わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。(2018年11月保育主題)
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
(ヨハネによる福音書15章1節)
ぶどうはイエス様がおられたカナン地方(今のパレスチナ地方)では生活に欠かせない貴重な果樹でした。その植物を用いてイエス様は「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(1節)、「あなたがたはその枝である」(5節)、「実を結び、その実が残るように」(16節)「わたしがあなたがたを選んだ」と語られました。その中には「実を結ばない枝はみな、取り除かれる」(1節)とか、「私につながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(6節)などという言葉もありますが、それは実に十分養分を行きわたらせて、より良い実とするためになされる作業です。イエス様の思いは「私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(11節)という一点にあります。
この今月の保育主題の聖句を含む「ヨハネによる福音書」の13章から17章は、イエス様の告別説教と呼ばれる箇所です。イエス様はこのあと捕えられて、不当な裁判によって十字架刑に処せられてしまうことになるからです。イエス様はご自分に残された時間がわずかであることを思いつつ、弟子たちがこれから自分で考え、判断し、行動するための備えとして、情熱を込めて「告別説教」をされました。
ところで、イエス様はしばしば「私は何々である」と仰ったことが「ヨハネによる福音書」には記されています。「私が命のパンである」。「世の光である」。「門である」。「良い羊飼いである」。「道であり、真理であり、命である」などです。その一つに、今月の保育主題の聖句も含まれます。たとえに用いられるのはどれもみな私たちを生かし、導き、見守り、支えるものばかりです。イエス様は、これから先、どんな事があっても、いつもあなたがたと共にいる。この地上では会い見る事がなくても私は生きている。命を育むための「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である。」イエス様はそう約束してくださいました。興味深いのは、ここで言われているぶどうの木が、水の乏しいパレスチナの地では最も不恰好なズングリした、高さはせいぜい2~3㍍の木だということです。しかしそんなぶどうの木が人々の渇きを癒し、空腹を満たし、傷さえ癒す薬にもなる貴重な働きを担うのです。イエス様はわたし達が神様の恵みによって生かされて、他者を支えるものとなることを確信しておられます。私たちがたとえどんなに弱々しく破れに満ちたものであったとしても、キリストの言葉を心に留めて毎日を歩むなら、神様はそれを喜んでくださるのです。
木の何であるかは実によって知られます。神様は、私たち1人1人の思いと言葉と業を通して、その働きを世界に示されます。神様はそのようにして、豊かな恵みと祝福を世界にもたらし、実現されます。私達自身は弱くつたない者ですが、そんな私達を神様は選び取り、キリストに繋げ、キリストの友としてくださっているのです。
イエス様は神様のことを「農夫である」と仰います。夏は暑さのその中で、冬は凍える寒さの中で大地を耕し、命を育むために配慮し、仕える農夫。神様は実にこのようなお方として私たちに向き合ってくださっている。そのことを心に刻み、キリストの恵みと神様の愛に生かされながら、私たちは神様が日々成長させてくださる子ども達と共に歩みます。
園長 大木 正人