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カテゴリ:全体のお知らせ|園長通信 投稿日:2016/11/14

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(ローマの信徒への手紙12章15節) 11月の保育聖句

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(ローマの信徒への手紙12章15節)

 

表題の聖書の言葉について、ある人が次のような一文を記しています。  

このきわめて単純な勧めは人間の生活の秘密をよく示しています。人間にとって何が難しいといって、喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむことぐらい難しいことはありません。なぜなら我々は非常に嫉妬深くて、他の人が幸福であることは承知できないからです。我々は皆、他人が幸福になるのはいやなのです。少なくとも、他人が自分よりも幸福であることは許せないことのように思うのです。そういうことから言えば、泣く者と共に泣く方がまだ優しいと思います。自分は泣かなくてもいいのに、相手が泣かねばならない事情にある時には、同情しやすいのです。しかし、それが真の同情でないことは、言うまでもありません。泣く者と共に泣いてやることによって、ひそかに自分の優越感を満足させることができるからです。泣く者と共に泣くことは、喜ぶ者と共に喜ぶのと同じほどに難しいことです。   (竹森満佐一『ローマ書講解説教 Ⅲ』より) 

 

「泣く者と共に泣くことは、喜ぶ者と共に喜ぶのと同じほどに難しい」という最後の一文を読んで思ったのは「他人の不幸は蜜の味」という言葉です。他人の不幸に対して覚える歪んだ快感、自分でなくてよかったとする安堵感、あの人に比べれば自分の方がまだマシだと思って味わう安心感。私達の心の奥底には、そんな「秘密」、「嫉妬深さ」、歪んだ「優越感」が潜んでいます。スイスの著名な精神分析医は「人間は教養があればあるほど嫉妬深くなる」といっています。人間とはなんと罪深い者なのでしょうか。

 表題の言葉に続けて聖書は、「自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と勧めます。本当に、そうなりたい、そうでありたいものです。しかし現実はどうかといえば、そんな思いとは裏腹に、うぬぼれが強くて、善よりも悪に傾いてしまう自分でしかありません。

「俺たちは皆卑怯者だ。百円の花を眺めて百万人の飢え死にを忘れる。強い者の前では伏し目になり、弱い者の前では肩をそびやかす。取るに足りない不満を拡大鏡で見て、正義と復讐を混同する」(中桐雅夫「卑怯者」)。

 

そんな私が、少しでも人と平和に暮らせる者となるために、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣ける者となるには、どうしたら良いのでしょうか。聖書は私達に、そんな破れだらけの卑怯者である私達のために涙を流し、寄り添い、命をかけて共に歩んで下さるお方がおられることを教えます。そして、そのお方を信じ、そのお方の力によって、心新たにされなさいと進めます。私達は聖書の言葉を通して自分と向き合い、赦しと慰めと励ましをいただいて、「できれば、せめて、すべての人と平和に暮らしなさい」との勧めに応えることができると信じます。私達に聖書が与えられ、祈ることがゆるされていることの幸いを思います。

園長 大木正人

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