「あなたがたに平和があるように」 ヨハネによる福音書20章26節(2017年4月保育主題)
「あなたがたに平和があるように」 ヨハネによる福音書20章26節
イエス・キリストの弟子の一人にトマスがいます。ある日トマスは仲間達から「私達は主を見た」といわれます。しかしトマスには信じられません。イエス様は十字架刑で亡くなっていたからです。トマスはいいます。「その方の手に釘の跡を見、自分の指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をその脇腹の傷跡に入れて見なければ私は決して信じない。」イエス様は両手に釘を打ち込まれ、脇腹を槍で刺されて亡くなりました。イエス様が復活されたというのなら、その時の傷跡を自分の目で見て、自分の手で確かめなければ信じない、トマスはそういいます。彼はイエス様の復活が信じられなかっただけではなく、他の仲間がイエス様と会った時に、自分だけがそこにいなかったので取り残された感じがして寂しい気持ちもあったのかもしれません。だから少し意固地になって「信じない」といったのかもしれません。疑い深いトマスの態度ですが、そこには彼の孤独や寂しさもあるように思われます。
イエス様は、そんなトマスの前にお姿を現されます。そして「あなたがたに平和があるように」とトマスを含めたみんなに告げられます。復活されたイエス様がこのように言われるのは、聖書によればこれで3度目です。平和、平和、平和!イエス・キリストがみんなにお与えになりたいのは平和です。恐れを取り去り、不安を拭い去り、寂しさや苦しみに喘ぐ人達を慰め救う神様の平和です。
イエス様は平和を告げる挨拶をされるとすぐに、「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい」とトマスに言われます。イエス様はトマスがそうしなければ信じないと言っていたことに答えられます。決して非難を込めた皮肉ではありません。素直に「そうしてよい」と、イエス様は仰るのです。 イエス様はトマスの疑いを退けません。彼の態度をなじりません。彼の思いをそのまま丸ごと受け止めて下さいます。そのためにならばご自分の傷跡をさらすことさえいとわれません。イエス・キリストは、私達が正しく疑い、しっかり考え、自分の目で見、頭で考え行動することを大切にされます。疑い深くて、孤独なトマスはこのイエス・キリストの前にいます。
イエス様にそう言われてトマスはどうしたでしょうか。ヨーロッパの絵画ではトマスがイエス様の脇腹に触れたり、中には指を差し込んでいる作品が随分ありますが、聖書そのものにはそう書かれていません。トマスは触れる事も指を差し込むこともしません。ただ「私の主、私の神よ」と言うだけです。トマスにはそれで十分でした。何をしても良いとゆるされ、それを知るトマスは、何をしてはならないか、何をすべきではないかをわきまえます。信じることがもたらす自由とは、こういうことなのかもしれません。誰よりも深く疑った慎重なトマスは、ここで誰よりもはっきりとイエス様と出会い、イエス様を信じます。トマスは他の弟子達が誰も口にしなかった大切な言葉を言い表します。
「わが主よ、わが神よ!」
トマスは今や他の誰よりも大きな喜びに満たされて、この言葉を口にします。
キリスト教会に残る伝説によれば、トマスは、その後、キリストの使徒として遠くインドにまでイエス様のことを伝えた、とされます。人一倍疑い、弟子達の中で最後に復活されたイエス様と出会ったトマスですが、しかし彼は他の誰よりも力強く、はるか遠くにまで進んで行きます。きちんと疑い、心から信じ、深く理解することがどんなに大きな力を生み出し、もたらすか。そのことをトマスは私達に教えてくれます。新年度、トマスに向き合われたイエス・キリストの恵みを思い、この方によって教え、諭され、導かれて、多くのことを学んで成長したトマスにならって歩み出しましょう。
園長 大木正人