一緒に喜んで下さい。(ルカによる福音書15章6節)2023年1月保育聖句
『 迷い出た1匹の羊 』
クリスマスの子供たちによるページェント(降誕劇)の感動も冷めやらぬ中、あっという間に1年が過ぎさりました。2022年は、北京で行われていた冬季オリンピック、その終了を待っていたかのように始まったロシアのウクライナ侵攻。平和の祭典を、一瞬にして打ち消してしまう出来事に世界中が言葉を失い、大きな悲しみに包まれました。2023年は世界中の人々、特に子供たちが笑顔で生活できるよう祈ります。
1月は、集団と個人について考えてみたいと思います。学校教育の中では長年、全体主義が重要視され、その前では個人の考え、個性などは全く顧みられない環境が続いてきました。「個性を大切にする。」と言っておきながら、実際には集団での活動を強要し、みんなと活動できない子供は叱られることが多いです。私が教員をしていた時、最も重視したのは学級集団作りでした。その中で、生徒たちに言い続けたことは、「集団は個人のためにある。集団のために個人がいるのではない。だから、個人のためにならない集団や個人を排除する集団は、私たちが目指す集団ではない。」ということです。
私は、小学校3年生の時、運動会のフォークダンスがとても嫌でした。嫌々やっているのですから、先生から見るととても不満だったのだと思います。私は、担任のT先生からみんなの見ている前で3~4発殴られ、思い切り怒鳴られました。私以外にも、まじめにやっていない子はいたのですが、私が怒られているのを見て、みんなビビってしまい、フォークダンスをビシッとまじめにやるようになったのが印象的でした。結果的に私は、集団に従わないとどんな目に合うかを他の児童に知らせるためのスケープゴートとなりました。
“一人のために”
最大多数の最大幸福に
すべての視線が集中するとき
迷える羊一頭を索(もと)めて
夜も眠らざる大教師をなつかしむ
一人を徹底的に愛し得ぬ者が
なんで万人を愛しうるか
親に完全に捧げ得ぬ若者が
なんで社会に捧げ得るか
老人に席をゆずり得ぬ女学生が
なんで貧民全体をすくい得るか
個に徹せざる全は無力なり
具体に活現せざる抽象は空虚なり
我等いま縁の下の一隅に生く
光栄の縁の下よ
縁の下の一隅に
お前はなにを捧ぐるか
安積 得也
上記に挙げた詩は、私の最も好きな詩です。教員時代、私を支えてくれた詩です。詩中の「個に徹せざる全は無力なり」という部分は、まさに私の学級集団作りの原点です。
さて、1月の聖句は、徴税人(市民から正規の税に上乗せして高額な手数料をとり私腹を肥やす悪人とされていた。)や罪人と罪人が話を聞こうとしてイエスに近寄って来たのをファリサイ派の人々や律法学者(イエスに批判的)が不満を述べたことに対してイエスか語ったたとえです。ルカによる福音書には、たとえの後に「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」と述べられています。
学校やこども園では、みんなと一緒に活動できない子供、じっと座っていられない子供、いうことを聞けない子供など多くの個性を持った子供がたくさんいます。でも、そのような子供1人1人を決して軽んじることなく、大切にできる教育環境、集団こそが必要なのだということを聖書は私たちに教えてくれています。
園長 石川 健