人はパンだけで生きるものではない。(ルカ福音書4:3-4)2023年9月保育聖句
『 人はパンだけで生きるものではない。 』
そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない。』」と書いてある。」とお答えになった。(ルカによる福音書4章3~4節) |
夏休みも終わり、子ども達は元気一杯登園しています。そして、夏休み中家族で過ごして楽しかったことなど多くの思い出を目を輝かせながら先生たちに語ってくれています。今年は、記録的な猛暑が続き、ほとんど毎日熱中症警戒アラートが出されるような状況でした。そんな中、コロナウイルス感染症の取り扱いが5類に緩和されたことにより、外国人をはじめ多くの人で各地がにぎわっています。しかし、以前に比べ新型コロナウイルスの感染状況がいまどうなっているのかが分かりづらく、不安も感じています。
今月の聖句は、イエスがヨルダン川でヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けた後、聖霊に導かれて荒野に行き、40日間悪魔から誘惑を受け続けた時のやり取りです。この時イエスは、40日間何も食べず、空腹を感じていました。その時悪魔が近づいてきて、「あなたが神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」と誘惑します。その誘惑をイエスは迷うことなく「人はパンだけで生きるものではない。」と悪魔の誘惑を退けました。私ならきっと「はい。そうします。」と悪魔の誘惑にいとも簡単に屈していたに違いありません。
私たちのまわりにも、数えきれないほどの誘惑があります。私も子供のころからずっと誘惑にさらされ続けてきました。私が小学校低学年の頃、知り合いからおみやげにバナナをいただき、家族みんなで1本ずつ食べました。でも、私はどうしてももっと食べたいという誘惑に勝てず、家族の目を盗んで余っているバナナをもう一本こっそりととって、隠れて食べました。しかし、ごみ箱に捨てたバナナの皮が動かぬ証拠となり、ものすごく怒られたことがありました。また、以前「ダイエットをして、絶対やせる。」と宣言していた友人がいました。何か月たっても全く見た目が変わっていないようだったので、「ダイエットの効果はどう?」と聞くと、その友人は「食べ物の誘惑になかなか勝てず、明日からにしよう。また明日になると、明日からにしよう。と1日伸ばしにしているうちに結局まだスタートしていない。」と言っていました。喫煙者でも、タバコが体に悪いていうことはわかっているので禁煙しようと思っていてもなかなかやめられない人が多いようです。誘惑を辞書で引くと「相手の心を惑わせて、悪い方面に事を誘い込むこと。」とあります。誘惑の背景にあるのが欲求です。アメリカの心理学者マズローは、欲求を5段階に分類しました。最も低い段階にあるのが、生理的欲求(一時的欲求)です。これは空腹を満たし、生命を維持するのに必要な欲求などのことです。マズローは、生きるために空腹が満たされて、はじめて次の段階の欲求(二次的欲求)が生まれるのだと考えました。
最近のニュースで、共済金欲しさに自分の幼い娘に食事を与えず、下剤を飲ませ、5年間で39回も入院させた母親が逮捕されたという事件がありました。また、「簡単に大きな収入が得られる仕事がありますよ。」という誘惑につられ、犯罪に手を染める若者が増えているという報道もよく耳にします。このように欲しい時に欲しい物をちらつかされると、間違ったものでもつい食いついてしまう現実が私たちの身近にあります。
「マタイによる福音書」(4章4節)には、イエスの言葉として『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。』と書かれています。つまり、身体を形づくっているのはパン(食べ物)であるが、それとは別に、私たちが人間として生きていく上で大切な精神的な面を形成しているもの(二次的欲求)をイエスは、神の口から出る一つ一つの言葉(御言葉)であると私たちに教えてくれています。ともすると、私たちは自分勝手に、あれが欲しい、これがやりたいと自分中心に物事を考え、他者の悲しみ、他者の犠牲に気づかないことがあります。私自身も誘惑のパンを追い求めてばかりいる自分に気づくことがよくあります。パンはもちろん大切ですが、他にも大切なものがたくさんあることを改めて考え、実行していけたらと考えます。
園長 石川 健