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カテゴリ:全体のお知らせ|園長通信 投稿日:2016/09/10

「平和を実現する人々は、幸いである」マタイによる福音書5章9節(2016年8月の保育聖句)

「平和を実現する人々は、幸いである」     マタイによる福音書5章9節

 

暑い夏、平和ということを考えるとき、折に触れて何度も訪ねたいと思う場所があります。北杜市にあるフィリア美術館(小淵沢)と浅川伯教・巧兄弟資料館そして清里のポール・ラッシュ記念センター(高根)です。これらの施設に共通するのはどれもその根底にキリスト教の精神があり、平和を主題としてたてられているということです。

キリスト教の基盤である聖書によれば「平和」は、ただ戦争がない状態だけではありません。より積極的に他者との間で、お互いを尊重し、いたわってより良く生きることをめざすという意味を含んでいます。フィリア美術館はナチスによってユダヤ人虐殺が行われたアウシュビッツにかかわる品々が譲られたことから始まりました。浅川兄弟は日本によって「植民地」とされた朝鮮との人々の間に友好の絆を作った市井の足跡を伝えています。そしてポール・ラッシュの努力によって拓かれた清里の歴史は彼の宣教師としての活動の延長線上にあります。いずれの人たちも心の奥深くに、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」という聖書の一句がこだましていたのではないかと私は想像します。

マタイによる福音書の5章から7章にある「山上の説教」の一部として記されているイエス・キリストの言葉。「平和を実現する人々」と訳されている言葉は、たった一つの単語(エイレーノポイオイ)です。しかも新約聖書ではここだけにしか出てこないとても珍しい言葉です。福音書を記した人はきっと特別な思いをもってこの言葉を書いたことでしょう。別の日本語訳の聖書は、その文字を「平和を作り出す人々」とも訳しています。ある人は「平和のために働く人々」と訳しています。英語ではpeacemakersと訳しているものが多いようです。いずれにしても、平和は、それについてただ知っているだけではだめで、実際に自分達の生活の中に作り出し、実現しなければならないのです。これはとても難しいことですが、しかし難しいからと言ってあきらめてしまうのではなく、この言葉を持って私たちを励まし、力づけてくださるイエス・キリストの助けと導かいが必ずあると信じて、平和を追い求め、平和に生きようと祈り願う日々を過ごしたいと思います。

キリストが私達に告げる平和は、何か難しいこと、遠いこと、大変なことによって「実現する」の平和ではないと思うのです。日々のささやかな歩み、その中での一つ一つを通して実現する、そんな「平和」をイエス様は示されている。そう思うのです。以前、記したことがありますが、聖書のいう「平和」はシャロームという言葉です。 

これは「こんにちは」から「さようなら」まで、「ご機嫌いかが」から「ハーイ」まで、実に豊かな広がりがある言葉です。日常の挨拶から始まって家族、親族、共同体、国家まで、地上の動植物から神様まで、実に幅広い意味をカバーしているのが聖書の「平和」です。平和は、相手を信じ、相手との関わりを築く呼びかけから始まる。難しい議論からではなく、相手への信頼を込めた呼びかけから始まる。平和を実現する歩みはそこから始まることを心に記し、他の人との喜ばしい信頼関係を形作って行く私達でありたいと思います。

園長 大木正人

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