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カテゴリ:全体のお知らせ|園長通信 投稿日:2016/10/05

「あなたがたは地の塩である。」マタイによる福音書5章13節(2016年10月保育聖句)

「あなたがたは地の塩である。」マタイによる福音書5章13節

 

 私達がふだんよく聞くコミュニケーションという言葉は、「交流」を意味するラテン語コムニオンに由来します。神と人、人と人とをつなぐのが元々の意味です。言葉はその働きを担う一つです。しかし私達はしばしば「つなぐ」のとは逆の言葉を発してしまいます。「ウザイ」「むかつく」「死ね」「関係ない」。心ない一言でバッサリ切り捨ててしまうのです。私達は折にふれて自分が使っている言葉を振り返ってみる必要があります。

 ある本に老人ホームの職員がお年寄りの世話をする中で言わなければ良かったと反省する言葉を出し合ってどう言い換えたらよいかを話し合ったエピソードが紹介されていました。たとえば食事の時に「まだ食べてるの、早く食べなさい」とか「まだもたもたしてる」とつい怒っていたのを、一呼吸置いて、「ゆっくり味わって食べて下さいね」と言い換える。「どうして汚すの」と叱っていたのを、「気持ち悪いでしょう。いつでも取り替えますから言って下さいね」と言い換える。お風呂に入った時「便がついて汚いね」と言っていたのを、「ちょっと汚れているからきれいにしましょう」などと言い換える。どう言い換えたら良いかを考えながら、自分達が気づかないところでずいぶん人を傷つけていたことを職員は知ったそうです。そして良い言葉は誠実な実践から生まれることや、他の人を和ませる言葉を探していると逆に自分自身の心が和むのに気づきます。その本を著した精神科の医師はこのエピソードをまとめてこう記しています。 

 

「人の話を聴くと言うことは、実は自分の心に聞くことです。また人に語ると言う事は、自分の心を研ぎ澄ますことなのです。そして言葉を大切にするということは、自分自身を、また人を大切にすることなのです」      

工藤信夫『心で見る世界』より

 

言葉を大切にするとはつまり人を、自分を大切にすること。私達が自分の心を研ぎ澄まし、相手に向かって心を開き、一つ一つの言葉を大切にしながら生きるなら、きっと人間関係は改善され、世界は新しくなる。「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。」と新約聖書のコロサイの信徒への手紙4章5~6節に記されていることが思い出されます。

 聖書を伝えた人々にとって、塩は調味料であり、防腐剤であり、神への捧げものを清めるものでした。水に混ぜれば薬になり、仲間と一緒にパンと塩を食べれば、それは友情のしるしとなりました。古代ローマでは新生児の口に塩を置く習慣があったので、教会では洗礼を受けた人に塩を含ませて、あなたは神様の真理を伝えるために新しく生まれたのだと教えました。

 イエス・キリストは「あなたがたは地の塩である」(マタイ5:13)と告げられました。破れだらけ、失敗だらけで悩みの多いみんなをさして、しかしそんなあなた達こそが大切な「地の塩」なのだと仰いました。キリストによって、そのように告げられ、地の塩とされているのですから、私達は自分の言葉で周りの人達を慰め、励まし、良い持ち味を引き出し、整え、生かす「塩で味付けられた言葉」を語れます。語れるということも神様からの賜物です。この賜物をどのように生かすのか。私達の言葉が命と愛と希望を育むものとなるよう祈り求めて行きましょう。

園長 大木 正人

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