2020年04月17日
学生生活 教育・研究
山梨英和学院 院長 朴 憲郁
新学期が始まり、新入生と在学生の皆さんにとって、学問研究を中心とする山梨英和大学でのキャンパスライフが始まりました。大きな期待を胸に膨らませていることと思います。私はこの4月から山梨英和学院全体の院長に就きましたので、新入生と同じく不慣れな日々がしばらく続きます。ところが今は、不慣れどころか、国内外で突如襲っている新型ウィルス感染の猛威を前に、皆一様に不安と怖れに包まれ、入学式の取りやめと学年暦の大幅な変更を余儀なくされています。しかしこの難局を乗り越え、時が来るのを待って、それぞれ学業の備えをしたいと思います。
近代国家の成立と共に「大学」は国公立であれ私立であれ、伝統的に七自由学科(一般教養)を探求する「学問の自由」を砦としてきました。この自由における探求は「真理」を求めるためです。最終的に、物ではなく人が問題となるからであり、人間が生きる質を問うからです。ところが日本でも戦後、多くの新制大学ができましたが、入学式の時に学長が「諸君は大学に真理を求めて入ってきた」と言うことが、はばかられるようになってきました。ほとんどの学生は、真理とは関係なく卒業証書と卒後の就職に有利な各種の資格を得るために入学してきたからです。しかし、ある優れた経済学者はそのことを憂慮し、「経済学も含めてそもそも学問は真理を探究しなくなってきている」と言いました。アメリカでベスト・セラーになったアラン・ブルームは『アメリカン・マインドの終焉』(1987年。フランス語、ドイツ語、日本語訳あり)で、痛烈にこう批判しました:「人文科学の正門には、さまざまな文字と言葉でこう記されている。『真理は存在しない-少なくともここには-(” There is no truth-at least here-”)、412頁』」。
学問探求とそれが最終的に求める「真理」との関係を別の言葉で申しますと、通常の一般学科の授業と礼拝・聖書科/キリスト教学との密接な関係であり、それが大切な問題なのです。
本学のチャペルアワーの礼拝は、実にここで大きな意義と位置をもちます。皆さんが忙しくなる学業の合間に一瞬の安らぎを得、自分を振り返って瞑想する機会とするのも結構ですが、それに優って、神の前で問いかけられる根本的な問いをその都度受けとめつつ、目標をもって学問を研究し、技芸を磨く勇気と知恵を得る機会としてください。
本日の聖書箇所で、主イエスを嬉しく迎え入れた姉妹の振舞いが描かれています。忙しくおもてなしする姉マルタと、じっと座って主イエスのお話に耳を傾けて聴く妹のマリア、この二人は対照的な生き方を示しています。ここでマルタが単純に批判されているわけではありませんが、文字通り「忙」しさに追われて<心を亡くす>、つまり生活の中心を失くすことが起こります。主はそれを見抜いてマルタを慈しみ、こうおっしゃいました。「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 この御言葉に従って、礼拝堂でのチャペルアワーを中心とするキャンパスライフを、皆さんもこれから享受してください。