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2019.2.27 / 学校生活 /

放送礼拝 黒田先生

2019年2月27日 ヨハネの手紙一 3章18~20節

 賛美歌『アメイジング・グレイス』は世界中で歌われ、たとえキリスト教にあまり縁がなくても良く知られた曲です。おそらく皆さんもほとんどの人が知っていると思います。歌詞の内容としてはその名の通り、「神の驚くばかりの恵み」を歌っています。『アメイジング・グレイス』の作詞者は、18世紀~19世紀のイギリスを生きたジョン・ニュートン(1725~1807)という人物です。ニュートンの生涯を紹介すると、彼は貿易船の船長の息子としてロンドンで生まれました。母親は熱心なクリスチャンでしたが、ニュートンが7歳になる前に病死してしまいます。ニュートンは11歳で父と共に船に乗るようになり、さまざまな経緯を経て奴隷貿易に携わるようになりました。奴隷貿易とは、16世紀から始まり、アフリカ大陸の黒人が労働力としてアメリカ大陸に売り飛ばされた貿易を指します。そこでは、人が人として扱われなかったのです。しかし、22歳の時、ニュートンに転機が訪れます。アフリカ大陸からイギリスへ戻る時に、激しい嵐がニュートンの乗っていた船を襲います。船が転覆してしまう危険がある中でニュートンは、昔母親を通して触れていた聖書の神を思い出し、必死に祈ります。すると、船は奇跡的に嵐を免れ、この時からニュートンは神へ目を向けていきます。その後、ニュートンは奴隷貿易をやめて神学を学び、38歳で英国国教会の牧師になってから、生涯その働きにつきました。『アメイジング・グレイス』はこの牧師時代に作詞された曲です。私も幼い頃、母親からこのニュートンの話を聞いたことがあり、「ニュートンは良い人に変えられて良かったなぁ」という印象を抱きました。しかし、このニュートンへの印象が一新される機会がありました。それは、大学時代に通っていた教会で、映画『アメイジング・グレイス』を観た時です。

映画『アメイジング・グレイス』は2006年、イギリスで製作され、日本では2011年に公開を迎えました。この映画の主人公は、タイトルに反してジョン・ニュートンではありません。同じ18C~19Cのイギリスを舞台に、奴隷制廃止に命を懸けた政治家ウィリアム・ウィルバーフォース(1759-1833)が主人公です。映画は1807年に奴隷貿易廃止法がイギリスの議会で可決されるまでのウィルバーフォースの苦労と神への信仰を描くものになっています。この映画では、ウィルバーフォースがニュートンのもとを訪れる場面があります。そこで、ウィルバーフォースは奴隷制の悲惨さを人々に訴えるため、かつて奴隷貿易に関わっていたニュートンに証言を依頼するわけです。そこには、神の許しを受け取りながらも、同時にかつての罪を背負い続け、それに悩むニュートンの姿がありました。実際ニュートンは、自らが記した書物で「私が(奴隷貿易に携わっていた時に)アフリカ沿岸で見たり、聞いたり、感じたりしたことは深く私の記憶に刻まれているので、記憶力があるあいだ私はほとんど(そのことを)忘れることはないし、大きく勘違いすることもないだろう」と述べているので、それは信憑性が高い描写であるように思います。どうであれ、私は少し衝撃を受けました。それまでの私は「神に許されて、感謝」というある意味楽観的なニュートンの姿しかイメージをしていなかったからです。でも、良く考えてみたら、奴隷貿易の悲惨さを目の当たりにし、その当事者であったならば、その方が自然なことに思います。

 私たちは、時として仮に意図せずとも心無い言葉や行動をとり、他者を傷つけてしまうことがあります。そういう時は自分が一番、自分自身に情けなさや怒りを感じ、自己嫌悪に陥ります。それは、いわゆる「良心に咎めを感じるから」ではないでしょうか。普段私たちは自分の心にある良心で、善悪の判断を下しているわけです。けれども、聖書は私たちの「良心」以上に重要で確かなものがあると語っています。それは神の恵みです。今日の聖書箇所は「たとい自分の心が責めたとしても、神は全てを知っていて、その心は大きいのだから、神の御前に行きなさい」と語っています。私たちが仮に、自分自身をどれだけ惨めだとか、弱いとか、もう誰も受け止めてくれないとか思っても、神の恵みは私たちを追ってきます。神は恵みの故に私たちを見捨てず、共に問題を背負ってくださるのです。しかも、私たちの状況や状態に関わらず、無条件で。

ニュートンは、自分の過去の過ちが消えない事実であり、それを思い出す度に自分の心が自分を責めたかもしれません。そこには想像できないほどの葛藤があったに違いありません。けれどもその度に、彼は神の驚くばかりの恵みに立ち、許しを受け取り、共に重荷を負ってくださる神に目を向けました。私たちはひょっとすると、ニュートンほどに他者に酷いことをしたことはないかもしれません。しかし、私たちも同じ弱い存在であることを思う時に、いつも神に憐れみをかけられている者として、18節にあるように言葉や口先だけではなく、愛による行いをもって自分自身や他者に向き合うことが私たちには必要なのではないでしょうか。その神の恵みに私たちが立ち続ける時、またたとえ忘れてしまったとしても、思い起こす時に、きっと私たちを取り巻く一つ一つの環境や物事はより愛のあるものへと変わっていくのではないでしょうか。

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