「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」 創世記12章4節(2017年10月保育聖句)
「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」創世記12章4節
ある日、アブラム(後のアブラハム)は神様の声を聞きました。
主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。」
彼がこれを聞いたのはメソポタミアのハランにいた時でした。その前はカルデヤのウルという文明の発祥地とされる都市に、彼はいました。ウルは世界で最も古い法律集が作られ、バベルの塔のモデルとなった壮麗な神殿があった先進文明の地でした。そこをアブラムは父のテラと共に出てハランに来たのでした。彼らはなぜ文明の地を離れたのか。もしかしたら文明の発達を誇り、物質的な豊かさを追い求め、天まで届くような建物を造って神に並ぼうとする人間の傲慢は、やがて人を滅ぼすと考えたのかもしれません。彼らはハランに移り住み、父テラはその地で亡くなります。そんなある日の事なのです。神様はアブラムにその地を離れて私が示す地に行きなさいと言われました。これはアブラムにとって厳しい命令だったはずです。なぜなら彼はその地ですでに半世紀以上を過ごしていたからです。それだけの年月、同じ所に住めば様々な繋がりができます。神様が「離れよ」と命じる「父の家」には多くの友人知人親類縁者がいます。「父の家」は最も確かな後ろ盾、安全な場所です。「故郷」は心休まる所です。そこから「離れよ」と神様は命じられるのです。これは地縁血縁が極めて強くものを言う古代社会では実に重大なことです。アブラムはこの時75歳、体の衰えを感じてもいます。その彼に神様は慣れ親しんだ土地を離れて新たな場所に行けと言われるのです。しかも神様はアブラムにそこがどこなのか、いつ終わる旅なのかまったく示されません。「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」と聖書はサラッと語っていますが、恐くなかったのでしょうか。いやではなかったでしょうか。彼は何の迷いもためらいもなく、すぐに旅立ったのでしょうか。それとも、さすがのアブラムも恐れ、ひるんだのでしょうか。できればこの地に留まって、父が葬られているこの町で自分も生涯を全うしたいと願ったのでしょうか。気になるのですが、聖書はアブラムの心中については何一つ語っていません。
それは、おそらく、人は信じても悩むし、信じているからこそ苦しむ時があるということを、聖書はよく知っているからです。信じていても人は迷う。信じているからこそ不安になる時もある。それが当たり前。だから聖書はあえて書かない。アブラムも私達と同じようにうろたえたに違いないのです。しかしその中で、恐れや不安のその中で、彼は神様を信じてとにかく一歩を踏み出した。その姿勢が何よりも大切だから、聖書は「アブラムは主の言葉に従って旅立った」だけと語っている。そして聖書は、そんなアブラムを「神の友」、「信仰の父」と呼ぶ。
私達もまた彼のように、自分の心の奥底に響く声を聞き、その声に捕らえられ、その力に押し出されるように決断し、進んで行く。胸に響く声に促され、励まされながら、日常という日々の冒険の旅を続けていく。私達は地上では旅人であると聖書は言っています。神様の喜びと救いの出来事は、それを信じる私達一人一人の決断と行動によって世界に刻まれていく。いくつもの弱さや破れをもった私達の信じる勇気によって具体化する。私達は、神様がそのことを良しとされたことに励まされ、神の言葉を生きる指針、羅針盤、力として終りまで歩み続けます。
園長 大木正人