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2017.5.15 / 学校生活 /

放送礼拝 久木元先生

聖書:マタイによる福音書26節69~75節 ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。 先日、ゴールデンウィークの休みを利用して、久しぶりに映画を鑑賞してきました。前回、映画館で映画を見たのは、2014年のことですから、実に3年ぶりになります。そのときに見た映画は、フランスにあるグラン・シャルトルージュ修道院の日常生活を取材したドキュメンタリー『大いなる沈黙へ』という映画でした。そして、今回は何を見てきたのかと言うと、『沈黙』という映画です。「沈黙」つながりですね。自分でも今になって気づいて、びっくりしています。何か自分の中に、「沈黙」を好む志向でもあるのでしょうか。今回見た『沈黙』という映画は、遠藤周作の小説を、マーティン・スコセッシというアメリカの監督が映画化したものです。日本では、今年の1月に公開されました。今日は、この『沈黙』という作品を通じて、イエス・キリストは私たちの弱さに寄り添っていてくださるというお話をしようと思います。 遠藤周作の『沈黙』については、今年3月の終業礼拝で、校長先生がお話ししてくださったので、覚えている人も多いでしょうが、4月から英和に入学した人は知らない人もいるでしょうから、簡単にあらすじを紹介しておきます。時は江戸時代、島原の乱が終わって間もないころ、イエズス会のフェレイラ神父が、布教に赴いた日本での苛酷な弾圧に屈して、キリスト教の信仰を捨てたという報せがローマにもたらされました。フェレイラの弟子ロドリゴと神父とガルペ神父は、その真相を確かめるために長崎に潜入し、隠れキリシタンたちに歓迎されるが、やがて長崎奉行所に追われる身となります。逃亡するロドリゴはやがて、キチジローという、彼らの密入国を手助けした人物の裏切りで密告され、捕らえられます。殉教(信仰を守るために死ぬこと)する覚悟で牢につながれたロドリゴのもとに、夜中、フェレイラ神父が訪れ、踏絵を踏むようにロドリゴを説得します。その説得を拒絶するロドリゴに、フェレイラ神父は、ロドリゴが踏絵を踏まない限り、拷問を受けている信者たちは許されないことを告げます。自分の信仰を守るのか、それとも、自分が踏絵を踏むことによって、拷問されている人々を救うべきなのか、究極の選択を突きつけられたロドリゴは、フェレイラから、「もしキリストがここにいられたら、たしかにキリストは、彼等のために転んだ(信仰を捨てる)だろう」と言われて、ついに踏絵を踏むことを受け入れます。夜明けに、ロドリゴは奉行所の中庭で踏絵を踏むことになりますが、そのとき、彼の足に激しい痛みが襲います。そして、踏絵のなかのイエスが「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」と語る声を聞きます。踏絵を踏むことによって信仰を捨てたロドリゴはその後、奉行所の監視下で、キリスト教を取り締まる側に回り、岡田三右衛門という日本人の名前を名乗り、日本人の女性と結婚して、その生涯を終えます。 ここで一つ、大きな疑問が生じるのですが、果たしてロドリゴは本当に信仰を捨てたと言えるのでしょうか。そのことを考えるために、ロドリゴが踏絵を踏む場面を検証してみたいと思います。ロドリゴが踏絵を踏む場面で、鶏が鳴く描写があります。ちょっと小説から引用してみましょう。「こうして司祭(ロドリゴのことです)が踏絵に脚をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。」この場面は、今日読んだ聖書の箇所を踏まえて書かれたことは明らかです。この聖書の箇所は、「ペトロの否認」と呼ばれ、古来、絵画をはじめとするさまざまな芸術作品に描かれてきた有名なエピソードですが、聖書に親しんだ人であれば、この、ロドリゴが踏絵を踏む場面から、ペトロの否認を連想することでしょう。つまり、『沈黙』におけるロドリゴは福音書におけるペトロの役割を担わされているのです。ペトロはこの出来事の後、自分の行いを激しく後悔して改心し、復活したイエス・キリストに出会い、初期キリスト教の中心的な指導者として活躍することになります。ロドリゴ神父という人物を造形するに当たり、遠藤周作が福音書のペトロを念頭に置いていたとすれば、ロドリゴが踏絵を踏んだ後も信仰を守り続けていたと考えることができるでしょう。実は、映画の『沈黙』では、原作の小説にないラストシーンが用意されていて、ロドリゴが信仰を捨てていたのではないことが明らかにされるのですが、それを今ここで話してしまうとネタばれになってしまいますので、そのラストシーンについては、これ以上は話しません。気になる人は、ぜひ映画館で映画を見て確認してください。 ペトロにとってイエス・キリストを否認すること、そして、ロドリゴ神父にとって踏絵を踏むことは、彼らが人間的な成長を遂げるために必要なことでした。