2020年04月24日
学生生活 教育・研究
山梨英和大学 宗教主任補佐 大久保絹
イエスが十字架上で死んだ後、彼の弟子たちは、家の中に閉じこもり、息をひそめて過ごしていました。イエスを失った悲しみだけがその理由ではありません。イエスを助けられなかったという後悔の気持ち、見捨ててしまったという自己嫌悪、自分たちもイエスと同じように罪に問われるのではないかという恐怖心を抱いていたからです。そういう絶望的な状況にある弟子たちのもとにイエスは顕れ、「あなたがたに平和があるように」と言われました。
悲しみ嘆くこと、不安に陥ること、先が見えず苛立つことは、新型ウイルスの感染拡大以前にも、私たちの日常の中にありました。しかし、感染がますます広がり、家の中に閉じこもって過ごすことが続くと、閉塞感が募り、心がざわついてしまう経験も日々多くなっています。いままで毎日のように会っていた学生のみなさん、まだ会うこともできないでいる新入生のみなさんもそうした経験をしているのではないでしょうか。そう考えていた先週、友人がある動画を教えてくれましたので、みなさんにもご紹介します。ニューヨーク市にある教会の聖歌隊のこどもたちの歌です。ラテン語で歌われているこの曲は、『Dona Nobis Pacem(われらに平和を与えたまえ)』という言葉を重ねて繰り返します。感染者が多く、命が奪われる恐怖の中に暮らす人たちの切実な祈りであり、平和への賛美です。
聖書において平和(ヘブライ語で「シャローム」)とは、単に戦争のない状態を意味するのではなく、共同体の中に祝福が満ちて、その共同体を構成する人ひとりひとりが、またその人たちの間に調和が満ちた状態を示します。そして調和とは、それぞれが持っている善きものを、それぞれの仕方で生かしていくものではないでしょうか。
果たして新型ウイルスが蔓延する以前の社会は、こうした意味で平和だったといえるのでしょうか。これほどの感染の恐怖にさらされることはありませんでしたが、争い、貧困、病い、抑圧、搾取などによって苦しいと感じている人たちは存在し、調和が保たれている世界とはいえませんでした。こうした混沌から、世界中の人たちが新しくされ、調和の中に生きることを願うとき、私たちは、偏見や差別意識の中に閉じこもるのではなく、ウイルスに打ち勝った後には、感染以前の社会でも苦しみを感じながら生きていた人たちが、ひとりでも少なくなるような世界を目指し、ともに「Dona Nobis Pacem」と歌いたいと思います。
キリスト教精神を礎とする山梨英和大学は、神が与えるよりよい平和が未来に約束されているということに希望を託すことができる共同体です。緊張を強いられ、不安の只中にあっても、主の平和のうちに生かされていることに心を留め、落ち着いて過ごしたいと思います。
Church of the Transfiguration
The Little Church Choir 『Dona Nobis Pacem』