求めなさい。そうすれば、与えられる。(2019年1月保育主題)
求めなさい。そうすれば、与えられる。(マタイによる福音書7章7節)
今年度の3学期始業式は1月10日ですが、その4日前の1月6日はキリスト教の暦では、占星術の学者達が幼子キリストにお会いした日とされています。そこでこの日を公現日あるいは栄光祭、英語ではエピファニーと呼んで、イエス・キリストがユダヤ人だけではなく世界のすべての人々にお姿を示された日として祝います。この占星術の学者達の旅を巡って、聖書にはありませんが、こんな伝説があります。
東の方で見つけた星に導かれてはるばるユダヤのエルサレムまでやって来た占星術の学者達でしたが、どうしたことか、エルサレムの南数キロ、目的地を目の前にして、彼らは肝心の星を見失ってしまいます。目標の星を見失った彼らはどうしたらよいのか困り果て、途方に暮れてしまいます。彼らは失望し、首を垂れ、ただうなだれるばかり。ところが、ふと、そこにあった井戸に何気なく目を落とすと、丸い鏡のような水面に、めざすあの美しい星が映っているのを見つけます。不思議に思ってもう一度目を天空に向けると、そこには、先に見失った星が輝いています!彼らは喜びにあふれ、再び勇気が与えられ、夜空に輝くその星に導かれて歩き出し、ついに目指すベツレヘムの村に至り、幼子キリストと出会うことができた。
『聖書大辞典』「博士の井戸」の項より
星に導かれて順調に旅をしてきた「学者達」が「目的地を目の前にして」「肝心の星を失って」しまう。なぜ彼らは「星を見失って」しまったのか。理由は分かりません。思いもよらないアクシデントに見舞われたのか。それとも自分達の知識や経験では対処できない厄介事に巻き込まれたのか。占星術の学者達が星を見失うというのはただ事ではありません。しかし彼らのその経験、「困り果て、途方に暮れ」、「失望し、首を垂れ、ただうなだれるばかり」の挫折、「目標の星を見失っ」てしまう辛い経験は決して他人事ではありません。私達にもこれに近い現実に直面する事があるからです。失望し、うなだれることがあるからです。そんな私達にとって、興味深いのはその後の展開です。
「途方に暮れ」た学者達が、「ふと、そこにあった井戸に、目を落とすと、丸い鏡のような水面に、めざすあの星が写っているのを見つけ」たというのです。これはとても暗示的です。困難の只中にある時、私達が見つめるべきなのは空しい彼方ではないということなのでしょう。見るべきはむしろ自分達の足下です。更にその下の、水が湧き出る深い井戸の底です。そこに星は輝いている。星は必ずしも空に輝いているとは限らないのです。求めるものは既に輝いている。確かにそこにある。深い井戸の水面にある、その小さな輝きに私達が気付けるかどうか。もし気づけたら、私達は、心もまなざしも高く上げて、もう一度立ち上がれる。「喜びにあふれ、再び勇気が与えられ」て再び歩き出せる。地上を旅する学者達の失望と再出発の伝説はそのことを私達に教えてくれます。
2019年が始まりました。先行き不透明な時代ですが、私達には常に行くべき道を指し示す希望の光、導き手であるイエス・キリストがおられます。そのことを信じて歩みましょう。「求めなさい。そうすれば、与えられる」とイエス・キリストは仰って下さいました。
園長 大木 正人