「平和な人には未来がある。」詩編 37編37節(2016年9月の保育聖句)
「平和な人には未来がある。」 詩編 37編37節
「平和な人」とはどのような人なのでしょうか。そして「未来」とは…。今月の保育主題の聖書の言葉(聖句)を考える中で思い出したのが、平和学という学問を日本に紹介し、長くキリスト教主義大学で教えられた岡本三夫先生がある本に書いておられた言葉です。
外国人記者から「ヒロシマの人達は平和的ですか」という質問を受けて答えに窮した事がある。原爆の悲惨を克服した広島市民の平和感覚は特別だと思われても不思議ではない。「日本は平和的ですか」と聞かれたら、あなたはどう答えるだろうか。平和憲法の擁護はますます重い課題となっている。だが日本人は憲法にふさわしい生き方をしているだろうか。私達が担うべき歴史への責任(南京大虐殺、従軍慰安婦等)、同時代への責任(非暴力・平和主義の実践)、未来への責任(健全な環境のバトンタッチ)の自覚なしに、答えを探すことはできない。平和とは戦争がないことだけではない。豊かさ、公正、自由、平等、民主主義、人権尊重、福祉、安全な環境など、平和であるための尺度は多岐にわたる。だから質問への答えはさらに難しくなる。平和的であるとはどういうことなのだろうか。
『キリスト教倫理』所収「平和の倫理」より
岡本先生は「歴史への責任」「同時代への責任」そして「未来への責任」の「自覚」はあるだろうかと指摘されます。平和「憲法にふさわしい生き方をしているだろうか」と問われます。「平和とは戦争がないことだけではない」とも記されます。古代ローマの格言に「平和を望むなら戦争に備えよ」という言葉があるそうです。これは「平和」を指す言葉が戦争と戦争の間の休戦状態を意味することに由来する格言です。だから「平和を望むなら戦争に備えよ」となります。しかし「平和であるための尺度は多岐にわたるのです。」私達は積極的に平和を望み、平和に備え、平和に生きて、平和を実現しなければなりません。そこに本当の喜びがあるのです。だからイエス様はマタイによる福音書の5章以下の山上の説教の中で「平和を実現する人々は、幸いである」と仰ったのでしょう。
しかし平和を願いつつも、私達の現実は余りにもそれとは違います。私達の心の奥底には平和の実現を阻む暗い衝動、欲望が渦を巻いています。それを指して「人道の実現を阻む4つの敵」といったのは赤十字運動の基礎を固めたジャン・ピクテです。彼はその4つ敵として、利己心、無関心、認識不足(無知)、想像力の欠如をあげています。
「平和な人には未来がある」と告げる聖書の言葉の直前にあるのは、「無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ」という一句です。「無垢」とは「汚れなく、まじりもののないないこと」と辞書にはあります。その意味での無垢な者など現実にはなかなかいませんが、しかしそうであればこそ私達は、人道の実現を阻む4つの敵を意識しつつ「無垢であろうと努め」、豊かな心と知性、感(受)性、想像力を育むことで、「歴史への責任」「同時代への責任」「未来への責任」を果たせる「平和な人」に少しでも近づきたいと願います。そのことをまっすぐに見て、日々の保育・教育、養育に共にあたって行きたく存じます。
園長 大木正人