主はわたしの光、わたしの救い。わたしは誰を恐れよう。 詩編第27編1節(2017年3月保育主題)
「主はわたしの光、わたしの救い。わたしは誰を恐れよう。」 詩編 第27編1節
3月はこの1年の締めくくり、振り返りの時であると同時に、新しい年度への準備の時でもあります。そこには過ぎ去った時間とそこで経験した様々な出来事を振り返り懐かしむ気持ちと、これから訪れる新たな出会い、未知なるものへの期待と不安が入り混じる、ある種特別な感じがあります。
ところで、聖書を伝えたユダヤの人々は、過去は自分達の目の前にあり、未来は自分達の後ろにあると考えたそうです。これは私達の感覚とは逆です。私達の感覚では過去は後ろにあり、未来は前にあります。だから「過去を振り返る」などと言ったりします。しかし聖書では過去は目の前にあり未来は後ろに広がっていると考えます。ですから聖書を伝えたユダヤの人々はあたかもボートを漕ぐように、未来を背にして前へと進んで行きます。自分達が記した足跡、刻んだ軌跡、残してきた航跡を確認しながら未来に向けて進んで行くのです。過去の歴史を心に刻み、そこから大切な知恵を引き出し、教訓を学び、未来に向けて進んで行く。聖書を拠り所に生きる人々はそのように考えて歩んできました。過去を見つめるとき、そこには自分が犯してしまった数々の過ちやいうのも恥ずかしい失敗があるものですが、しかしそれにもまさって教えられるのは、そこに注がれた神様のゆるしと憐れみであり、また多くの人達の支えと励ましがあることです。
聖書の研究者でもあるカトリック司祭の本に次のような一節があります。
未来を背に、過去を目の前に生きる者は、いわば後ろ向きに歩く者だ。見えない後ろに向けて歩くのだから、手を取って導く者がいなければ怖くて一歩も進めないだろう。そんなわれわれの導き手は神である。われわれは目の前の過去の出来事を見て味わうだけでよい。神がわれわれを導いてくださるのである。
雨宮慧著『旧約聖書のこころ』より
神様が「怖くて一歩も進めない」私達の手を取って導いて下さる。そのために私達に差し伸ばされる神様の手は、ときには聖書の言葉であり、ときには目の前の誰かからのものかもしれません。いずれにしても「神が話われわれを導いて下さる。」そのことを信じて私達は現実に向き合い、不安を乗り越え、未来へと進んでいく。聖書を伝えた人々の歴史に即していうならば、神様は苦しめられる人達を解放され、裏切りに裏切りを重ねるだけのどうしようもない者達をさえゆるし、ついには命を捨てられた。イエス・キリストがこの地上を生き抜かれ、十字架で死なれ、しかし復活されたのがそのしるしです。このとき以来今日に至るまで、そしてこれからも、神様は、いつも、そしていつまでも私達と共にいて下さいます。苦しめられ、虐げられ、傷つけられ、嘆き悲しむ者達と共にいて下さいます。そのことを生きる支えとした人達が私達に手渡して下さった言葉が今月の保育主題の聖句です。「主はわたしの光、わたしの救い。わたしは誰を恐れよう。」神様を信じる信仰が私達を本当の意味で強くします。希望を抱いて未来に進み行ける者としてくれます。
園長 大木正人