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2019.12.20 / 学校生活 /

放送礼拝 長田先生

129日(月) 放送礼拝

マタイによる福音書216節~18

 1日から待降節、アドベントに入りました。街ではクリスマスソングが流れ、イルミネーションの光がきらめいています。

 クリスマスと聞くと、なんだかわくわくしてきませんか。ただ単なる季節の行事としての楽しみだけでなく、街全体がほんわかと温かい気分に包まれます。

  もう何年も前のクリスマスの礼拝の時。メッセージで「クリスマスは希望です。」と話された牧師がいらっしゃいました。この言葉がとても心に残りました。

 クリスマスは希望、だから私たちはなんとなく華やいだ気持ちに、そしてそれだけでなく優しい気持ちになれるのでしょう。街中に希望が満ちあふれたような。 

 またある年、別な牧師がクリスマス礼拝でこうおっしゃいました。「どの家庭にも闇がある。イエス様の誕生にも闇の部分がある。」

 このメッセージの言葉は、とても驚きでした。小さい子供を持つ親のクリスマス会での話だったからです。そこに集まっていたのは、みんな赤ん坊を連れていました。子どもの成長を願いながらこれからいい家庭を築いていこう、というお母さんたちばかりでした。

「どの家庭も闇を抱えている。」この言葉をそれぞれが実感としてとらえるようになったのはもっと後のことになります。

 その時の聖書の箇所が今日読んだところです。

 イエス様がお生まれになった生誕劇・ページェントでは、羊飼いが天使からお告げを受け馬小屋に向かい、東方の3博士がイエス様に捧げものを持ってくる、という場面が演じられます。そして、天使や羊飼いたちが全員そろってイエス様の誕生をお祝いする場面で幕。

けれども今日の聖書の箇所では、その後のことが描かれています。イエス様が生まれた後、ヘロデ王はベツレヘムとその周辺の2歳以下の男の子を一人残らず殺してしったのです。それは、東方の博士たちがヘロデ王にユダヤ人の王が生まれた、とヘロデ王に知らせてしまったからでした。

私たちはイエス様の誕生を心から喜びお祝いしますが、イエス様の誕生の背景には多くの犠牲があったことも語られています。

 クリスマスは明るい光に満ちあふれた希望の時ですが、闇の部分も持ち合わせているのです。

ル・グウィンが書いた「ゲド戦記」の1巻「影との戦い」を読んだ人もいると思います。私も大好きなシリーズですが、第1巻では魔法使いのゲドは、自分の影を追い求めながら最後は自分の中の影つまり闇と自分が一つになります。

このことはクリスマスの光と闇と同じことを表しているのではないかと思うのです。

 つまり、光と闇は切り離すことができない表裏一体のもの。私たちは光の方を向いて生きたいと願っていますが、それは自分の中にある闇の部分を消し去ることではなく、闇の部分を抱えて生きていくということに他ならないのです。

 「どの家庭にも闇がある」これは誰にでも当てはまることです。

絵にかいたようなすばらしい家族、すばらしい人間関係というのはそうそうありません。誰もが人に話せないような闇の部分を抱えながら生きていくのです。

けれどもそれは絶望することではありません。闇を抱えてもなお、光を指し示してくれるのがクリスマス、イエス様の誕生なのです。闇が深ければ深いほど光は強くなります。イエス様の誕生に闇の部分があるからこそ、私たちはその光を信じて生きていくことができるのではないでしょうか。

「クリスマスは希望」という言葉も、闇があるからこそ切実なものとして感じられるのだと思います。闇を抱えて生きていく私たちに希望を指し示してくれるのがイエス様なのです。 

 暗い闇のような現実世界。その中にあってもなお、クリスマスはやはり希望の時です。

 クリスマスの喜びと恵みが世界の全ての人たちの上に届きますようにと祈らずにいられません。特に今苦しみの中にあり、心に闇を抱えている方々の上に。

 

 

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