「息あるものはこぞって、主を賛美せよ。ハレルヤ(詩編150編6編)」2019年6月保育主題
息あるものはこぞって、主を賛美せよ。ハレルヤ。
詩篇 第150篇6節
新年度最初4月の保育主題の聖句は「見よ、私(=神様)は、その民を、喜び楽しむものとして、創造する」でした。それを受けて先月は「天の下にあるすべての物は私(=神様)のものだ。」そして今月6月は「息あるものはこぞって、主(=神様)を賛美せよ。ハレルヤ」が保育主題の聖書の言葉です。神様がすべてのものをお創りになり、恵みによってご支配くださっていることを受け止めて、喜びと感謝の賛美をささげようという呼びかけです。
今月の主題聖句である詩篇の第150篇について調べていて、とても印象深い指摘に出会いました。少し長いのですが大切な点だと思いましたので以下に引用させていただきます。
(この詩が主と呼んでいる)ヤハウェは万物を創造し、これを維持するとともに、その民イスラエルとその都シオンを守り抜き、虐げられた者たち、社会的に弱い立場に置かれた人々を保護する神なのである。主を賛美せよとの要請はそうした文脈で発せられている。(中略)詩篇という書が、いつ、誰によって、どのように編纂されて成立したのか、その詳細はわからない。詳細は不明だが、詩篇の編纂が進められたのは第2神殿時代である。(中略)(この時代)ユダヤはエルサレムを中心とした狭い地域に限定され、政治的独立は夢に過ぎず、経済的に豊かさを享受し得た者たちは社会のごく一部に限られていた。それは人々がもろ手を挙げて神を讃えうるような時代ではなかった。にも関わらず、詩篇の最終編纂者たちは「神を賛美せよ」と繰り返す作品をもって詩篇全体の締めくくりとした。彼らにとって神への賛美は、満ち足りた人々による感謝であるよりは、厳しい状況に生きる信仰者たちの希望の表明であったのである。神に嘆き訴える切なる祈りが神への賛美に連なる理由がそこにあった。
(月本昭男『詩篇の思想と信仰』新教出版社より)
教えられたのは、「主を賛美せよ」といっている者も、それに促されて主を賛美している人達も、現実には決して「満ち足りた人々」ではなく、むしろ「虐げられ」、苦しめられる「厳しい状況に生きる」人達であったということです。「満ち足りた」喜びや平安、平和や安定の中での「賛美」ではなく、むしろそうしたものがさまざま奪われ、もはや神様に「嘆き訴える切なる祈り」しかできない。そのような中で、それでも神様に望みを置いて希望をつないでいる、そうした「希望の表明」が、ここでの「主を賛美せよ。ハレルヤ」の一句に結実しているのです。
どのような時も、私達には、このように祈り、願い、訴え、呼びかける相手として主なる神様がおられる。そのことを皆さんと共に心の奥底に刻みたいと祈ります。それが子ども達はもとより私達に生きる勇気と力をもたらす源なのだと信じます。
大木 正人