「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」 ルカによる福音書11章1節(2018年7月)
「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」 ルカによる福音書11章1節
イエス様は祈りを大事にされました。嬉しい時には賛美の祈り。悲しい時には嘆きの祈り。苦しい時には打ち明ける祈り。食事の時には感謝の祈り。特に何か大切な事をなさる前には、一人になって祈り、心を決め、行動されました。イエス様の行動の源は(旧約)聖書と祈りにありました。
弟子達はその姿を間近に見ていました。そこでイエス様に「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」と願いました。当時は先生から祈りの仕方や言葉を教えてもらうのが一般的だったからです。イエス様はその願いにすぐに答えて、「それでは、祈る時にはこう祈りなさい」と仰って祈りの言葉を教えて下さいました。それが「主の祈り」の原型です。
ところでイエス様が教えて下さった祈りは、最初の呼びかけからして実に独特でした。弟子達は驚いたに違いありません。それというのも通例、冒頭の神様への呼びかけは、神様に失礼がないように多くの言葉を連ねるのが普通だったからです。伝えられている呼びかけの言葉を書き写すだけでも本の1ページ位にはなります。そのくらい丁寧に慎重に言葉の限りを尽くして恭しく神様に呼びかけるのが当たり前とされていたのとはまったく対照的な呼びかけを、イエス様は弟子達に教えました。
イエス様は、ただ一言、「父よ」と呼びかければ神様は聞いて下さると示されたのです。神様は失敗を許さない恐ろしいお方では決してない。その思いが「主の祈り」の「父よ」という呼びかけには込められています。原語では「アバ」と書かれています。これは幼い子供がお父さんを呼ぶ時に使った言葉です。このままでは聖書の言葉として馴染まないので、「父よ」と訳されていますがもとは幼児語、赤ちゃん言葉です。何の恐れも遠慮も心配もなく信頼しきって、いやそもそも信頼するという事さえ意識しない位に自然に、当たり前のようにまっすぐ相手に呼びかける言葉です。私達もそんな気持ちで神様に呼びかけて祈ればいいと、イエス様は教えて下さったのです。
聖書が証しし、イエス様が示された神様は強く、優しく、厳しさといたわりをもって私達と共に歩んで下さる方です。このお方に向き合い、こうべを垂れ、祈ることを通して、私達は力を得、イエス・キリストがそうであったように、神と人との前にあって誠実に歩める。
私達の祈りに神様は必ず応えて下さる。私達への呼びかけを、神様は必ず受け止めて下さる。そのように信じて私達が心にある思いや願い、悩みや不安、愚痴さえも、どんな事でも遠慮なく訴え、吐き出せるのは、何と幸いな事でしょうか。嬉しい時、悲しい時、苦しい時、辛い時、喜ぶ時、悔しい時、迷う時、私達はいつもイエス様の祈りに守られ、祈ることができる。
「祈りは働きを促進し、肯定し、それに真剣さと喜びを与える。そこですべての言葉、すべてのわざ、すべての言葉は祈りとなる。」「祈ることと、人々の間で正義を行うこととが、人を造る」のです(D.ボンヘッファー)。祈ることを通して、私達は「自分の存在を大切な一人の人間として神と人に受け入れられていることを感じ取り、自分の存在に自信を持ち、喜びと感謝をもって生きるようになる」(「キリスト教保育のねらい」より)のです。
園長 大木正人