「天よ、喜び祝え、地よ、喜びおどれ。」詩篇96編11節(2017年7月保育聖句)
「天よ、喜び祝え、地よ、喜びおどれ。」 詩篇 96編11節
今月の保育主題の聖句として選ばれている詩篇96は、11節の言葉に続けてこう詩っています。
海とそこに満ちるものよ、とどろけ。
野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め。
森の木々よ、ともに喜び歌え。
主を迎えて。
印象的なのはこの詩の内容のスケールの大きさです。呼びかけられている対象は、天、地、海、野、森の木々といった私達を取り巻く森羅万象に及び、それらに対して、ともに喜び祝え、喜びおどれ、喜び勇め、喜び歌えと繰り返すことで並々ならない嬉しさを強調しています。これらの言葉の前には、諸国の民、国々、世界といった表現も出てきます。このような詩をうたったのは一体どんな人なのでしょうか。どんな嬉しい出来事があったのでしょうか。少し調べてみました。元の詩にはないのですが、のちに加えられた前書きには「捕囚の後、家が建てられた時のうた」と記されています。「捕囚」とは聖書を伝えたユダヤの人達が自分達の国を敵に滅ぼされ、捕らえられ、苦しめられたバビロン捕囚と呼ばれる出来事を指します。この詩は半世紀に及ぶその苦しみや屈辱からようやく解放された「捕囚の後」、人々がかつて祖国のあった地に神殿を再建した時の記念として歌われた詩なのです。
しかし現実には神殿とはいっても、再建されたものはかつてソロモン王が建立した壮麗な神殿とは比べようもない小さな建物でした。けれども長期の捕囚生活を耐え忍び、ついに神殿の再建をはたした人々にとって、それは他の何ものにも代えがたいうれしい神の「家」でした。以前の繁栄を知っている人達からしたら神殿とは名ばかりの貧相な建物に見えましたが、神様を信じて苦しい出来事に耐え、解放を待ち望み続けた人達にとっては、それは今、自分達が、森羅万象、すべてのものをお創りなった全能の神様にお捧げできる唯一のものでした。他のもの、他の人、他の神々の神殿と比べたら確かに小さいし、拙いし、貧相なものかもしれませんが、そこにある祈り、神様への信仰、未来への希望は誰にも負けない。その思いがこの建物には込められている。だからどうかその思いを分かち合い、「ともに喜び歌」ってほしい。そんな気持ちがこの詩にはとても強くにじんでいます。
人々は、この詩を歌うことで心を高く上げて、「捕囚の後」の新しい時代へと歩み出します。苦しい歴史を経験し、辛い現実の只中にあればこそ、この詩を創った人達と、この詩を歌った人達は真の力と栄光は人にではなく神に、天地万象の創造者である神様にあることを心に刻んで支えられます。そしてこの神様こそが民族の違いや信仰の違いを超えて、世界のあらゆる民を、自然界にあるものも含めて、公平と正義と真実によって、慈しみをもって治められるお方であることを拠り所に、先の見えない厳しい現実に向き合い、多くの困難を乗り越えていきます。この詩には地上のいかなる権力をも相対化する力強さと自由があります。この自由をこれからの時代を生きてゆく子供達の生涯にわたる揺るぎない指針として届けたいと願います。
園長 大木正人