「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。
ヨハネによる福音書4章14節より
じりじりと肌をさす夏の日差しはとても辛いですが、そんなことなどものともせずに水遊びに興じるこども達やはじける水しぶきは夏ならでは嬉しい光景です。しかしそれは安全な水があればこその喜びです。世界には、いやこの国においてさえもこの喜びを奪われ、またそれを容易には得られない人々が数多くおられることを私たちは忘れてはなりません。
聖書の舞台であるパレスチナは雨の少ない乾燥地域です。雨量が比較的多いと言われる北部でも年間降水量は東京の約1/3の500~700ミリに過ぎません。南に下るにしたがってその量はますます減っていきます。ごく一部の地域を除いて飲料水の確保が容易ではない地域。それが聖書を伝えた人々が生きていた場所です。そのような地域ですから水は貴重品です。パレスチナにおいては古代の他のいかなる地域よりも水が尊重されたといわれます。ヒツジやヤギなどの小家畜飼育者にとっては井戸をめぐって大きな争いも起きました。農民の居住する村落も多くの人が住む都市も水源の確保は文字通り生命線。聖書で「生ける水」が救いを表し、豊かな水の流れが楽園の表象と結びつく理由がここにあります。人も獣も植物も水がなくては生きられません。そのことをヒシヒシと感じていた人たちの思いが、聖書には、水をめぐる言葉として刻まれています。表題の言葉もその一つです。
「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
イエス・キリストは人目を忍んで井戸に水を汲みに来た孤独な女性にそう言われました。
この言葉をその人はどんな思いで聞いたでしょうか。水汲みの苦役からの解放でしょうか。乾いた喉をうるおす一杯の冷たい水のありがたさでしょうか。それとも、ただの水とは違う何かそれ以上のものでしょうか?その人の内で泉となりわき出る永遠の命に至る水とは何でしょうか?心の奥深くからわきあふれる水とはいったい何でしょうか?
彼女はよくは分からないままに、しばし主イエスの言葉の前に立ち止まります。そのときキリストの言葉が少しずつ彼女にしみこみ、彼女の人の思いを柔らかにし始めます。
パレスチナでは乾期になると草花は立ち枯れておもに棘のある草だけが繁茂するそうです。他者との関わりを拒むかのような棘のある植物だけがはびこる乾期。しかし雨期(10月~3月)になると様子は一変するそうです。天からの雨を受けた大地にはアネモネやカミツレ、シクラメンが咲き一面美しい緑に覆われる。天来の恵みが大地を潤し生き返らせる。その輝きは他者との喜ばしいかかわりを示しているかのようです。わき出る泉の流れは他者をも潤し、喜ばせる。これは私たちにも言えることのではないでしょうか。
暑い夏の日々、一人ひとりの健康が守られ、私たちの心に注がれるキリストの恵みのみ言葉によって平安が得られますように。そこから広がる喜びと平和がありますように。
園 長 大 木 正 人