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2017.6.26 / 学校生活 /

放送礼拝 御園生先生

「 信じる  」放送礼拝  ヨハネによる福音書20章26節~29節      2017.6.26 

先日、「星言葉」という小さな本に出合いました。この本を書いたのはカトリックの神父さんの晴佐久昌英さんです。前書きには、「ふと気づいたら、この星に生まれていた。あまりにも美しく、何から何まで不思議な星。・・・ぼくは、この星が好きだ。だから、もっとこの星をよく知りたいし、この星と深く交わりたい。・・・そんな思いを、この星に生まれた仲間たちと分かち合いたくて、この本を書いた。この星の言葉には、力がある。疲れたとき、迷ったとき、一番大切なことを見失いそうなときにこの本を開けば、きっと何かいいことがあるはずだ。ぼくはそういう、この星の上の不思議なご縁を信じている。」とありました。
 そして「愛する」「生きる」「歌う」「恐れる」など50の項目を通して、神様のこと、神様の愛について書かれています。
 今日はこの本の中の「信じる」ということについて紹介しながら考えたいと思います。
本には「人は常に何かを信じています。技術を信じて車に乗り、運転手を信じてタクシーに乗ります。しかし、一方で政治やマスコミ、科学も宗教さえ信じられないときがあります。信じても裏切られることが多々あります。でも、こんな時代だからこそ「信じる」という行為には値打ちがあるのでしょう。なぜなら、あらゆる問題が、最後は「信じる」ことでしか解決できないからです。疑いは対立を生み、さらなる疑いを生みます。それに対して、信じることはそのままエネルギーです。信じれば信じるほど、生きるエネルギーが生まれてきます。どれだけ疑っても、疑いからは答えは出ません。どのみち一瞬先は、だれにもわからないのです。信じた者だけがその一瞬を切り開き、決して負けず、希望を捨てずに夜明けを待つことができるのです。」
・・・力づけられるメッセージですね。
 さて、今日の聖書の個所で、トマスはイエスがよみがえったことをすぐには信じませんでした。しかし、他の弟子たちも初めから信じていたのではありません。よみがえったイエスに会ったマグダラのマリアの話を聞いた弟子たちはそれがどういうことを意味しているか解らなかったのです。その弟子たちは自分たちの前に現れたイエスを見て初めて信じたのです。そして、「その話だけでは信じない」と言っていたトマスも、目の前に現れたイエスを見て、この方が払った犠牲によって自分が許されたのだと実感し、心から信じたのです。イエス様は、その復活を疑っていた弟子やトマスに対し、信じていないからと切り捨てるのでなく「この傷跡を見なさい。」としっかり見ることを促し、そのうえで「見ないのに信じる人になりなさい。」と愛にあふれる言葉をおかけになったのです。
 目の前にイエス様を目にしたことのない私たちは、どうすればいいのでしょうか。「見ないのに信じる人」になるためにはどうすればいいのでしょうか?
この山梨英和で聖書を読み賛美歌を歌っている私たちは、実は何度も神様と出会い、神様の愛が豊かに備えられていることを信じるチャンスを与えられています。例えば、一生懸命にやっているのにうまくいかない!なんで私ばっかり?きっと私はだめなんだ!!・・・と思ったことはありませんか?皆さんたちの各委員会や部活の方の礼拝のお話にも何回もそういうお話がありましたね。そこで悩んだことは、必ず解決が用意されていて、それまでとは違った絆が生まれたり、自分の視野が広がったり、そしてそういう機会を用意してくださった神様の愛に気づくのですね。これは、私たちがより強くなるために与えてくださった試練だったのですね。神様の愛を信じたから、何かいいことが起こったというのではありません。 私たちは、初めから全てを信じられるほど強くないのです。でも、それをご存知である神様は、私たちに何度も何度も「本当に信じる機会」を与えてくださいます。ですから、その機会を逃さず神様の愛に気づくことができれば幸いなことです。「信じるものが救われる」のではなく「信じることそのものが救い」なのだと思います。その「信じるエネルギー」をもって毎日を歩んでいきたいと思います。

お祈りします。
天の父なる神様、放送を通してですが、全校の皆さんとともに御言葉を聞き神様がともにいてくださることを見せてくださることに感謝します。私たちは苦しいことがあると、トマスのように神様の存在を疑うことがあります。しかし、そんな私たちの前に、聖書の中から「見ないのに信じる人は幸いである。」と何度も愛にあふれる言葉をかけてくださいます。 今日一日、神様のみ手の内にあって、御心にかなう行いができますように。この祈りを主イエスキリストの御名において、御前に御捧げ致します。  アーメン

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