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2017.12.19 / 学校生活 /

放送礼拝 糟谷先生

聖書  ヨハネの手紙Ⅰ 4章9-12節 (p.445) 讃美歌 271  私には1歳になる甥がいます。ようやく歩けるようになったところで、まだお話はできません。先日、私のうちに遊びに来て、食事や着替えの世話をしたのは、とても楽しいことでした。  小さい子どもに接するとき、みなさんはどんな気持ちになりますか。今の私が小さい人の世話をする時は、転んで痛くしてはいけない、どこかに指を挟んではいけない、寒くても暖かすぎてもいけない、と安全や健康に関することがらで頭がいっぱいです。でも、私が中学生・高校生の頃には、小さい子に接するときの特別な感覚がありました。大人になった今ではもう感じなくなってしまった感覚です。  私が生徒の頃、私のいとこに赤ちゃんが生まれました。親戚の中では久しぶりの赤ちゃんです。遠くに住んでいるので、ときどきしか会うことができませんから、会うたびに成長していきました。ある時、その子がトコトコ歩くようになっていて私の方へ向かってきました。手を差し出した私は、ふいに不思議な感覚を覚えました。高速エレベーターで下がり続けるような、お腹がふわふわした感覚です。胃の底が抜けてしまって、空気がどこかへ抜けているような感覚です。そのあとも、小さい子どもの近くにいるときに限って起こる感覚でした。  その感じを思い出したのは、大人になって読んだ小説のラストシーンでした。小説の最後、わだかまりのあった姉と妹が心を通わせる場面で、妹である語り手は「その時、私の心は奔流のように激しく姉に向かった」と書いています。奔流というのは、激しい勢いの流れのことです。心が人から人へと激しく流れていくという表現を読んで、昔私が小さい子どもに対して感じた感覚も、そう表現できる何かだったのかもしれない、と思いました。あのふわふわした感覚は、私の心の空気が小さい子どもをめがけて流れていくところだったのかもしれない、と思いました。そしてそれはもしかすると、「愛」という感覚だったのかもしれません。「痛み」の感覚、「熱」の感覚があるように、「愛」そのものの感覚が私たちには与えられているのです。  体の感覚は極めて個人的なものなので、「痛い」ということがどういう感じなのか、みんなも同じように感じているのか、確認することはできません。でも、私たちには言葉があります。「今日は、寒いね」「そうだね、寒いね」と言葉を交わすことで、私が感じている「寒い」という感覚を相手も持っているんだな、と推測することができます。同じように、「愛する」という感覚は、万人が同じように持っているかどうかはわかりませんが、他者を大切にすることの大事さを、何度も言葉で確認することで、補われ、強められるはずです。それが、教育の持つ大きな役割でもあると思います。  最初のクリスマスに、天使が羊飼いに現れて、救い主の誕生を知らせました。羊飼いはさっそく行って乳飲み子を見つけ出しました。東の国の博士たちは星に導かれて王として生まれた方のところへやってきました。羊飼いや博士たちは、動物のにおいのする汚れた飼葉おけに寝かされた小さな小さな赤ちゃんを見て、どんな気持ちになったでしょうか。神さまが私たちにくださった尊い贈りものとして、ひれ伏して礼拝すると同時に、お腹の底が抜けて心の空気が激しく赤ちゃんの方に向かうような「愛」の感覚を呼び覚まされたのではないでしょうか。すべての人の罪をあがなうために、大切なたった一人の子どもを神さまがくださった大きな愛に感謝すると同時に、この子が少しでも暖かく快適に過ごせるように何かしてあげたい、大切にしてあげたい、という気持ちになったのではないでしょうか。  まぶしい光に満たされた神さまのもとに生まれるはずだったのに、暗く、貧しく、危険に満ちた、この世の底の底にイエスさまはお生まれになりました。暗く、貧しく、悪にとらわれた、私の心の底の底にお生まれになりました。それは、私を救うためであり、私に愛の感覚を呼び覚ますためでもありました。そしてその二つは、同じことなのだと思います。私が、生まれたばかりの赤ちゃんを大切にしたい気持ちを他の人すべてに対して持つことができれば、私は救われるのです。それがクリスマスの喜びです。  24日には教会でのクリスマス礼拝とイブ礼拝、25日には学校のクリスマス礼拝があります。大切に礼拝を捧げ、救い主の誕生の喜びを分かち合いましょう。  お祈りします  主イエス・キリストの父なる神さま、  今日も私たちを目覚めさせ御前に集めてくださり感謝します。 私たちを創られたときに、愛の気持ちを私たちの体に組み込んでくださってありがとうございます。私たちが、互いに大切にし合うことができるように支えてください。いちばん大切なひとり子を私たちに下さってありがとうございます。私たちにはお返しに差し上げる立派なものはありませんが、私たちが互いに大切にし合うことで、少しでもお返しができるようにしてください。  このお祈りを主イエス・キリストのお名前を通して御前にお捧げします。アーメン。
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