ペトロはイエスから「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言われて、「あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と誓いました。このときのペトロは、自分を強い人間だと思い込んでいたのでしょう。自分はどんな困難に遭っても、決して信仰を捨てることのない強い人間だと自覚して、自分の中にある弱さに気づいていなかったのだと思われます。イエス・キリストが逮捕された時、他の弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまったのですが、ペトロだけはイエスの後についていきました。そして、イエスの裁判が行われる大祭司の屋敷の中庭まで入っていったのです。そこで、ペトロは、イエスの弟子であることを見破られてしまいました。「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と屋敷の女中から指摘されると、「そんな人は知らない」と否認してしまいます。イエスに対して「あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と誓ったにもかかわらず。ペトロは自分の身を守るために、一番大切な人を裏切ってしまったのです。でも、人間って、そういうものですよね。自分の身に危険が及ぶと、嘘をついて自分を守ろうとしたり、誰かを裏切ってしまったりするものです。人間はそういう弱さを抱えた存在なのです。ペトロはイエスを否認したときに、初めてその人間の弱さに気づいた。自分も弱い人間であり、自分を守るためには嘘をついたり誰かを裏切ったりする卑怯な存在であるということを、嫌というほど自覚させられた。でも、この出来事を通じて、ペトロは人間的に成長することができたのです。人間は誰でも、その内に弱さを抱えた存在であるが故に、ある行いについて良いとか悪いとか、人間が裁くことはできないのだということ。そして、そのような人間の弱さをイエス・キリストは全部分かっていて、それでもなお私たちの側に寄り添っていてくださったこと。こういったことを理解することによって、ペトロはキリストの教えを伝道できるようになったのです。 ロドリゴ神父も同様です。彼も踏絵を踏むことによって、人間の弱さを理解した。『沈黙』では、キチジローという、人間の本質的な弱さを体現した人物が重要な役割を果たしていますが、彼は前にも述べた通り、ロドリゴを奉行所に密告して褒美のお金をもらってしまうのです。そういう点で、キチジローは、福音書におけるユダの役割を担っているといえるでしょう。ロドリゴもこのキチジローに、ユダと同じような雰囲気を感じ、嫌悪感を抱いていました。しかし、踏絵を踏んだ後のロドリゴは、キチジローの弱さが理解できるようになります。ロドリゴはそれまではキチジローの弱さを裁いていたのですが、彼は自分にキチジローの弱さを裁く資格がないことを思い知り、彼の弱さに寄り添おうとするのです。イエス・キリストがペトロの弱さに寄り添ってくれていたように。 キチジローの弱さについてもぜひ話しておきたいのですが、そこまで話すと時間がオーバーしてしまうでしょうから、また次の機会に譲るとします。最後に、ロドリゴがキチジローの罪の許しを行った後、イエス・キリストに呼びかけた言葉、そしてイエスの返事を引用して閉じたいと思います。 「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」 「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」 お祈りします。ご在天の父なる神様、新しい朝を与えられてこの学び舎に集い、愛する姉妹たちとともに礼拝を守れることに感謝いたします。私たちは本当に弱く、そして小さな存在です。時には嘘をついてしまったり、誰かを裏切ってしまうような、卑怯なこともしてしまう人間です。それでもあなたは私たち一人ひとりを愛してくださり、最愛の一人子、イエス・キリストを私たちのもとに遣わしてくださいました。なんという幸いでしょうか。そして、主イエス・キリストは私たちの弱さを分かってくださり、私たちが苦しむとき、悲しむときには一緒に苦しみ、悲しんでくださいます。苦しいとき、悲しいときにも、常に主イエス・キリストが側にいてくださることを信じて、前を向いて生きていけますように、私たち一人ひとりをお支えください。来週には前期Ⅰ試験が始まります。一人ひとりが充分に力を発揮できますよう、お導きください。困難の中にあって、なかなか学校に足が向かない姉妹のことも覚えます。どうかあなたが側にいて、慰めをお与えください。この小さな祈りを、主イエス・キリストのお名前を通してみ前におささげいたします。アーメン。
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