「見よ、わたしはあなたと共にいる。」創世記28章15節(2018年1月保育聖句)
「見よ、わたしはあなたと共にいる。」 創世記28章15節
クリスマスに誕生をお祝いしたイエス・キリストについて、聖書は「その名はインマヌエル、神は我々と共におられるという意味である」と語っています(マタイによる福音書1章23節)。ある研究者によれば「神は我々と共におられる」ということこそ、旧約新約の聖書全体を貫く中心メッセージです。
聖書は様々な場面で「神様は私達と共におられる」ことを語っていますが、1月の保育主題として選ばれている創世記28章15節はその中でも特に印象深い箇所の一つです。ここで神様から、「見よ、わたしはあなたと共いる」と語りかけられているのは、ヤコブ(後にイスラエルと名前が変わるユダヤ民族の祖)という人物です。彼はそのとき双子の兄エサウの前から逃げていました。その原因はヤコブ自身にありました。ヤコブは彼を偏愛する母リベカに促されて兄を出し抜き、高齢の父イサクをだまして、兄が得るはずの相続権と祝福を横取りしてしまったのでした。それを知った兄は激怒して「弟のヤコブを殺してやる」と言い放ちます。ヤコブの身を案じた母は彼にハランに住む叔父ラバンのもとに逃げるようにと勧めます。母に言われて家を出たヤコブはハランに行く途中、後にベテル(神の家)と呼ばれる場所で野宿をします。
知略をめぐらして父をだまし、兄を出し抜いたヤコブは、本来自分のものではない特権と祝福をまんまと手に入れましたが、それと引き換えに失ったものもまた大きかったのでした。父との断絶、兄との破局。もはやヤコブには心安らげる場所がありません。後悔と先の見えない不安にさいなまれながら、ヤコブは一人、石を枕に身を横たえます。その夜のことです。
彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使たちがそれを上ったり下ったりしていた。見よ、主が傍に立って言われた。「・・・わたしは、あなたの神、主である。(中略)見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、(中略)決して見捨てない。」
真っ暗な夜、凍える野原にただ一人、上着をまとって身を丸めるヤコブは、「主が傍に立って、『見よ、私はあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守り、決して見捨てない』」と告げる神様の声をききます。それは孤独の中で聞いた神様の声でした。自分が犯した過ちに震える中で聞いた神様の声でした。神様がこんな自分と共にいて下さる。いつまでもどこまでも共にいて下さる。「決して見捨てない」とさえ仰って下さる。ヤコブは神様のその声によって、その言葉、約束によって救われます。慰められます。そして気付かされます。自分がどんなに傲慢あったか。知恵を誇って高ぶっていたか。おそらくヤコブはこのとき初めて自分が犯した過ちの深さに思い至ります。自分が裏切った父が受けた屈辱、傷つけた兄の痛み、家に残る母の悲しみ。ヤコブは神様の夢と言葉に恐れおののきつつ目を覚まします。そして神様が共におられ、この旅路を守って下さるとの約束に支えられて新たに次の一歩を踏み出します。
聖書のこの場面から「ヤコブのはしご」という言葉が生まれました。早朝や夕方、雲の切れ間から陽の光が大地に差し込んでいる様子を表すときなどに使います。17世紀のオランダの画家レンブラントが得意とした技法なのでレンブラント光線ともいわれます。「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びて」いる「ヤコブのはしご」は、天から地に向けてかけられる神様の救いを示しています。救いは天からこの世界に向けて、神様から私達に、いつも計り知れない尊い恵みとして届けられます。「見よ、わたしはあなたと共にいる。私はあなたを守り、決して見捨てない」と告げられる神様が孤独な私達を癒し、正して下さいます。私達の傍に常に共にいて下さる神様の恵みを信じて新たなこの1年も歩んで行きましょう。
園長 大木正人