」になったりする恐れも大きい。群れたがり、先導者に無自覚に従う習性がヒツジを家畜化するのに有効だったと言われます。食べ物についてヒツジはとても貪欲で草は根まで食べてしまうので、ヒツジの群れが通った後は荒れ地が広がるとさえ言われるほど…。いつもエサをくれる人にエサをねだる習性があるので、それを利用して羊飼いはエサの入った容器でヒツジを先導することもある…。身近にはあまりいないので、なじみの薄いヒツジですが、その習性を知るとにわかに我が身に近いものに思えてきます。
聖書ではしばしばヒツジと羊飼いの関係にたとえて、民と王を語り、人と神との関係を教えました。今月の保育主題の聖句である詩編100編もその一つです。ここで言われている「主」とは神様のことです。正確に言うとアルファベットではYHWHと標記される、聖書の神様の唯一のお名前が、旧約聖書では「主」と訳されています。古代の神々はそう簡単に自分の名前を人には教えないのですが、聖書によって私たちに語りかける神様は、ただ一つしかない名前をさえも惜しみなく人々に示されます。そこには人々が神様のお名前を心に刻んで祈り、神様から平安と力を得て歩んでほしいという神様の特別な思いが込められています。
私たちはYHWHというお名前の神様によって一人ひとりが造られている。その神様が「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負っていこう。私はあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ書46章4節)と力強く約束して下さっている。ここから来る平安に守られ、養われながら私たちはこの地上を生きて行く。「私たちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」という一句は、そのことの持つ根源的な慰めと励ましを語っています。
園長 大木正人