「同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」2019年11月保育主題
同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして
フィリピの信徒への手紙2章2節
今月の保育主題の聖句は、伝道活動を理由に獄に囚われていた使徒パウロが、彼の身を案じるフィリピ教会の仲間達に書き送った手紙の中に出てくる言葉です。
あなたがたには、キリストを信じるだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、私の戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、‘霊’による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れたものと考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。(1章29節〜2章5節)
パウロはこのように記して仲間達を励まします。厳しい現実を見据えつつ、それを覆ってあまりある神の御子、永遠の主イエス・キリストに彼らの思いと眼差しを向けさせます。たとえ今どんなに苦しい状況にあったとしても、私達はキリストに結び合わされて、「苦しむことも、恵みとして与えられ」、「キリストによる励まし、愛の慰め」をいただいている。神様がイエス・キリストによって私達一人ひとりを尊び、見守っていて下さる。そのことを信じて、お互い遠く離れていても、「心を合わせ」キリストと「思いを一つにして」歩み抜こう。「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れたもの考えて」いこう。明日をもしれない獄中にありながら、パウロはそのように記して人々を励まします。ここからどのようなことを学べるのでしょうか。最近読んだある本に記されていた次の一節が思い出されます。
我々の多くは、つながりを祭りあげることにあまりにも精力を費やし、相違をありのままに評価することを忘れがちだ。我々は、すべての人間と打ち解けることができるようなふりをする。自分とは違う人々、宗教、民族、言葉、肌の色、顔立ちの違う人たちとも全く問題なく、もはやそうした相違は気づかないとうそぶく。こうした寛容にはある種のなまくらな感じがつきまとう。もはや驚くようなことは何もないというのだ。見えないものを尊重しろといっても難しい。「私達はお互い他人であると真に理解することができて初めて、お互いを真心から尊重することができるのです。こうした尊重が起点にあって、友情ははぐくまれていくのです。」 アリエル・バーガー著『エリ・ヴィーゼルの教室から』より
こう語るのはアウシュビッツからの生還者であるノーベル賞作家エリ・ヴィーゼルです。一見、キリストにおける「繋がり」を強調するパウロの言葉とは矛盾していることを言っているように思われますが、そうではないでしょう。パウロのいう、「同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」という言葉には、それぞれが置かれている立場や環境、状況の違い、物理的、感覚的な距離の遠さ、心理的な隔たりといった様々な違いや遠さがあればこそ、それをしっかりと認識することでその違いを乗り越えさせるものへと向かうことができると語っているように思われます。私達の身に引き付けてみるとき、それは親と子、先生と園児、保護者と教師といった様々な関係とその違いを踏まえた上での「同じ」、「一つ」「合わせる」姿勢こそが、この現実を切り開く真の知恵となり、「友情をはぐく」む力を生み出すと私達は信じたいと思います。
大木 正人