「神は愛です。」 ヨハネの手紙一4章16節(2016年5月)
「神は愛です。」ヨハネの手紙一4章16節
「神は愛です」が5月の保育主題です。この聖句はキリスト教の要点を示す言葉として有名ですが、胸にストンとおちて励まされることもあれば、反対に本当に神様は愛なのかと疑い、いぶかしく思うときも正直言ってあります。
悲しい出来事や辛い経験をするときそんな疑問が沸いてきます。「もし神様が愛だというのなら、なぜ世界には戦争があり、悲しい出来事がおこるのか。」「なぜ神様は苦しみや悪を許しておくのか。」私自身何回も問い、また他人からも尋ねられます。これはキリスト教では「神義論(神の正義の問題)」と呼ばれる古くからある問題です。多くの神学者がその答えを求めて考えています。愛である神様が支配するこの世界になぜ罪なき者の苦しみがあり、罰せられない悪があるのか。「苦しんでいる子どもを前にして、その子本人にであれ、その子を愛していながら苦しみを終わらせることができずにいる大人に対してであれ、堂々と口にできないような神義論は絶対に許容できない。」最近読んだ本(※)にそうありました。同感です。その本に第2次大戦中ナチスドイツによるユダヤ人絶滅作戦を生き延び、戦後ノーベル文学賞を得たエリ-ヴィーゼルの代表作『夜』の「最も耐え難い光景」としてある子どもが強制収容所で処刑される場面が取り上げられています。
囚人たちはその(子供の)苦吟を見ることを強制された。
絞首台でその子がゆっくりと死んでゆく時、隣にいた囚人が彼(ヴィゼール)につぶやく。
「神はどこにいるんだ?」ヴィーゼルは答えた。
「あそこにいるよ、あの絞首台の上に。」
最後のせりふは暗示的です。《神は死んだ。もはや神を信じることはできない》と取ることもできれば、《神はその苦悩のただ中にいた》と取ることもできます。
私は思います。聖書が「神は愛です」と告げるとき、そこには病む者、悩む者、苦しむ者、貧しい者の友として生き抜かれ、孤独と絶望と激痛の十字架で殺され、しかしそこから復活されて今も私達と共にいて下さるイエス・キリストへの信仰がある。そのこと抜きに決して聖書は「神は愛です」とは語ってはいない。
聖書が語る「愛(アガペー)」は《私にとってあなたは何より大切な存在だ。その思いを私は身をもって示す》そんな実に情熱的な思いを表す言葉です。そのことをイエス様は世に示され、歴史に刻まれた。イエス・キリストこそ神様が苦悩のただ中にもおられ、神などいないとしか思えないこの世界の現実の中にも確かにおられる揺るぎない証、希望です。
神は愛ですという一句はキリストが命を懸けて私達にもたらして下さった神様の救い、慰め、励ましであり、生き抜く力、知恵、勇気、優しさの源です。そのことを未来に向けて今を生きている子供達と共に心に記し歩んでゆきたいと願います。
※ピーター-バーガー著『現代人はキリスト教を信じられるか‐懐疑と信仰の間で』
園長 大木 正人