「愛はすべてを完成させるきずなです」コロサイの信徒への手紙3章14節(2018年2月)
「愛はすべてを完成させるきずなです。」
コロサイの信徒への手紙3章14節
昔、小アジアと呼ばれた現在のトルコにあった町コロサイの小さな信仰共同体(教会)に集った人達は、「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」(3:12)と告げるパウロからの手紙を受け取りました。その手紙は、他人がどう思おうと、また自分自身がどう思おうと、神様は「あなたがた」を、今日の私達も含めて一人一人を、大切な宝の民として「選び」、「聖なる者」として愛して下さっていると語ります。私達には多くの弱さや破れがありますが、神様はそんな私達を慈しみ見守っていて下さる。それを信じて他者との関わりを大切に、毎日を丁寧に謙虚に生きて行こうとその手紙は勧めます。
今月の保育主題の聖書の言葉(聖句)はその言葉に続いて記されている「愛はすべてを完成させる絆です」という言葉です。昔も今もこれからも私達にとって本当に大切な事。それゆえに難しく、私達が日々悩み、しかし求めてやまないもの。それは愛です。私達の生活はつまるところすべてこの一事を巡って動いています。
ところでこの「愛はすべてを完成させるきずなです」という言葉の前には「愛を身に着けなさい」という勧めが手紙には記されています。元の文字では「愛を着なさい」。これはコロサイが毛織物の盛んな町だったのでそれを意識しているのかもしれません。あるいはここには、いいつけに背いたアダムとエバが裸であるのを憐れんだ神様が、自ら作った皮の衣を彼らに着せられたと語っている創世記第3章が思い起こされているのかもしれません。私達は神様がお与え下さる愛という衣を身にまとい、信仰という帯を絆として生きるのです。
きずな(絆)は「ひもをぐるぐる巻いてからめること」が原義で、そこから「人を束縛する義理・人情」を現します。聖書の文字も「一緒に縛るもの」となっています。いずれにせよ本来は良い意味ではありません。しかしそれがお互いを生かすつながりや孤立からの救いなど、積極的な関わり、結び合わせる力を指すものとなるのです。そう考えて思い至ったのは「二人三脚」です。「二人三脚」はお互いをしっかりと結びあわせ、相手の歩調を確認し、配慮し合わないと進めません。結びが弱いとダメですし、かといって無理に縛ってはただの束縛で苦しいだけ。お互いの間合いを計って程度に結ばれることが肝要です。神様はそんな絆の半分を私達に差し出されています。私達はそれをどのように受け止めて結ぶのか。しっかりと正しい結び方ができれば、私達はきっと力強い愛の絆によって人生というフィールドを全力で走り抜けられるでしょう。
そのためにもまずは私達一人一人が神様によって愛されていることを信じ、そして他者をもそのように受け止められる眼差しと思いを持つ者でありたいと思います。現実には、なかなか人をゆるせず、受け入れられず、愛せない、わがままな私達ですが、そんな私達を神様はキリストの命をかけて慈しみ共に歩んで下さいます。この恵みによって少しでも謙遜と柔和さと寛容を身に着けて歩む日々でありたいと祈ります。
園長 大木正人