「二人または三人がその名によって集まるところには、私もその中にいる。」マタイによる福音書18章20節(2017年11月保育聖句)
「二人または三人がその名によって集まるところには、私もその中にいる。」
マタイによる福音書18章20節
今年はマルティン・ルターがドイツで宗教改革を始めてちょうど500年にあたります。今日のプロテスタント教会を生み出し、歴史の教科書にも記されている出来事ですが、その中心は、礼拝改革によってイエス・キリストの福音を私達の中に生き生きと根付かせることにありました。キリスト教は何よりもまず共に集い、礼拝し、祈ることを大切にするからです。
キリスト教では、ひとは誰もが神様によって一人ひとりかけがえのない大切な存在とされていると考えます。ひとはまずひとりの存在として重んじられる。だから私達は、ひとりであること、ひとりとなることを恐れる必要はありません。神様は、いつも、いつまでも私達と共にいてくださるからです。この信仰が私らしく生きる拠り所であり、またそこからお互いを認め、重んじ、慰め、励まし、諭し、誤りがあれば忠告し、日々のより良い歩みが形成されていく。それを整え、生かし、力づける核となるのが礼拝です。
今月の保育主題として選ばれている聖書の言葉は、そうしたことを伝える文脈の中で告げられているイエス・キリストの言葉です。
「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる。」
「その中にいる」とは、イエス様が共にいて、私達の思いを受け止め、分かち合ってくださるということです。ここでのポイントは「二人または三人」というところにあります。もちろん神様は私達が一人でささげる祈りを聞いて下さいます。神様は、私達一人一人の心の奥底にあるどんな小さな祈りも受け止めて、すくい取って下さいます。言葉にならない切なる呻(うめ)きをさえも聞き取ってくださいます。
私達には誰もが他人には知られたくない秘密があるものです。秘密は必ずしも悪いものとは限りません。秘密は大人であることのしるしなのだと精神科医のトゥルニエは言っています。それに関わる微妙なことは一人でしか祈れないのです。しかしそれとは逆に、みんなに知ってもらい、みんなで祈り願うべきことが私達にはあります。みんなの思いと力を結集しなければ実現できないことが私達にはあります。例えば、大切な子ども達の健やかな育ちやその子達が生きる世界の平和はみんなで祈り願い、その実現を求めるべきことの一つです。そうしたことを願い、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」とイエス・キリストはお約束してくださったのです。しかもこの言葉のすぐ前でイエス様はこう告げてくださいました。
「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父(神様)はそれをかなえて下さる。」
しかもそのことをイエス様は「はっきり言っておく」と仰ってくださいました。なんと心強いお約束でしょうか。感謝しつつこれを支えに、日々祈りを大切に歩み続けましょう。
園長 大木正人