放送礼拝 中原先生
自分を愛するように
マルコによる福音書12:29~31
私は時々「あなたは自分のことが好きだよね」と言われることがあります。最近もある人からそう言われました。その方がどういうつもりで言ったのかはわかりませんが、私はそう言われて改めて考えてみますと、確かに自分のことが嫌いではありませんので、その言葉を褒め言葉として嬉しくうけとめました。しかし、私自身もそうですが、いつでもどんな時でも、自分自身を受け入れ、好きでいることができているかといえば、そうではないと思います。失敗をしたとき、人に傷つけられた時、また逆に、人を傷つけてしまった時、自分のことが嫌になります。もしかしたら、「あの人を見てごらん。それに比べてあなたは、、、。」と心無いことを言われて、傷付いた経験をしたことのある人もいるかもしれません。そうすると、自分なんか、と何もかも投げ出したくなります。また逆に、褒められたり、何かを達成できたり、人と比べて自分の方が何かできたりすると、それだけで誇らしくなり、自分自身のことを好きになったりもします。そのように私たちは、自分自身の捉え方が不安定で、浮き沈みがあります。もし様々な出来事に左右されずに、人との比較でもなく、真の意味で、自分を愛し抜くことができたら、それはとても素敵なことだと思います。私はそのような人に憧れます。
今日の聖書の個所は皆さんにも馴染みがありますね。31節の「自分を愛するように隣人を愛しなさい。」この言葉は馴染みがある上に、私はずっと万人に受け入れられやすい言葉だと思ってきました。しかし、今回この言葉を時間をかけて考えているうちに、どうもそうではないと思うようになりました。
理由が2つあります。先ず初めに、「自分を愛するように、、、」と言うけれども、先ほど申しましたように、そもそもいつでも変わりなく、自分を愛せないのが私たちであるからです。だから本当は、すでに31節の冒頭のところで私たちは躓いてしまうのです。
もう一つの理由は、自分を愛することができていると思っている時にも、果たしてイエス様の仰る意味で、真に自分を愛することができているのだろうかと思うからです。例えば、人よりも何かできるから、人よりも何かをたくさん持っているから、自分自身を肯定的に受け入れることができる。しかしこれは、真に自分を愛しているのではなく、優越感にすぎません。そして問題は、優越感をもって隣人と接しなさい、とイエス様が言われたのかと言えば、もちろん、そうではないでしょう。
このように考え始めますと、イエス様に問いたくなってきます。「イエス様、自分を愛するように、と仰いますけれども、真の意味で自分を愛するとはどういう意味ですか? どうすればあなたの仰る意味で、自分を愛することができるのですか?」と。
この問いに対する答えが、私はしばらくわかりませんでした。しかし、聖書に問い続け、何度も何度もこの聖書の箇所を読むにつれて、イエス様はしっかりとその問いに答えてくださっているということに私はハッと気付き、嬉しくなりました。「あなたの心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」全身全霊で神様を愛しなさい、これが、第一に大事なことだと、イエス様は言われているのです。そして、それと同じだけ大事な、第2の掟は、「自分を愛するように、、、、」とイエス様は続ける。つまり、イエス様にとって、主なる神を愛することと、自分自身を愛すること、そしてさらには、隣人を愛することは別々のことではないということです。私はこのことに改めて気づかされました。
ではそのように、「愛しなさい」と私たちにお命じになる神様は、どのような神様なのでしょうか。もう一度、29節と30節を読んでみます。「イエスはお答えになった。『第一の掟は、これである。イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』」。これは、申命記第6章4節の言葉です。イエス様はそれを引用しておられるのです。少なくとも第4章から、この第6章までを、あとで皆さんにも是非、読んで欲しいと思いますが、そこでどういうことが言われているかと言うと、神様の愛が、繰り返し繰り返し語られているのです。どんなことがあっても見捨てはしない。だから譬え背くようなことがあっても、また戻ってくるのだ、と、もう背く前から、背く者を包み込んでしまうような神の愛が、ひたすら語られるのです。つまり、私たちのことを、神様がまず、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」愛してくださっているのです。その上、私たちを愛するあまり、罪に生きる私たちを見捨てることができず、ついには神様のたった独りの子イエスキリストを、あのクリスマスの夜に、この地上にお送りくださった。いわば、まさに私たちに対する神の愛そのものであられる主イエスが、ここで「全身全霊で神を愛しなさい」と私たちに命じておられるのです。だから、その神様を同じように全身全霊で愛するのです。そのようにして、私たちを全力で愛して下さる神様を、私たちも全力で愛するようになったときはじめて、愛は、一方通行でなくなる。愛の関係が、神様と私の間に成り立たつ。そのとき何が起こってくるか。それは、自分を真実に愛するということです。そこでこそ、真に自分の価値に気が付くから、自分を愛することができるようになっていくのです。どれほど神様に愛されているかを知るからこそ、自分がそんなにも価値があるのか!とハッとするようして気が付き、自分を愛することができるようになる。
私もそういう神様の愛に気が付かされた時、自分自身のことが好きになりました。そして、私が神様にとって大切な存在であるのと全く同じだけ、私の隣にいるあの人も、この人も神様にとって尊い存在であることを知らされて、神様が大切にしているあの人のことを私も大切にしようと、「隣人を愛する」ようになっていくのです。ですから、私たちを真に愛していてくださる神様を抜きにして、私たちは自分自身を真に愛し、また私たちの周りにいるお友達を真に大切にすることはできないのではないだろうかとさえ思うのです。今日お読みした御言葉を通して、イエス様はそのことを訴えかけておられるのではないでしょうか。私はそのように今朝の御言葉を聞きました。私自身は、燃えるような神様のこの思いに触れて、改めて心燃え立たせられた思いで、今朝皆さんとともに礼拝を守っております。
私たちはすぐにでも自分の価値を見失ったり、自分なんて、と自分自身を見下したり、また他人を見下したりもします。また、神を愛し、自分自身も隣人も愛して生きたいと願いつつ、周りの人を傷つけたりしてしまう私たちです。だからこそ、いつでも何度でも、今朝聞き取ったイエス様のお言葉に立ち返ることが求められています。今朝もう一度、私たちを全身全霊で愛してくださっている神様に目を向けて、自分がどれほど尊いのかということに目が開かれる者でありたいと思う。そのことによってこそ、真に自分を尊び、私たちの隣にいるあの人のことをも大切にすることができるのですから。
お祈りしましょう。
天にまします、私たちの父なる神様、私たちを子として、いつでも愛していてくださることを本当に感謝いたします。しかし、日々の生活の中で、私たちはいとも簡単に、そのあなたの愛を見失い、自分のことをも見失ってしまいます。私たちがどれほどあなたに愛されているかを、日々深く知っていく歩みをさせてください。そして、真の意味において、神と人を愛し、また自分のことをも愛する美しい一人一人とならせてください。尊き主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。





