『隣人を自分のように愛しなさい。』(マルコによる福音書 12章29~31節)2024年7月保育聖句
『隣人を自分のように愛しなさい。』
「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたち の神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、 あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』 この二つにまさる掟は、ほかにない。」 (マルコによる福音書 12章29~31節) |
今年は、未だに梅雨入りが発表されず、(6月20日現在)したがって梅雨明けもいつになるのか分からず、雨不足による農業被害、生活用水不足も心配される今日この頃です。
先日、あるこども園で子どもたちとランチを食べている時のことです。私がバナナを食べようとすると、子どもたちが「園長先生、他の物を全部食べなければ、バナナを食べちゃいけないんだよ。」と教えてくれました。私は長年中学校の教師をしていましたが、食べ物の順番など考えたことがありませんでした。しかし、小学校に4年間勤務した時には、給食に関してかなり細かいルールがありました。モクモクタイムといって給食が始まってから20分間は喋ってはいけないとか、早く食べ終わってもデザートタイムが始まるまでデザートを食べてはいけないなど独特のルールが存在し、とても違和感を持ったことを思い出しました。食事の作法、食べ方などは家庭によって様々だと思います。私は子どもの頃、好きなものから食べ、そうでないものは後から食べるという食習慣がありました。私以外の家族は嫌いなものから食べ、好きなものをとっておいて一番最後に食べるという食習慣でした。食べる順番や箸の持ち方などで怒られたことはありませんでした。そんな意味では、食事に関してはとても寛容な家庭で育ったと言えるかもしれません。そんなこともあり、小学校やこども園の食事のルールには少し違和感を持っています。ただし、先生方が日々多くの子どもたちを相手に給食指導を行うのはとても大変なことだということも理解しています。従って、先生たちの行っている指導を否定するつもりもありません。でも、みんなが集い一緒に楽しく食事をする給食の時間に細かいルールが存在し、子どもたちが自分で食べるものの順番を選択できないルールがどうして必要なのかが私には理解できません。本当の意味での食育とは、例えばランチで大根が出れば、「大根ってどうやって作るのかな?」、「大根の料理ってどんなものがあるの?」、「大根作るの大変なのかな?」などみんなが食材や食事に関心を持ったり、考えたりすることだと思います。食に対する興味関心、食事の楽しさ、毎日食事ができる事の感謝など成長と共に考えが広がっていきます。食を通して学ぶことは、たくさんあります。
今月の聖句は、『隣人を自分のように愛しなさい。』です。これは、律法学者の「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」という問いにイエスが答えたものです。第一は、主を愛すること。第二が、「隣人を自分のように愛しなさい。」です。この聖書の御言葉を理解するためには、考えなくてはならないことがいくつかあります。一つは隣人とは誰を指すのかということです。一般的には家族、友人、知り合い、など少なくとも何らかの関係のある人のことを指すと思います。それは、間違いではないと思いますが、聖書の中でイエスがいう隣人とは、必ずしも知っている人とは限りません。困っている人、虐げられている人、差別を受けている人、食べ物もなく日々の生活に困っている人、その他誰かの助けなしでは生きていくことが困難な人すべてを指します。こども園で子どもたちが食前の感謝の祈りをする時、「世界中には食べ物が食べられない人がいます。」と会ったことのない人のことを思い祈ります。これが、隣人です。
次に、隣人を自分のように愛するということで難しいのは、私たちが自分を大切に考え、自分自身を愛することができているかということです。自分を愛するというと、自己中心的、自己愛が強すぎる、ナルシストなどマイナスのイメージもあります。でも、自分を大切なものと思い、自分を愛せない人間がどうして隣人を愛することができるでしょうか?乳幼児期に十分な愛情を注がれなかった子どもは、時には愛着障害などの症状が出る場合もあります。したがって、自分を大切に考え、自分を愛すことができるようになるためには、愛されることが必要です。自分が愛されていることを理解している子どもは、きっと自分が受けている愛情を自分以外の人や物に注ぐことができます。
園長 石川 健